全部消えました。
バースがゆっくりと立ち上がる。
「ああ、俺もあきらめがついたよ。
俺は死んだ。
俺達は死んだ。
だのにここにいられることが異常だったんだ。
そりゃそうだ、普通は死んだら……死ぬんだからな」
バースがA太の方へと歩み寄る。
「バースさ……」
しかしその脇を素通りして、リビングのドアを開け放った。
「付いて来てくれ。
芽衣がまだ寝ている」
廊下を進んで、赤黒い染みの手前でバースが立ち止まる。
「なんだ?
これは」
「うちの母親です。
いや、本当は親じゃないんだけれど」
バースはA太に目配せすると、突然壁を殴った。
けたたましい音を立てて、人間が一人通れるくらいの穴が開く。
穴はアレクサンドリア邸の庭へと繋がっていた。
「俺は何も知らない。
だが、君が何を考えているのか、少しわかった気がしてね」
穴を両の手で押し広げて、バースでも通れるサイズにするとその外からA太に手招きをする。
しかし、バースはA太が穴を潜る前に、何処か違うところを見ながら手の動きを止める。
少しの間をおいて、バースは手を横に振った。
「……まだ、何も」
それ以上A太は、言葉を作ることが出来なかった。
A太は寝室の扉を開ける。
A太の記憶と比べて、かなり無機質な木造の空間が広がる。
中央のダブルベッドの隅、何かに怯えているかのように、芽衣が膝を抱きかかえて眠っていた。
ジリリリリ。
突然頭が乗っていないほうの枕の上に乗った、古めかしい目覚まし時計が音をたてる。
微かに芽衣が目を開く。
A太は目覚まし時計のベルを叩くハンマーを引きちぎった。
A太にはそれを止める方法がわからなかったのだ。
「おはよう」
明瞭な発音で、芽衣が少女のように問い掛ける。
「あの人は?」
「行きました」
「そう、死んだんだね」
にやりと笑って、初めて会った時のように、芽衣はA太に無邪気に抱きついた。
「この人だぁれ?」
「……あなたも狂って先延ばしにするつもりですか」
抱きついたまま、芽衣は表情を凍らせる。
「誰が狂っていた?」
「僕からすればみんな狂っていました。
けれどバースさんは狂うだけでなく違っていました」
「けれど、行ったんだね」
「はい」
「……つらい役目を押し付けちまったね」
「全くですよ」
芽衣の腕の力がいっそう強くなる。
A太を離すまいとするのではなく、A太にしがみつくことで何処かに吸い込まれないように、抽象的な抵抗をするかのように。
「……あたしに出来ること、まだ何かあるかい?」
「無いです。
精々お祈り……も、死人がすることでは無いですね」
「なんだい、冷たいな。
でも、きっと、その冷たさが今の瑛坊には必要なんだろうね。
何をしているのかは知らないけど。
ああ、そろそろだね」
芽衣が腕を離した。
「瑛坊。
ここにいてわかったことが一つある。
ここは良くない。
いいかい。
あまりこんなところに来ちゃいけないよ!」
芽衣のプログラム生成が止まり、芽衣の全てが停止する。
蓄積されたデータが端から破棄されていき、リサイクル処理され、一文字以下の存在に変わる。
芽衣の光反射情報が全て失われ、A太の目に映らなくなった。
芽衣が完全に消滅した瞬間、同時にアレクサンドリア邸も姿を消した。
A太が落ちる。
どこまでも落ちる。
コンクリートの地面の上で、A太は目を覚ました。
「……行かなきゃ」




