殴打
観測者になる以前、このシェルターで父と暮らしていた頃、唯一このシェルターの中で父に入室を許可されていなかった部屋がある。
多分そこに、芳乃さんが収容されていた。
不恰好なドアを開けると、薄暗い下り階段が姿を現した。
最初の数段は視認できるが、そこから先はべったりと黒で塗り潰されている。
今更そんなところへ行って、何になるというんだろう?
そう思いなおして後ろへ半歩下がるが、まるで扉が手招きをするかのようにキイと耳障りな音を立てた。
結局私は懐中電灯を手に取った。
懐中電灯の明かりを頼りに階段を降りていくと、案外早く最後の段に辿り着いた。
小さな踊り場の先に、まるで私がここに来るのを待っていたかのように、両開きの扉が口を開けている。
扉をくぐると、懐中電灯の光が作り出す円以外は、何も見えなくなってしまった。
芳乃さんの記憶では、確かこの辺りに……。
あった。
私は手を伸ばしてスイッチを横に倒す。
ブウウンという奇妙な音を立てて、手前から見える範囲が広がっていく。
突然、私の視界一杯に、芳乃さんの姿が映しだされた。
まだ実験体だったあの頃の、人外じみた無表情で、芳乃さんはただただ立ち竦んでいた。
たまらず私は声をあげる。
わかっている、これは幻覚だ。
tehckrytthにインポートされている時点で、こちらの芳乃さんは死体になって自動的に塵化処理を施されている。
けれどそれでも、私は声をあげずにはいられなかった。
わかる。
芳乃さんが自分を解剖する場面を観測した私にはわかる。
これは実験だ。
十八時間の間、それ以外の行為は何一つ許されず、ただその場に立たされ続けるだけの実験。
芳乃さんが膝を地面についた。
それを、椅子に座った父が、引っ張りあげて立たせる。
けれどまた直ぐに床に倒れこむ。
溜め息をついて、父が椅子から立ち上がった。
私の意識が現実に帰る。
私以外には、何もない。
この空間には私以外のものは何一つ無い。
確かあの後芳乃さんは、別の人間の足を移植され、また次の実験でその足を潰すことになる。
私は……私はそんなものの積み重ねで出来た毛布の中に、くるまって眠っていたのだ。
私は実験室を出て、階段を駆け上がっていたらしい。
苦しい。
吐きそうだ。
体をクの字に折ったまま、tehckrytthの元へと歩く。
私は倒れこむようにして、tehckrytthを殴った。
カツン……。
私をあざ笑うかのような軽い音が、部屋の中に響いた。




