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出会いと別れ

 クリスが死んだ。

 三日三晩泣いた後、心にぽっかりと穴が開く、の意味を実感する。これが世に言う喪失感なのだと思う。世の中は何も変わっていないはずなのに、全ての物事が不完全に感じる。

 私は玄関に座りこんで制鞄につけた鈴の首輪をいじる。聞きなれたはずの鈴の音がずっと遠くで空虚に響いている。

 学校になど行きたくない。しかし校則によると、親戚の不幸でようやく一日だけ欠席が認められる。つまり本来、私には一日たりとも欠席を認められていない。

 母が何かを言っている。言葉は私に触れることなく通り過ぎ反響している。頭の中で意味を結ばないが、急かされているのは分かった。重い腰を上げて私は家を出る。


 太陽は強く照り、蝉の鳴き声もまた力強い。生命力に満ちているその様子が理不尽に思えた。その直後に、あの蝉も数日後には死ぬのだと気づき、陰鬱な気持ちになった。

 私は私の濃い影を睨みつけながら学校への道を歩いていく。

 ふと気配のようなものを感じ、顔を上げると私と同じくらいの年の同じ制服を着た女の子が立っていて目が合う。


「え、えっと。こんにちは」


 突然挨拶されて驚いたものの、私も反射的に挨拶し返す。


「こんにちは」


 返事をして、でも立ち止まらずにその子の前を通り過ぎた。

 するとその子は後から追いかけてきて、私の隣を歩きだす。私がどうしていいのか分からず、どぎまぎしているとその子は話しかけてきた。


「実は転校生で編入する事になって、それで今日が初登校日なんですよ」

「へー」


 気の無い返事しか出来ない。何で私なんかに話しかけるんだろう。


「な、何年生ですか?」


 何でそんな事知りたいんだろう。私は試すような返事をする。


「何年生に見える?」


 この子は何年生だろう。私より背が高いけど年上には見えない。


「一年生? とか?」

「そう見えるって事?」


 嫌な言い方をしてしまう。一年生であってるのに。こんなのだから私は……。


「ええ、その、何となく。二年生でした?」

「一年生よ」

「そう……」


 きっと戸惑っているだろう。でも私だって戸惑っている。だから少しくらい多目に見てくれてもいいはず。

 私はアスファルトの臭いに顔をしかめつつ、ひたすらに歩き続ける。先に行く事も先に行かせる事も出来そうにない。


「本当! 私も一年生だよ。同じクラスかもしれないね」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわ」


 どちらかというと同じクラスになる確率の方が低い。


「うん。あなたのクラスは?」

「私のクラスは……」

「やっぱり待って。着いてからのお楽しみにする」


 何が楽しいものか。何より同じクラスになった場合の方が楽しくない事態になる。


「そう……。仮にそうだとしても私達は仲良くなれないと思う」


 仮に仲良くなれたとしてもそれは一時的なものに終わる。


「意外と趣味が合ったり気があったりするかもよ」

「かもしれないけど、私が言ったのはそういう意味じゃないわ」

「私の事は由里子って呼んで。あなたは?」


 唐突な自己紹介でどきりとした。なんだか名乗りたくないけど、隠すような事でもない。


「ウルーリカ・ヴァリアン」

「じゃあウルーリカって呼ぶわ」


 私は肯定も否定もしなかった。たぶんこの子は転校生故の空回りをしているのだろう、と思う事にした。

 その後も学校につくまで由里子はひたすら喋っていた。何だか申し訳ない気持ちになった。



 由里子とは下足室で別れ、私は教室へ向かう。

 教室に入ると全員の視線が一瞬集まり、一斉に逸らされる。ほんの少し前まではみんなの朝の挨拶を聞いて、私も朝の挨拶を返していたのに、ほんの些細な、本当にくだらないきっかけを境にこの教室は私にとって居心地の悪い場所になってしまった。

 佐久間先生が教室に入って来ても、私は窓際の最後部で外の景色を見ていた。耳から入ってくる佐久間先生の言葉によると転校生が来るらしい。今朝会った子だろう。本当に同じクラスになるとは。

