芳乃楓の記憶
芳乃楓には、父親と母親、そして与那城伯瑛、合計三人の親がいた。
ある日大規模な震災によって、楓の父親と母親は倒壊したビルに押し潰され死んだ。
芳乃楓の存在は秘匿されていた。
それはそういうものであって、秘匿されていた理由について語る意味は無いし、また特に秘匿された理由は無かったりする。
強いて挙げれば、出来の悪い娘の存在が周囲に知られる事を、彼女の親達が恥じたことくらい。
兎も角その日から、芳乃楓を知る者は与那城伯英以外、誰一人としていなくなった。
伯英は研究者だった。
主に人間の精神に関する分野を専門に研究していた。
伯英にとって、芳乃楓はとても都合の良い実験材料だった。
世界の事を禄に知らず、また世界に知られていない楓。
確かに人間の精神についての実験材料としては、これ以上無い逸材かもしれない。
楓の両親が死んだ次の日、早速伯瑛は実験に取り掛かった。
最初に伯瑛が取り組んだのは、恐怖心の実験。
伯瑛は楓に頑丈な拘束服を着せ目隠しをすると、約12メートルの高さから、何度も何度も有益なデータが採れるまで、楓をプールの中に落とした。
その実験によって何か新たな発見が得られる保障はどこにも無かった。
ならば、何故そんな奇妙な実験を行ったのかというと、それは伯瑛が、研究者として気になったことは片っ端から試してゆくという性癖を持つ事に由来している。
1238回に及ぶ投下は、結局のところ何も産み出さなかった。
次の日伯瑛は、楓の海馬に手術を施した。
実験の記憶を消去し、クリーンな精神で次の実験に使用する為だ。
手術は若干の副作用を残して、無事に完了した。
副作用とは、実験のものに加えて楓のそれまでのほぼ全ての陳述的記憶が消去されるという、本人にしてみれば重大なものであったが、特に実験に支障は出なかったので、伯瑛にとっては取るに足らないことだった。
その後も実験は繰り返された。
餓死寸前まで食事を絶たせてみたり、逆に死の寸前まで流動食を胃の中に送り込んだり、光と音が届かない人間一人分のカプセルの中に閉じ込めてみたり。
中には世界で最高レベルだと絶賛された漫才士の映像を一日中視聴させるなど、何をどう考えれば思いつくのかわからないような実験も数え切れない程行った。
実験を行う度に記憶を消去し、また実験を行う。
そうして繰り返していくうちに、次第に当時の脳科学のレベルでは手が出せない領域にまで実験の記憶が焼きつくようになり、楓の精神状態に影響を及ぼすようになった。
実験材料としての用を満たせなくなった楓を、伯瑛は外界へと廃棄した。
そして現在、楓は生垣の上に落下した恭蔵のさらに上で、声をあげずに無表情で、ただただ涙を流している。
「くくく、流石は我輩といったところか。
この程度の衝撃では、この体はどこも傷つか、いてっ…。
芳乃よ、貴様の方は無事…おい、芳乃?」
尋常ではない楓の様子に、ようやく気がつく恭蔵。
「ふ、ふむ。
恐怖で腰を抜かしたのか?」
「……」
「おい、何か申せ」
「……」
「………兎に角ここを離れねばな。
歩けるか、芳乃よ?」
やはり反応を示さない楓。
「ふむ、仕方の無い奴だな」
恭蔵は楓を抱きかかえると、アパートを背後に真っ直ぐと歩き出した。
「さらばだ、我が城よ」




