矢切香織の過去
「さて、私には矢切家に仕えるメイドとして、香織お嬢様のおいたわしい境遇を説明する義務が有ります」
「有りません。
とっとと帰れ」
矢切とは、現与那城香織の結婚以前の苗字なのだろう。
主人の言葉も意に介さず、花菱は与那城香織についての話を続ける。
「さて、与那城というと、この日本国を泥沼の民主主義から掬い出し、新たな政治体制として与那城主義を築いた、あの与那城一族のことが思い浮かぶかもしれません。
その通りです。
あの与那城一族についての話です」
『いや、どの与那城だよ。
まあなんとなく、あの熊男の言葉から、どんな奴らかは想像つくけど』
荘司郎は日本に住んでいれば知っていて当たり前の事を知らない。
tehkrytth稼動時点で、荘司郎達人間データには、初期設定として生まれてからの記憶を仮想的に保有している。
データとして生み出されてから記憶が始まるのではなく、本人達にとってはそれより昔の幼少の頃の記憶が存在しているはずなのだ。
全く言葉も喋れないというわけではないので、それなりの期間日本で暮らしている(という設定になっている)はずなのだが、どうにも荘司郎は浮世離れしすぎているように感じる。
>この国の仕組みを作っている人達だよ。
>日本で一番偉い人たち。
『神様みたいなものか。
凄いな』
認識はどうであれ、神という概念は知っているらしい。
荘司郎が特殊なデータであることは間違いないが、絶対的な概念存在を知っているならば、とりあえずのところtehkritthに害を加える存在だとは分類されない。
これならkhajatlughaに突然消されることもなさそうだ。
荘司郎が気を散らしているように見えたのか、花菱が一つ咳払いをする。
「現在の香織お嬢様の苗字は与那城となっておりますが、これは与那城家の末息子である与那城泥之助様と入籍を果たされたため、暫定的にそうなっているのです。
与那城家の生まれというわけではなく、ここ、日本国Y地区で地方自治を一任している矢切家が生まれとなります」
「…………」
与那城は暗い顔をして俯いたままだ。
この花菱に何を喋られることを気にしているのだろう。
今のところは当たり障りのない情報しか出ていないように思える。
「さて、ここまでは現在の話になります。
ここからは時が変わり、過去の話をさせて頂きます。
少し話しが前後していますが、付いて来て頂けていますか?」
「大丈夫だ、続けてくれ」
「いいえ、大丈夫じゃないわ。
続けないで頂戴」
突然香織が(ややこしくなるので大変不本意だが、ここからは香織と表記する)、ベッドから立ちあがって声をあげる。
片目にかかるように巻かれた包帯が、かなりの迫力を演出していた。
「あれは今から五年程前のことです。
あの日のことははっきりと覚えております。
現在もY地区と戦闘行為を行っているS地区から……」
「止めなさい花菱!
これは命令よ!!
これ以上続けたら……」
吼える香織の喉下に、花菱の白く細い腕が絡みつく。
「ひっ!?」
「大吾様に言いつけて、解雇させる?
お嬢様にそれが可能ですか?
ワタクシで宜しければ、代役としてその旨をお伝えしますよ」
あの特徴的な、クスクスという零れ落ちるような笑い声を立てて、花菱の腕が更に香織の首を抱き寄せた。
「…………」
香織が再び暗い顔で俯き押し黙る。
それを見て、花菱が香織の首を開放した。
「続けます。
ある日、S地区の方角からこの矢切家の館に、日本国警察を名乗る集団が、査察という名目で侵入しました。
もっとも本当に日本国の公的な警察だったとは私は思っておりません。
当時は戦闘開始直後だったこともあり、矢切家は武力もそれ程持たず、党首の大吾様を筆頭に抵抗を行いましたが、結果的に館内部への侵入を許してしまいました」
香織が布団を被ってうずくまった。
「侵入した途端、彼らは館に火を放ちました。
夜間だったこともあり、かなりの数の人間が焼死しました。
大吾様の奥様であった矢切詩織様も、その時に亡くなられております。
その時たまたま香織お嬢様のお世話をしていた私、大吾様を含む警察への抵抗を行っていた方々、そして香織お嬢様はすぐに火災に気がつくことができ、彼らから逃げ延びることが出来ました。
……いいえ、出来ていませんでした。
裏口から逃げ出した私達は、その裏口の先で待ち構えていた男達に捕らえられてしまったのです」