 先生の後から入ってきた由里子は自己紹介をした後、空いている席に座った。松岡の隣の、今は誰も座っていない席だ。


 朝のホームルームはいつも通りの連絡事項の確認だけで終わりる。次の授業までの些細だけど落ちつかない休み時間だ。

 耳の端に松岡が由里子に話しかけているのが聞こえた。何を言っているのかは聞かなくても分かる。だけど聞こえてくる。私に聞こえるように言っている。


「あんたに一つ知っておいてもらいたい事があるんだ」


 転校そうそうあんなのに絡まれて可哀そう。そして申し訳ない。


「誰? 何?」

「松岡沙耶。よろしく。このクラスで生活する上で気をつけた方が良い事を教えてあげようと思ってね」

「だからそれは何なの?」


 窓の反射越しに見えた松岡沙耶の視線が私の背中に突き刺さる。


「ウルーリカ?」

「何で知ってんの?」

「ちょっとね。今朝たまたま知り合ったんだよ」


 知り合ったというか、一方的に声をかけられた気がする。見知らぬ人に話しかけるなんて私にはとてもできない事だ。


「ヴァリアンとは口利かないで」


 そら来た。小学生か!

 由里子は少し思案気な間を開けて答える。


「いいよ。努力する」


 でも、そうだよね。少なくともこの教室に居る皆はそうだもの。


「約束したからね。そうそう。転校生さんに学校案内してあげようか。昼休みで良い?」

「よろしく」


 こうして松岡と由里子は仲良くなるのだろうか。私を無視するとしてもあの二人が仲良く出来るようには見えない。私はちくちくする心を優しく撫でた。



「まるでウルーリカと友達になりなさいって神様が言ってるようだね」


 中庭のベンチに座って黙って弁当を食べていると、由里子が話しかけてきた。私は驚いて何も言う事が出来なかった。

 二つの意味で松岡との約束はどうしたのだろう。


「ねえ、隣に座っていい?」


 顔を上げて目を合わせても何て言えばいいのか分からない。

 何か企んでいるのだろうか。そういう正確だとも思えないのに、私は癖のように警戒してしまう。

 由里子は返事を待たずに隣に座ってしまった。そして弁当を開き、箸を持って食べ始める。とても美味しそうに食べている。

 本当に、何が目的なのだろう。


「何で私に構うの?」


 由里子は中庭の真ん中にある鯉が飼われている池を見つめながら言う。


「理由はいくつかあるけど、どれもつまらない理由だよ。でもあえて一つ理由を上げるなら、押すなって言われたボタンは押したくなる! みたいな」

「あなたまで無視されるわ」

「由里子ね」


 少しの間を開けて私はもう一度言った。


「由里子まで無視されるわ」

「別に良いよ。その時は目には目を、歯には歯を、シカトには鉄拳を」


 思わず笑ってしまう。由里子は、どこか彼女に似ている。


「乱暴な構ってちゃんね。何だか私の友達に似てる。名前も似てるし性格というか振る舞いというか」


 由里子は首を傾げて私の方を見た。私は反射的に目を逸らした。


「さぞかし私に似て可愛んだろうね。別のクラスの子?」


 私はもうこれ以上無理な程に俯いてしまう。


「もういない」


 二度と戻ってくる事はない。永遠に会えない。気まずい空気が二人の間に横たわる。


「ウルーリカはどこの出身なの?」


 由里子も同じように感じていたようだ。


「一応スウェーデンだけど。日本での暮らしの方がずっと長いわ」

「両親ともスウェーデン人?」

「そう」

「その弁当はお母さんが作ったの?」

「ううん」

「じゃあお父さん」

「ううん」

「じゃあペットの猫だ」


 思わぬ発言に少しびっくりした。


