白の町
死のうか──。
空から真っ白な雪が降り、私の掌の上で溶けた時、ただ漠然とそう思った。
見上げれば、灰色の空にちらほらと無数の雪が舞っている。
季節は晩冬。もう春になるだろうと思っていた矢先のことだった。
憂鬱な思いのまま白い息を吐き、私は顔を空から地上に下ろす。
…雪は、嫌いだ。
その純白さと儚さが、まるで私の事のように思えるから──。
あっという間に雪は積もり、辺りを覆い隠す。
常緑樹の下で雪宿りをしていた私は、不機嫌に再び溜め息を吐いた。
白く曇った空。
白い雪に覆われた地面。
どこを向いても、白、白、白──。
この季節は、 何処まで私を憂鬱にさせたいのだろう。
こうなってしまうと、俄然湧いてくるのが自殺願望。…つまり、無性に死にたくなるのだ。
言われたのはいつだったか、言ったのは誰だったか。
私は雪に似ている、と言われたことがある。
そう言った人に、悪気は無かったのだろうとは思う。
髪や肌が白いから、そう言われるのも解らなくはない。
けれどもそれは、私には堪らなく嫌だった。
雪は、直ぐに消える。
何とも儚い存在。
それを思えば、雪に似ている私も直ぐに消える存在なのだ。
無価値なお前なんて消えてしまえ、と、そう言われている様な気がして──。
…それならば、感じるがままに死のうじゃないかと、先程の結論に辿り着く訳だ。
別にこの世に未練はない。
家もなく、身寄りもなく、夢や希望なんかもこれっぽっちもない。
私をこの世に縛り付けるものなんて、何一つ無いのだ。
だから私は、早速死ぬための計画を練り始めた。
…どうやって死のうか?そう考えながら、私は手首に残る傷痕をなぞる。
それは、前に死のうと思って切ったものだった。
思えば、その時も雪が降っていた。
悴む手で刃物を引く。
手首がぱっくりと裂ける。
血が滴り、真っ白な雪を赤く染め上げる──。
その時の行動の一つ一つを、今でも鮮やかに覚えている。
どこまでも白く染まった、無味乾燥なこの世界に突然現れた、綺麗な赤色 。
死とはこんなにも美しいのか、と素直に感じた。
まあ、結局は死ねなかったのだけれど…。
だから、今回はリストカットは無し。
もっと確実に死ねる方法はないものか──。
そう、首を捻る私の視界の片隅に、あるものが入り込む。
それは、樽と縄。
少し雪に埋もれた樽の上に、丁寧に丸められた縄。
あまりにも不自然に、そこにぽつんと置いてある。
まるで、これを使って死ねと、私に誰かが与えたかのように。
…樽を足場にして、縄を何処かに括り着ければ、首を吊れるかな。
普通なら、何故こんなところにあるのか、とか疑問に思うところだろうが、今はそれを考えなかった。
兎に角、この世から消えたい。
すぐに溶けてしまいたい。
そんな心境にある私には、そんな疑問など無意味でしかない。
リストカットよりはよっぽど死ねるだろうと、そう結論付けた私は樽を木の下に運び、その上に乗る。
そして縄で輪を作った後、頭上に広がる枝の一つに結びつけた。
…準備は整った。後は足元の樽を蹴るだけだ。
そうすれば、全てが終わる。
今見ているこの世界もこれで見納めかと思うと、大嫌いな白に覆われている光景にも感慨を覚える。
…もう少し、見ていようか。
この目に焼き付く位は。
そう思い、辺りを暫し見渡してみる。
すると、再びあるものが視界の片隅に入り込んだ。
それは二つ目の樽でもなく、二本目の縄でもなく──。
パレットを左手に、筆を右手に持った人だった。
しかもご丁寧にこの雪の中、イーゼルを地面に立て、カンバスを置いている。
…。
………。
…………誰がどう見たって、画家だろう。
その人は、私の自殺を止めるでもなく、ただ此方を笑みを含んだ表情を浮かべたままに見つめていた。
自殺を止めて欲しい訳では無いけれど、一体何をしようとしているのだろうか。
その事が気になった私は、彼にそう尋ねてみる。
「…一体何をしているの?私の絵でも、描くつもり?」
そんな私の問に対して、会釈をしながら彼が答える。
「えぇ、そうですよ。想像してご覧なさい。白銀の世界を背景に、首を吊る貴女。舞い散る雪、冬の風に棚引く白い長髪。さぞ絵になるだろうと、そうは思いませんか?」
その光景を私が想像する前に、更に彼は言葉を続ける。
「それに私、首吊り死体に興味がありましてね。 凍死体や餓死体なんかは見たことがあるのですが、不運にも首吊り死体には出くわした事が無いもので。首を吊ると眼やら舌やらが飛び出すと言うではありませんか。その真偽も確かめたいのですよ。」
淡々と、微笑を湛えてその死に様を語り始める彼。
自分自身がそのような姿になっているところを想像すると、どんどん死ぬ気が失せていく。
「…やめた。」
彼の言葉が、私を現実に引き戻した。
私は、雪とは違う。
死ねば溶けて消える存在じゃない。
死体をその場に遺す、人間なのだ。
首から縄を外して樽から降りる。
これで一体、 何回目の自殺失敗だろうか。
「おや、それは残念。やっと首吊り死体を見ることが出来たと思いましたのに。」
口ではそんなことを言っているが、相変わらずその表情には笑みが含まれている。
少しも残念そうにはみえない。
…ひょっとして、幾らなんでも斜め上過ぎるが、あれは彼なりの自殺を止める方法だったのかもしれない。
樽も縄も彼が用意して、首を吊らせる気にさせて。
