就寝
ログを映すモニタが視界に入る。
最後に実験体Aが私の死体を土の中に埋めるシーンだ。
正直に言ってしまうと生理的嫌悪を感じるが、こんな姿になっても、A太は自分の目的を忘れなかったんだなと思うと、何か暖かなものが私の心の中を流れた気がした。
麗華ちゃんもそんなこと言ってたっけ。
観測者意識介入値が、魔王と芳乃さんがアパートから飛び降りた直後に、急速に減衰していたらしい。
あの時私は初めて、このシェルターの中で行われたあの実験のことを知った。
馬鹿だったな。
tehckrytthのことを父に聞かされた時、私は父がサンタクロースに見えた。
そのプレゼントが一体どのようにして作られたのかなんて、微塵も考えなかった。
ダイニングテーブルの椅子に座って、私はお行儀悪く頬杖をつく。
眼前には真っ黒なクッキー。
勿論私の自作だ。
やることが無いのだ。
この狭くじめじめとした世界では、兎に角やることが無い。
だからクッキーを作った。
食事は必要ないし、食欲も全く沸かない。
けれど、作った。
作ってしまったものは仕方が無い。
食べよう。
流石にこのまま手をつけず廃棄するのは勿体無い。
私はゆっくりと息を吐いて、そして食べた。
まずっ!!
苦いだけならまだいい。
食感がぱさぱさとしているだけならまだまだいける。
だが、その二つが極限まで高いレベルで組み合わさり、奇跡的な化学反応を起こすことで、このクッキーは生物が口にしてはいけない味をしている。
……A太はこんなものをいつも食べさせられていたのか。
私はなぜか、再びキッチンの前に立っていた。
なぜだろう?
きっと悔しかったんだ。
どうやら小麦粉を固めて砂糖を練りこんで焼くだけでは駄目らしい。
正確なレシピが知りたいところだが、生憎与那城家には料理についての本なんてもの置かれていないし、インターネットは私が観測者になる前から通じなくなっている。
おいしいと評判だったアレクサンドリア家のクッキーの作り方を、曖昧な記憶を頼りに再現するしかない。
フライパンの上に丸い生地をのせた。
……なんで私は、こんなに必死になってクッキーを焼いているんだろう。
どうせ私しか、これを食べられる人間はいないし、そもそも私は甘いものがそれほど好きではない。
私は馬鹿らしくなって、調理道具を放ったままリビングへと戻った。
すぐにやることが無くなった。
ここにいる生き物と呼べる存在は、私一人だけだ。
需要が無いので、供給する為の行動を起こす必要が無く、結果何も出来ない。
A太のことを思い出していた。
人間は彼曰く、引っ掻く生き物らしい。
だとしたら、この世界に生きる人間は、本当に人間なのだろうか?
数式で作られた向こうの人間の方が余程人間らしいのではないか?
私はtehckrytthのディスクドライブの前に立った。
これをこの中に挿入したら、芳乃楓という存在は塵一つ残らず消滅する。
しかし、これ以降のバックアップは存在していないし、tehckrytthをもう一度起動させるなら、彼女の消滅は免れられない。
まったく、さらっとやってのけてしまったな、A太は。
あいつだって、芳乃さんが消えることは知っていたんだ。
けれど、天秤にかけるまでも無く、あいつは私とアレクサンドリア家の人々を選んだ。
なんだっけ?
バースさんが言ってた言葉。
私はログを漁る。
『世界中の誰もが病気なんかにならなければ、そりゃもうハッピーさ。
だけど、それは無理な話だ。
今も世界の何処かで誰かが苦しみ続けているし、命を落としてもいる。
だけどせめて、自分の知っている人には、一人も病気なんかには罹って欲しくない。
自分勝手な我儘さ。
だが、人間として持つべき当たり前の我儘だと、俺は思う』
ああ、これだ。
凄く単純な理屈だ。
知っているから、救われて欲しい。
けれど知らない人までは救えない。
だから、知っている人だけでも救えば、最大公約数的に幸せになれる。
確かに人間ならば当然のことで、だからこそ人間って恐ろしい生き物だなと思う。
A太は良く知らなかったんだ。
彼女の事を知らなかった。
だから、知っている私達の方を選んだ。
……私も選ばなければ。
tehckrytthのバックアップシステムは案外単純だ。
外界からのインプットが行われた時、その直前のデータをディスクにアウトプットする。
今、私の手元には、二枚のディスクがある。
片方は、芳乃さんがtehckrytthに入る直前までを記録したもの。
そしてもう片方は、父がtehckrytthに入る直前のもの。
芳乃さんのログを最初から辿っている。
こうしてみると、凄い変な人生を送っているな、この人。
こっちの世界で一昔前に大流行していたアイドルソングを、路地裏で一人歌っていたところに、突然のスカウト。
めぷるとして大流行したり、釜谷恭造を魔王にしたり、その配下になってみたり。
一応、楽しんではいたのだろうか?
そこから先は読むのが辛くて、ついログのスクロールバーを流してしまう。
『私にもわからない。
けれど、これだけは言えます。
もう、二度と……』
『あなたは、また、そうやって、人を玩具にして。
ああ、ああああああああ』
そこで彼女の記録は途切れていた。
二度と、の後に続く言葉が、今の私にはわかる。
私はディスクを差し込んだ。
二度と、実験が行われないように。
二度と、悲しい生き物が生み出されないように。
最後に少し悩んで、私は指紋認証装置に指を押し当てる。
ロックが解除され、専用のキーボードが壁から迫り出してくる。
khajatlughaに関するプログラムの記述を一部を残して全て消した。
これでもう、何が起きたとしても、私が目を覚ますことは無くなる。
次にtehckrytthが終わるのは、私が死ぬときだ。
希望観測的な願掛けとしては、いささかリスクが高すぎる気もするが、あの二人にはどうしても幸せになってもらいたい。
これが親心というやつかもしれない。
靴を脱いで、tehckrytthの上に寝転がる。
あとはこの紐を引っ張れば、全てが始まる。
「さよなら、父さん」
おやすみ。
きっと次は、いい夢が見られる。
私は照明へと繋がるその紐を引っ張って、tehckrytthを起動させた。