「冗談だよ。ウルーリカが作ったんだね。サンドイッチとかじゃなくて意外に普通のお弁当なんだ。とても美味しそう。一口ちょうだいな」


 涙が零れた。ぎりぎりで保たれた色んな思いが由里子の優しさで溢れかえった。


「ウルーリカ。ごめん。意地悪するつもりじゃなくて」

「違う。違うの」

「じゃあ松岡さん達の事?」

「あいつの事なんてこれっぽっちも気にしてないわ」


 嘘。


「じゃあ何で」

「いいの。気にしないで。とにかく私に関わらない方が良い」


 由里子が嫌な思いをして欲しくない。そういう思いが生まれていた。


「私が誰かに関わる事を他人に決められたくない」


 由里子は由里子で向きになる性格のようだ。


「でも、相手がそう言ってるんだから」

「じゃあせめて何でこうなってるのか教えてよ。事の経緯ってやつを」

「大したことじゃないわ。松岡さんが髪を染めて校則違反で注意された。地毛の私は注意されなかった。だからよ」


 由里子は呆気にとられていた。私だってそうだった。そんなつまらない理由で。


「くだらない! とてつもなくくだらない!」


 由里子は弁当を凄い速さで食べえた。


「そんなものでしょ。大義があったらいじめなんてせずに教師にでも言えばいいのだから。とにかく私は嵐が過ぎ去るのをじっと待って大人しくしてる」

「ウルーリカはそうすれば良いけど、私がどうするかは私が決めるから」


 由里子は一人立ちあがり、中庭を去った。



 次の授業は理科室で行われる。いわゆる移動教室というやつだ。クラスメート達は授業の準備をしてお喋りしながら教室を出ていく。由里子はいない。もう理科室に行ったのだろう。

 私も遅れないように準備を始める。だけど私の手は止まった。視界の端に映ったものが、いや映らなかったものに気がついた。机の横にかけてある鞄に首輪がついていない。クリスとの思い出の首輪が消えている。


 私は教科書を全て放って教室を飛び出した。松岡がいるであろう理科室を目指して。

 しかし松岡は途中の廊下で待ち構えていた。壁に寄りかかり、窓から中庭を見下ろしていた。そして今気付いたかのように私を見る。


「どうしたの? 怖い顔して」


 松岡の鋭い眼光はまるでこの私が悪いと言わんばかりだ。


「……首輪を返して」


 松岡はわざとらしく首をかしげる。


「え? 聞こえないんだけど」

「首輪を返して!」

「怒鳴らないでよ。うーん。でも私は持ってないからな」

「どこにあるのよ」


 松岡は再び窓の外に目を向ける。


「そういえば知ってる? 中庭の鯉ってサイズ次第で何でも食べちゃうらしいよ?」


 松岡の嫌な笑い声から逃げるように、中庭を目指して私は走った。堪えていた涙を引き続き堪える。



 濁った池の中で鯉の影が優雅に泳いでいる。優雅に泳いでいるはずだけどそれはどこまでも不気味な影に過ぎない。

 池を一周して首輪を探すが、見当たらない。鈴が反射しでもしないかと淡い期待を抱いていたが泡と消えた。このような濁った池の底には光も届きはしないだろう。

 決心して足を突っ込む。ぬめる。おぞましい。その池自体が何かの生き物の体内のようだ。妙に温いのが一層気持ち悪い。

 一歩一歩足の感触で確かめながら進む。たまに触れる鯉に驚き、紛らわしい小石をおっかなびっくり拾い上げ落胆する。そうして授業の終わりのチャイムが鳴るまで池をさらった。

 その時何かが視界の端で光った気がした。反射的に振り向くと重い水に足を取られ、私はあえなくひっくり返った。薄汚れた水に覆われてもがく。鼻や口から池の水が浸入する。惨めさがこみ上げる。きっと私は今泣いている。

