ススメ
久しぶりの残業で、帰りが遅くなった。家に着くのは九時くらいだろう。赤信号で停車し、彼はふと看板に目を止めた。
「事故多発交差点」
今年に入って半年で、もう三件の死亡事故が起きているのは知っている。だが、なぜ事故が起きるのか分からない。信号もあるし、見通しもいい。通行量も多くない。転職してから三年ほど通っているが、危険を感じたことなど一度もなかった。
念のために、青信号になっても左右を確認し、歩行者や自転車にも気を配っている。これまで起きた事故はすべて赤信号側からの飛び出しが原因の単独事故だと聞いたので、アクセルとブレーキの踏み間違いかもしれない。右足の位置を確認しつつ、きっちりブレーキを踏んで停車する。
「しっかし、なんで飛び出すかな……」
自分の前を横切る側の歩行者用信号が点滅し始めた。もうすぐこちらが青になる。その時なぜか右側が気になり、彼は何気なく、顔を右に向けた。
角の商店の窓に、信号が映っていた。もう閉店していて真っ暗なので、周囲の明かりがはっきりと映りこんでいる。これまで意識して見たことのない場景に、彼は思わず目を奪われた。
「そういえば、なんか噂があったよな、ここ……」
青の点滅が終わり、赤に変わったのを確認する。間もなく正面が青になる。顔を戻そうとして異常な違和感を感じ、彼はもう一度窓の中を凝視した。
映った赤信号の人が……歩いて来る……。
「え……?」
左を見る。歩行者信号は赤だ。たしかに赤だが、人はただ立っているだけだ。当たり前だ。
右を見る。窓に映った赤い人は……歩いて来る。さっきより、少しだが明らかに大きく見える。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ」
得体のしれない恐怖が、背中から後頭部へ走る。正面の自動車用信号は、まだ赤だ。時差式だ。ハンドルを握る手に力が入る。
「気のせいだ、気のせいだ、疲れてるんだ、そんなはずない」
噂を思い出した。「『赤い人』が襲う交差点」……頭皮の下が、ぞわぞわと波立つ。大きく深呼吸して、もう一度右を見る。歩いて来ている……しかも、窓から足を踏み出している。歩道を横切り、車道に出て、こちらへまっすぐ――
「……うわああああ!!!」
顔を正面に戻す。身体中の血液が、温度をなくしていく。交差する車道側の信号が黄色になった。それと同時に、視界の右端に赤い光が差す。
低い声が耳の中で鳴った。
「ス ス メ」
反射的に右足が思いきりアクセルペダルを踏み込んだ。
急発進した車は交差点に突入し、黄信号のうちに通過しようとしていた車を避けて急ハンドルを切り、回転しながら歩道の縁石を乗り越えて電柱に衝突して止まった。
角度が悪かったためにエアバッグが作動せず、まともに全身を打った彼は、搬送先の病院で亡くなった。
「なんだよ、また『赤い人』かよ……」
翌日の早朝、交通課の刑事は頭を抱えた。更新されたばかりの「管内の交通事故」の数字を眺めて渋い顔をしている。どんよりと重い空気は交通課だけではなく、この警察署全体を覆っていた。
「すみません、『赤い人』とは何でしょうか?」
配属になったばかりの巡査が質問する。
「ああ、おまえ初めてか……出身、この辺じゃねえんだっけ?」
「はい、県南ですので、この辺はよく分かりません」
「じゃあ知らねえか。あのな、この辺じゃ有名なんだよ、あの交差点」
刑事は周囲を見回し、眉間にしわを寄せて声を落とす。
「なんでも『赤い人』が襲ってきて、逃げようとして死ぬんだと」
「おい、聞いたか? また『赤い人』に殺されたらしいぞ」
「聞いた聞いた! 今年四件目だって」
「もう十人以上死んでるらしいぞ」
「死ぬ間際に、みんな『赤い人が来て……』って言うんだって!」
職場や学校で、家庭で、噂話が飛び交う。
「『赤い人』って、どんな人なんだろうね?」
「赤い服の人?」
「全身血まみれとか?」
「逃げ出すくらい怖いって、どんななんだ?」
「幽霊?」
「死神なんじゃない?」
噂話が、都市伝説になる。
「『赤い人』が襲う交差点」
真相を知っているのは、昨夜の彼を含め現在十二人のみである。