ある物に語られる馴れ初め
久しぶりの投稿です。
現実がいろいろ落ち着き、ふと思いついて書いてみました。
変な物語となってしまいましたが、どうぞよろしくお願いします。
一つ、馴れ初めの話をしよう。
あれは今から何年前のことだったか。正直、よく覚えていない。五年前だった気もするし、十年前だった気もするし、一昨日の出来事のような気もする。まあ、しかし、いつそれが起きたなんて、大した意味はない。重要なのはそれが起きたということだ。とはいえ、やはり気になるかもしれないから、一応二千四百五十八日前ということにしておこう。この日はボクとカノジョが運命的な出会いを果たした日であり、ボクがカノジョに一目惚れをした日でもある。この出会いについて、叙情詩のように語りつくしてもいいのだが今日はやめておこう。今回の主役は、運命的なボクの出会いのついでに起こった、ボクの所有者の出会いである。
ボクの所有者──個人情報保護のため、田中太郎(仮)君としておこう──は、その日いつもと同じように会社に出勤している途中であった。そして、いつもと同じように田中(仮)君はボクと対面しながら道を歩いていた。危険だからやめればいいものを、とボクは思うのだが、田中(仮)君はボクを見ながら歩くことをやめないのだ。確かに人通りの少ない道ではあるが、ちゃんと車の通る道だ。いつか必ず車に轢かれるぞ、とボクは予想していたのだが、何となしに轢かれてしまえと思った瞬間、田中(仮)君は見事に車に轢かれた。それはボクが集める情報の中でも、一番と言ってもいいほどにきれいな轢かれ方だったと思う。これほどまでにきれいに人が弧を描くのだなと、宙を舞いながらボクは感心してしまった。
と、のんきなことを考えていたが、田中(仮)君が轢かれたということはボクも轢かれたということである。しかし、ボクに何ができようか、咄嗟に轢かれてしまったと認識できても体を動かすことはできないのである。為す術もないままにボクは地面に転がり、田中(仮)君も地面をゴロゴロと転がっていた。ここでボクの一生は終わるのかと思ったが、意外となんともなかった。かすり傷はできてしまったが、それだけである。一応、田中(仮)君の方を気に掛けてみると、ガバリと身を起こし、ケロリとしている。相変わらず頭の回転が遅く、何が起きたのか理解できずに周りをキョロキョロしているが、無事だったことに差し当たりは安心しよう。
そんなこんなで状況を確認していると、田中(仮)君を轢いた車から一人の人物が慌てて飛び出してきた。飛び出してきた人物は若い女性──ここでは山田花子(仮)さんとしておこう。車から飛び出してきた山田(仮)さんは、簡単に言えばパニックに陥っていた。田中(仮)君を見て、おろおろとして、思いついたように「消防車を呼ばなきゃ」と言ったときのガッカリ感といったらなんとも言えなかった。だが、ボクはこの時の山田(仮)さんに感謝をしなければならない。
なぜなら、この時、ボクはカノジョに出会えたのだから。
カノジョはもうそれはそれは美しかった。この世ではあり得ないほど超絶な美しさを持っていた。さらに、美しさだけでなく、まるで今にも咲く蕾のような可愛らしさもを兼ね備えている。言葉で言い表すにはおこがましいほどだった。
しかし、強いて言葉にして、一言いうならば、ボクの好みにドッキュンした。そう、ドッキュンしたのだ。
カノジョのことをもっと語りたいことは山々であるが、話が進まないと言われそうなので話を戻そう。とりあえず、山田(仮)さんは消防車を呼ぼうと電話をかけた。山田(仮)さんは何度も「消防車を」と連呼していたが、後に来たのはきちんと救急車であった。電話を受けた側はそれなりに優秀な人だったようで、非常に助かった。
ただ、この救急車が来るまでの間に起きたことが、またもや意味不明なことにつながるのである。一先ず「消防車」を呼んで落ち着いた山田(仮)さんは田中(仮)君の様子を見ようと近づいて来た。そして、田中(仮)君はきっとはっきりとしない頭のまま、近づいてくる山田(仮)さんをぼんやりと見て、何かに気が付いたようにハッとした表情になった。その時である。こともあろうに、田中(仮)君は山田(仮)さんに対して、「好きです! お付き合いを前提とした結婚をしてくれませんか!!」と述べたのだ。これに対して一番パニックに陥ったのは、やはり山田(仮)さんである。山田(仮)さんは、この言葉を聞いた瞬間、顔を青ざめ頭を抱えてその場にふさぎ込んでしまった。山田(仮)さんの様子を見て、冷静さを取り戻した田中(仮)君は「ごめんなさい、混乱してました」と山田(仮)さんに伝えた。もう既に泣きそうになっていた山田(仮)さんは、安心したようなそうでないような表情になりながら顔を上げた。だが、そこにすかさず田中(仮)君は「結婚を前提としたお付き合いをしてくれませんか!」と叩き込んだ。山田(仮)さんはこの世が終わったような絶望を表情に浮かべ、「ごめんなさあい、私のせいです!」と泣きそうではなく、泣きじゃくっていた。山田(仮)さんの急変に慌てた田中(仮)君は、それでも「結婚を前提としないお付き合いはだめですか?」と喰い付き、さらに「お友達からではだめですか?」としがみ付いていた。しかし、山田(仮)さんはもう田中(仮)君の言葉を聞く耳を持たず、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きじゃくり、これでもかと頭を地面にこすりつけていた。きっと、山田(仮)さんは、車で轢いたことで田中(仮)君の頭がおかしくなったと思ったにい違いない。