だとすると、まんまと彼の思惑に引っ掛かった訳だが…。
「なら、せめて貴女の絵を描かせていただけませんか?せっかく準備をしましたし、そこの樽の上に座っているだけで宜しいですから。」
「え…?」
予想外の展開に、私は暫し考える。
人とはなるべく、付き合いたくはない。
でも、その彼の提案は、私の心を少なからず揺さぶる。
自分の姿。
精々粗い水面を挟んでしか見たことのない、未知なる自身。
まさか、姿形まで雪に似ている訳はないだろうが…。
自分がどう描かれるのか、多少興味があるのだ。
だから私は促されるがままに、樽の上に腰掛ける。
すると彼は二三回筆を動かしただけで、直ぐに難しい、と唸り始める。
そして一筆動かしては唸り、また動かしては唸り──。
…そんなに私は描くに難しい造形をしているか。
あまりに唸るものだから、私は痺れを切らし、彼に言う。
「難しいなら、止めれば…。」
「いえいえ、これは褒めているのですよ。難しいものほど描き甲斐がある。つまり画家冥利に尽きると言いますか。」
…はぁ、疲れる。
やっぱり他人と付き合うのは苦手だ。
私は大抵、いや絶対に他人と合うことが無い。
価値観が違いすぎるのか、単に人付き合いが極端に苦手なのか。
兎に角、相手の一挙手一投足に嫌気を感じてしまう。
結局──彼は描いている間中、その調子で唸り続けていた。
「…はい、描き終わりました。お疲れ様です。」
彼のそんな声が聞こえたのは、始めてから一時間位してからだった。
絵を描くにしては短いような。
描かれる側としては、退屈な程に長かったが…。
こんな寒い中、体を動かさずにいたせいで、手足が酷く悴む。
「これは自信作です。久々に良いものが描けました。」
「…見せて。」
彼がそう言うものだから、柄にもなく期待して言った。
はいどうぞ、と言いながら、彼はくるりとカンバスを裏返す。
するとそこには──
…何も描かれてはいなかった。
「あれ…?」
これまた予想外の事で、私は固まる。
彼は確かに筆を動かしていた筈。
あれだけ時間をかけて、これはない。
描く振りをしていた?
どうして?
私をからかう為?
一体何の為に──
様々な疑問が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返し、そこでやっとあることに気が付く。
カンバスにある、何本もの細い物が通った跡。
これは多分、筆の跡だ。
つまり──
「白く塗られているだけ…?」
「え?えぇ、そうですよ。まさか、何も描かれていないと思いました?」
…そのまさか。
絵を描くと言われて、白く塗られたカンバスが返ってくるとか、想像出来る人はいないだろう。
「でも、あれだけ時間を掛けたのに、白いだけだなんて…」
「白いだけ、と一口に言いますが…色を均等に塗るというのは、それだけで大変なのですよ?…貴女の色は、当に白。スノーホワイトなど足元にも及ばない、完璧な白でしたから。」
「私の色って…?」
「人は誰しも、心に色を持っています。それが赤なり、 青なり、緑なり──。十人十色と言いますか、その貴女の持つ色が白な訳です。」
私は彼のその言葉に、愕然とする。
私の心にある色が、よりによって大嫌いな白。
雪の白さにさえ勝る、完璧な白色──。
一方で、ぴったりだと思う自分もいた。
塗られていても気付かない、あってもなくても良いような、当に私のような色──。
「何やら不満そうですが…白はお嫌いで?」
私はただ頷く。
「おや、そうですか。白にも良い意味、ありますよ。夢、希望、平和、正義──。」
それを聞いて、内心自嘲気味に笑う。
夢?希望?そんなもの、私は少したりとも持っていないじゃない。
平和?正義?そんなもの、今の時代に似つかわしくない言葉じゃない──。
「…他には?」
「他には…。そうですね、冷淡、非情、虚無、無意味。こういう意味もありますがね。」
ほら、やっぱり。
夢やら正義なんかよりも、こっちの方がよっぽど私に似合っている。
白なんて、 所詮中身が無いか嫌な意味しかないんだろう。
…やっぱり白は、大嫌いだ。
「まあ、どんな色にも良い意味も悪い意味もありますから。白だけが駄目な色、という事ではありません。」
私の思考を知ってか知らずか、そう言いながら荷物を纏め始める。
パレットの上の絵具──と言っても白だけだが──を拭き取り、筆を洗い、チューブを片して、画材一式を鞄に戻す。
「…どこへ、行くの。」
「此処から少し、南東へ──。そこに、用がありましてね。」
此処から南東。たしか、大きな街があった筈だ。
この寂れた町なんか目じゃないくらいの大都会。
彼の目的地はそこなのだろうか。
そこに、何をしにいくのだろうか。
そんなことを考えていると、荷物を纏め終わった彼が、私がじっと見つめていることに気づいたようだ。
その、最初から寸分違わない微笑みを此方に向ける。
「行きますか?一緒に。…此処と対為す世界に──。」
私は少し、考える。
別にその街なんかに興味はない。
でも…この変な画家には、何処か惹かれている自分がいた。
こんな無愛想で可愛いげのない私に、ここまでしてくれた人がいただろうか。
いや、碌なことはされてないけど…。
それでも、何だか今までの人とは、何か違うような気がするのだ。
…付いていってみようか、この人に。
この町に留まらなければならない理由も、有りはしないのだから。