服用
赤いランプの点滅が目につく。
どうやらシステムは自動的にシャットダウンされていたらしい。
私は何も考えずに、頭部に接続された通信機器を取り外した。
ベッドから上体を起こし、足を床につける。
冷たい。
すぐに布団の中が恋しくなってきたが、私はそのまま歩き出すことにした。
部屋を出る直前に、ドアの横に置かれたコンピューターの時刻表示を見る。
やはり私の体感通り、5年と少しの時間が経っていた。
何かに例えるなら、氷に似た匂いが私の鼻腔をくすぐる。
広く殺風景な空間の中、ところどころに私と父の私物が点在している。
色は青、温度は暑くも無く冷たくもなく、窓も無ければ感情も無い。
そんな、冷たくはないのに冷え冷えとした部屋。
何も変わってはいなかった。
強いて一つ挙げれば、全自動ゴミ処理機に、芳乃さんが摂ったと思われる食事の残骸が入りっぱなしになっていることくらい。
私は帰ってきたのだ。
ようやく今の現実に思考の焦点が合う。
私は壁に思い切り頭を打ち付けた。
痛みも吐き気も無く、額から流れた血の温かさだけを感じる。
本当に生きているんだ、私は。
ふと、向こうで観測した芳乃さんの記憶の中に、冷蔵庫に貼り付けられたメモ書きを読むシーンがあったことを思い出す。
相変わらず雑な字だなと思いながら、丁寧に剥がした。
『瑞希へ。
・起きたら錠剤を飲んでおくように。』
まずい。
忘れていた。
私は震える手で、冷蔵庫の扉を開ける。
いや、開かない。
片手では、もう冷蔵庫の扉すら開けることが出来なくなってきているらしい。
少しずつ、視界の中に黒いものが広がっていく。
私は扉の溝に両手と全体重をかけて、冷蔵庫の扉を引っ張った。
やっとの思いで扉が開く。
思わず尻餅をついてしまった。
結構持っていかれてしまったようで、目蓋が時折完全に落ちるようになる。
耳が割れそうな程の耳鳴りがする。
待ってくれ。
私はまだ、そっちに行ってしまってはいけないんだ。
A太が、与那城瑛太が待ってる。
だからもう少しだけ、待ってくれ。
手に何かの感触が返ってくる。
私はそれを引っ掴んで口の中に放りこんだ。
目が開いた。
それと同時に、本来感じていたはずの痛みが一気に押し寄せてきて、瞳孔も開きそうになる。
よし、このくらい寒い冗談を考えられるなら、まだ死ぬことは無いだろう。
確か洗面台の近くの棚に、消毒液と包帯が入っていたはずだ。
まあ、この部屋にいる限り消毒が必要だとは思えないが、血が目に入りそうで鬱陶しくて仕方が無いので包帯は必要だろう。
洗面台の鏡の前に立つと、まだ少女の私が視界に入った。
まだ少女って、少女以外になったことは無いはずなのにね、と、一人でニヤリとする。
包帯を巻いて顔を洗うと、それなりの美少女になった。
これで結婚できないだなんておかしい。
いや、おかしくなんてないかと思いなおす。
父の予測が正しければ、今頃外の世界は酸素が濃すぎて人間どころか生物が生きていられる環境ではないはず。
人間は僅かな家畜たちと共に、みんな揃って地下シェルターに引きこもっているはずだ。
けれど、それもきっと長くは続かない……。
今や人間は絶滅危惧種なのだ。
未だに信じられないし、信じたくもないけれど。
部屋に戻って、メモ書きの続きを読む。
『・水分と栄養と排泄は必要無い。
・くれぐれもシェルターの外には出ないように。
・tehckrytthのバックアップデータはいつもの引き出しの中。
・わかっているとは思うが私はもうこちらにはいないので悪しからず。
そちらで会えていることを祈っている。』
父にしてはありふれた内容だなと思った。
どうせこういう事を言っている時は、あの人は裏側に本音を隠している。
メモ書きを裏返すと、比較的丁寧で小さな文字が敷き詰められていた。
『よしのかえでへ
すぐにこれをもとのばしょへもどしなさい
そしてにどとさわるな
娘へ。
現実という概念は、飽くまで人間が後から作り出した境界線を作り出すための便利なツールでしかなく、現代の人間はそれを手放すことを忘れてしまった。
その先に待っているものさえ知らずに。
君がこれを読んでいるということは、向こうで何らかの問題が起こり、君が現実を手にせざるをえなくなっているのだろう。
そのままでもいい。
寧ろ最新の人間の世界では、それが美徳とされている。
だが……書くの疲れた。
結論だけ書く。
現実はクソだ。
現実イズうんこ。
クソに塗れて生きるか、境界線の向こうへ戻るか、それは君の自由だ』
娘へ、と、クソだけ読んで私はメモを捨てた。
素直に消えたくないって書けばいいのに。