大丈夫だよ、山田(仮)さん。田中(仮)の頭がおかしいのは事故以前からだ。と、伝えたいものであるが、ボクにはどうしようもこうしようもない。
そういうわけで傍から見れば、状況は簡単だが理解が追い付かない事態なってしまっていた。交通事故が起きて、被害者が加害者に告白する事態に、彼らの周りに集まり出した野次馬たちもどうしたらいいかわからないというようになっていた。救急車が来るまで、この事態の収拾がつくことはなかった。
この時、ボクは何をしていたかというと、カノジョとのお話に励んでいた。「本当にすいません」とか「大きな怪我はないみたいですね、よかった」とか「とりあえず救急車を大人しく待ちましょう」とか、カノジョと言葉を交わしていた。
真摯にこちらを心配してくれるなんて、何と心優しき女神。
ではなかった。話を戻そう。この後は、ボクとカノジョが会話に勤しんでいる間に救急車が来て怪我の治療で二人とも乗せられていった。ボク自身も田中(仮)君に忘れられそうにはなったが一緒に同乗し、病院に向かった。結果から、言えば大したことはなかった。念のため、田中(仮)君は数日入院ということにはなったが、打ち身程度の軽傷で済んだ。山田(仮)さんも、田中(仮)君の容態を聞いて安心し、土下座した時に出来てしまった額の怪我を治療した。何はともあれ大事に至らなくてよかった。
だがしかし、これにて一件落着と終わらなかったのが田中(仮)君であった。
山田(仮)さんがお詫びを兼ねてお見舞いにやってきた際、モーレツにアタックを決めた。山田(仮)さんは「あわわわわ」とまた慌てふためいた。だが、田中(仮)君のアピールを聞くうちに、何か決意を秘めた目になり、田中(仮)君の申し出を受けたのだ。ボクはこの時、呆然としてしまった。
田中(仮)君のあほみたいな告白を受けるだなんて、頭が逝っちゃっているとしか思えない。後に山田(仮)さん本人が言うには、「自分が轢いてしまったことで頭がおかしくなってしまったのだから責任を取らなくては」と思ったそうだ。しかし、残念ながら、田中(仮)君の頭がおかしいのは元からである。見事な勘違いだ。まあ、恋は勘違いから始まると言うし、ボクから言えることもない。決して、彼らがお近づきになればボクが彼女に会う回数が増えるなんて微塵も考えていない。
ともかく、これで田中(仮)君は山田(仮)さんの連絡先を手に入れた。これからは二人の明るい未来を──とはうまくいかなかった。あれ程に押していた田中(仮)君がものすごくヘタレてしまったのだ。デートの約束を取り付けることはおろか、ただ電話をしたり、メールを送ることにすら恥ずかしいと躊躇ってしまった。ボクを目の前にして田中(仮)君の悶える姿は非常に見苦しかった。もう見ていられなかった。何が嬉しくて男の悶える姿を見続けなければならないのか。これでは、ボクにとってただの拷問でしかならない。ボクとしてはこんな拷問よりも、またカノジョと会いたい。何としても、もう一度会ってお付き合いのチャンスを掴みたい。そのためには、田中(仮)君に山田(仮)さんとデートをしてもらわなければならないのだ。それがボクとカノジョが会える方法だ。だが、田中(仮)君が使い物にならないままだ。
だから、ボクは田中(仮)君に無断で、勝手にメールを送ることにした。
送信した時の田中(仮)君は目を白黒させ、慌てふためいた表情は非常に面白かった。だから、カメラモードを起動させて写メを取ったのだが、田中(仮)君に消されてしまった。なんともったいないことを……。とはいえ、ボクがメールを送ったことによって田中(仮)君は山田(仮)さんとデートすることができ、無事にボクも彼女と再会を果たした。その後も、田中(仮)君や山田(仮)さんがヘタレる度にボクとカノジョが無理やりに連絡を取り合った。結果として、田中(仮)君らはしっかりとお付き合いをして、結婚までに至った。
もちろん、ボクの方もカノジョに想いを告白し、カノジョもボクの気持ちを受け取ってくれた。何という幸せ。もう死んでもいいと思えるほどの幸福に身を浸らせたボクは、残りの生もカノジョと幸せに生きていこうと誓った。
そうそう、今回、何故ボクが田中(仮)君と山田(仮)さんの馴れ初めを話したかというと、彼らの娘である千恵ちゃんが「おとーさんとおかーさんはなんでけっこんしたの?」と言ったからである。なのに、田中(夫)君と田中(妻)さんは恥ずかしがってお茶を濁そうとする。そんな訳で、ボクが千恵ちゃんに包み隠さず全てを話すことにしたのだ。
だが、悲しきことかな。ボクの言葉は千恵ちゃんに伝わらない。
今となっては、本職も引退した身。ご隠居となって過ごすこと幾数年。ボクとカノジョは電話を繋げることもメールを送ることもできない身となってしまった。でも、だからといって不幸というわけでもない。今、ボクたちは千恵ちゃんと電話ごっこに興じて、楽しく過ごしている。いずれは千恵ちゃんともこのようなごっこ遊びをするようなことはなくなるだろう。そのまま、静かに錆びれてしまうだけかもしれない。だけど、田中(夫)君に買われて、こんなにも面白い出来事に出会い、幸せな生を過ごしたことに後悔はないし、不満もない。むしろ、満足だ。
だから、これからはカノジョと共にこの一家の行く末をしっかりと見守っていこうと思う。