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永禄二年は桶狭間の戦いの前年で、まだ織田信長は無名です。年齢は光秀三十一歳、信長二十六歳、秀吉に至っては二十四歳でした。
この後、謎の男の手によって、足利家に眠る聖槍を手に入れます。
雨の音で目が覚めた。
まだ太陽が顔を覗かせぬ薄暗い早朝、東の空だけが赤味を差していた。十兵衛は夜具を払うと静かにたたみ、隣でぐっすり眠る同僚の修道士を起こさぬよう、そっと礼拝堂へ向かった。薄暗い廊下の燭台に灯る蝋燭が、昨夜の出来事を引きずるかに揺れている。
老僧の予言からはじまって、焙り出された驚愕の事実と、それに伴う死。決して、ただの偶然とは思えない。何より麻利亜というくノ一の驚きようは尋常ではなかった。ビエラが老僧から、聖槍のことを聞かされたときの比ではなかった。いったい銀貨に何が隠されているのであろうか。
礼拝堂は仄暗い。飾り絵の描かれたステンドグラスの外は薄っすら明るいが、射し込む光は隅々まで届かない。闇に覆われていた。それでも徐々に目が暗さに慣れると、遮られていた視界が立体的に広がってくる。
数歩ほど進んだ所でふと人の気配を感じ、十兵衛は祭壇に目を向けた。天窓から射す彩光を一身に浴びて、修道士が一人祈りを捧げていた。
停泊する南蛮船に乗っていた修道士である。髪は皆のように上部を剃髪せず、短く刈っていた。容貌も鼻すじが通り口元もさわやかなのだが――視線が奇怪だ。
齢は五十歳ぐらいだと思われる。下船の際、肩の後ろに枇杷を背負い手に長杖を突いていた。粗末な修道服を身に着け、所作も風変りだった。同僚の修道士が首をすくめていたのを思いだす。
確か名前をロレンソと言っていた。ポルトガル語やモンゴル語など五ヶ国語を操り、国籍も経歴も不明だが、琵琶を所持しているので日本人の可能性も高い。
十兵衛は祈りを邪魔せぬよう、静かに扉を開けて外へ出た。西の方から青空が広がっていた。
乗船がはじまる頃には、亜熱帯に近い澳門特有の太陽が容赦なく十兵衛の顔を照りつけた。上半身を裸にさせた支那人荷夫が汗を掻きながら重い荷物を運んでいく。十兵衛も細々としたものを麻袋に入れて運んだ。その横を、ビエラが三人の支那人を伴って乗船してきた。
先頭の支那人は小柄で粘っこい目つきの男だった。甲冑こそ身に纏っていないが、どう見ても明国の役人としか思えなかった。それを守るように屈強な男が二人、刃を仕込んでいるのであろう長杖と、革に納めた剣らしきものを装備していた。
異様だ。乗組員も、他の修道士も、事前に聞かされていないのか戸惑いを見せている。が十兵衛にはピンとくるものがあった。おそらく前夜、ビエラは総督に会い胡宋憲を交えて密談したに違いない。そして王直を問いつめたのだろう。
でもなぜ武器を隠し持った支那人を乗船させたのか。槍を奪還するには少ないし、総督とビエラの真意が計れなかった。
どちらにせよ槍がらみの乗船であることは間違いない。聖槍とはそれほど魅力あるものなのか。それとも脅威なのか。ビエラの表情は暗い。足どりも重そうだ。十兵衛に会釈をするでもなく、考え込むようにして通りすぎていった。
銅鑼の音が鳴った。桟橋の杭から鎖が外され、南蛮船はゆっくり陸地を離れていく。海面を撫でる風は十兵衛の心配をよそに穏やかで、心地よく帆を孕ませ帆桁を揺らす。
かつて元の軍船が数千艘、三度も海の藻屑となって消えてしまったとは到底思えない。トビウオの群れが海面をはねている。太陽の光に乱反射して、波のきらめきが硝子細工のように光っていた。