 誰かに手を掴まれ、立ち上がらせてくれた。温かくて力強いそれは由里子の手だった。


「大丈夫?」


 私が手で顔を拭おうとすると、それを止めて、由里子は自分の制服の袖で拭ってくれた。


「私の、大切なものが、私の」


 思いのほか涙声になっていて恥ずかしい。


「何? 大切なものって?」

「首輪。とても大切なものなの」

「ああ、鞄につけてたやつ?」


 気付いていたようだ。変な子だと思われただろうか。今更か。

 私は首を縦に振る。


「それを池に落としたってわけね。仕方ないな。私も手伝うよ」

「悪いわ。これ以上迷惑かけられない」

「もうびしょ濡れだから、同じだよ」


 結局今まで一時間も探して見つからなかったのだけれど、由里子なら見つけてくれるような、そんな気がした。

 だけどやっぱり、二人がかりでも全然見つからない。


「鯉が食べちゃったのかもしれないわね」


 私はぽつりと呟いた。確かに首輪くらい呑み込めそうな大きさの鯉だ。


「いくらなんでも首輪食べたりしないよ」


 由里子が呆れるように苦笑する。


「でもネズミをあげたら食べたって噂を聞いた事あるわ」

「マジか―。さすがに鯉の腹を引き裂くのは抵抗あるよ」

「平然とやられても困るわよ」

「それにしても、何で池に落としたりしたの?」

「私が落とした訳じゃないわ」


 後は言わなくても分かるだろう。由里子は腑に落ちたような顔をしていた。


「何してんの? あんた達」


 噂をすればだ。していないけど。

 松岡沙耶は怪訝そうな面持ちで私達を見ていた。


「お前が原因だろうがあああああ!」


 そう叫んだ由里子は手近の鯉を掴み上げ、松岡沙耶目がけて放り投げた。

 鯉は見事に松岡沙耶の額に当たって跳ね返り、池に戻った。



 それからはもうてんやわんやだ。松岡沙耶は放心状態でその場でうずくまって動けなくなった。私は鯉に酷い事した由里子にこんこんと説教した。いつの間にか野次馬も集まって来て、教員もその中にいて、全ての事情を話した私達は三人ともこってり絞られた。高校生にもなって、という言葉を三十回くらい聞いた気がする。私と由里子はジャージに着替え、共に学校を後にするのだった。

 結局首輪は松岡沙耶が持っており、彼女の意地悪な発言を私が早とちりしたのだった。

 私達は登校時に続き下校でも一緒に帰る事になった。


「由里子は何だかクリスに似てる」


 ずっと思っていた事を口にすると思いのほかすとんと心に収まった。


「クリス? え?」

「言ったでしょ。あなたに似てる私の友達。名前もそっくりね」


 正式にはクリスタルだけど。


「そっくりというか同じだね。名前と苗字の違いはあるけど」


 栗栖由里子は少しばかり気恥かしそうにそう言った。


「スウェーデンの時の友達?」


 頭を横に振る。


「生まれた時からの友達よ」

「幼馴染ってやつか」

「私より少し年上だった」

「それで日本に来て離ればなれに?」

「違うわよ。もちろん日本には一緒に来たわ。クリスは死んだの」


 想定してなかったのだろう。心の中の狼狽が由里子の表情に滲んでいる。


「ごめんね。そうとは知らず」

「いいのよ。分かってた事だから。あの子も随分年だったし」


 彼女は自分の生に満足していただろうか。


「クリスさんは何歳の方だったの?」

「同い年よ。でも人間でいえば八十歳くらいだったかしら」

「クリスって人間じゃないの!?」


 すごい勘違いだ。ん? 言ってなかったけ?


「何かおかしいと思ったらそう言う事ね。クリスは猫よ。この首輪の持ち主」


 何だ、てっきり、と本当に小さな小声で由里子は呟いた。


「じゃあ私の事をクリスって呼べばいいよ」


 そう言って由里子はにっと笑った。

 ジョークで慰めてくれようとしているのは分かったし、思いがけない言葉のはずなのに、それもやはりしっくりした。


「え? いいの?」


 とても真剣に聞き返す。由里子に期待の眼差しを送る。

 明らかに困惑していたけど私は押し切る。そう呼びたい。


「もちろん」と、クリスは言った。


 仲良くなった結果、苗字を呼び捨てする事になろうとは。


「じゃあ、これあげる。友達の証ね」


 私は薄いブルーの猫の首輪を差し出した。


「これは形見みたいなものでしょ?」

「そう? 元々私があげたものよ?」

「そりゃそうだ。まあいいや。ありがたく受け取るよ」


 クリスは猫の首輪をまっさらな制鞄につけた。

 この時が私、ウルーリカとクリスが友達になった瞬間だと思う。

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