歩いています。
時間は少し遡る。
「ちゃんと水筒は持ったかい?」
「持ってます」
「財布は?」
「あります」
「ちゃんとお金は入っているか?」
「入ってます。
ええと、一万っていうのが三枚」
「携帯の使い方はわかるか?」
「昨日総司朗君に教えてもらいました」
A太とバースの間に芽衣が割って入る。
「全く、アンタは瑛坊のこととなると心配が過ぎるねぇ。
何時まで経っても出れないじゃないか。
ほら、仕事に戻った戻った」
芽衣がバースを追い払う仕草をする。
「バースセンセ、ちょっとこの問題教えてよ」
「なすかぴらみど、ばんじゃーい」
「こら鈴! テーブルの上でそんなポーズをするだなんて、淑女として恥ずべき行為ですわ。
こうですわよ、こう! もっと腕を伸ばして!」
ふふふと微笑ましげにその様子を見つめるA太。
その実脳内では、メイド服の幼女が履くべきパンツの色と柄は何かという激しい討論が行わていたりするのだが、まあそれはそれである。
「悪いね騒がしくて」
「静かなのよりは、余程ましです」
「よりは、ってなんだい、よりはって」
つんつんと芽衣がA太のわき腹を突っつく。
しかしA太に一切の反応が無いので、芽衣は首をかしげる。
「ま、いっか。
ほら、行ってきなよ。
何かあったら直ぐに私かバースに連絡する。
これさえ守れば大丈夫。
さ、行ってらっしゃい」
この孤児院の周辺がどうなっているのか見てみたい。
A太がそう持ちかけた時には、芽衣はとても喜んだ。
孤児院の中に引き篭りがちなA太のことを、内心芽衣は心配していたのだ。
今回の探索に、新規の携帯電話などの惜しみない投資がされているのは、芽衣の機嫌に大方の理由がある。
A太は孤児院の庭の外に出ると、自分が向いている方向に向かってひたすら真っ直ぐ歩き出した。
こうすれば迷わないという算段である。
時に屋根の上に登ってまで、真っ直ぐに歩き続けるA太。
「おかーさん。
あの変な髪の毛のおにいさん、あんなところでなにしてるの?」
屋根の上のA太を指差す一人の子供。
「シッ! 見ちゃいけませ……って、あれ?
もしかして、あれは…。
瑛君?」
ぎゅいっとA太の首が母親の方に曲がる。
3.25メートル離れた母親の口から発せられた約秒速340.6キロメートルの瑛君という単語に、『ん』の発音から0.01秒後に反応するA太。
地味に人間離れした絶技なのだが、地味すぎて誰も気にしないのであった!
「あれ、牧島さん?」
説明しよう!
牧島香織は与那城研究所の元職員である。
一人息子の牧島武蔵を溺愛する彼女は一児の母である。
つまり母イズアマザー。
要するにフィーリングである!
「どうしてこんなところに!?
外に出ても大丈夫なの?」
「いやいや、むしろ追い出されたんです。
聞いてくださいよ牧島さん、あのくそババアったら…」
笑顔で冷や汗を掻きながら、香織は息子の耳を両手で塞ぐ。
A太の瑞穂に対する罵詈雑言がとても罵詈雑言だったからである。
要するにフィーリングである!
「えっと、与那城さんは今どうしてるのかな?」
「なんか海外にビッグなドリームをキャプチャーしに行ってるらしいです。
あ、携帯はつながりませんよ」
香織の手が肩掛けバッグに伸びるのを目ざとく見つけて、A太が忠告する。
「へ、へえ。
大変なことになってるのね。
なんだかよくわからないけど。
……あ、そうだ、瑛君。
あなた、あまり外を出歩かないほうがいいわ」
香織は小刻みに首を振って周囲に人がいないことを確認すると、A太の耳元に口を寄せた。
「特に、この町から外には出ちゃだめ。
良い? 絶対よ?」
「何故です?
丁度今日は町の外まで行ってみようと思ってたんですけど」
ピロロロ。
香織の携帯の呼び出し音が鳴る。
発信者が表示されたディスプレイを見てさぁっと顔が青ざめる香織。
「…はい……もしもし。
申し訳ありません。
……はい…はい」
香織は顔を落として携帯電話をバッグの中に仕舞いこむ。
「どうしたんですか?
なんか体調悪そうですけど」
香織がぼそりと呟く。
「…この子も、ちゃんと人間に近づいてるのね」
「え?」
「なんでもないわ。
引き止めちゃってごめんね。
それじゃあ」
武蔵の手を引いて早歩きでA太から離れる香織。
「ママ、あのおにいさん気味わるいよ」
「……」
A太に聞こえていないつもりの武蔵の発言をしっかりと聞き取ったA太はひとりごちる。
「ま、仕方ないよね。
人間からしたら、僕は気持ち悪くて仕方が無いだろう」
結局のところ、自分は人間では無いとA太は結論付ける。
何故なら、そうしておいた方が、A太自身の精神を健全に保ちやすいからだ。
人の目のことは考えず、A太は再び屋根の上を歩き始める。




