プロローグ
プロローグで短めです。次話と同時投稿しています。
――ねぇ――聞こえてる?
――――私といて、楽しかった……?
環状線の線路を電車が踏み鳴らす音で男は目を覚ます。まだ朝というには暗く、この季節にしては肌寒い時間。
だが男の背中は寝汗でぐしゃっと濡れていた。いつもそうだ。この夢を見る度に男は、寝汗をたっぷりとかいて、朝とも言えない時間帯に眼を覚ます。
(もう今日は寝れそうにないな……。)
そう独りごちながら、ベットから這い出ると冷蔵庫へと向かう。古びれた6畳間。
その端っこに位置する、小さな1人用の冷蔵庫を開けると、大量に備え付けられたミネラルウォーターのペットボトルが顔を並べていた。
その1つを乱雑に掴むと、音を立てて水を飲み、失われた水分を補給する。喉が潤い、幾分か落ち着いた様子の男は、カーテンを開け、まだ薄暗く、明けきらない都会の朝の景色を眺めながら、ほうっと息を吐く。
(最近、多いな……。)
男が先程を夢を見るのは始めてではない。定期的に起こる現象であった。しかし、この一週間に既に3回。最近はその頻度が多すぎる。
(喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら。)
夢を見た後、男は寝汗をかき、明朝に眼を覚ます。身体的にもだるく、体が重い。だが何故か、精神的に妙な昂揚感があった。
夢の中で彼女に会える。その思いが彼をそうさせるのかもしれない。遠い、遠い記憶の中の思い出。
それがはっきりと形になって、自分の手では無くまるでそこに主体として存在しているような。そんなリアルな夢が彼にとっては嬉しかったのだ。
(忘れてしまってはおしまいだ。)
男は最早、彼女が居なくなってしまった事を悲しんではいない。あまりに長い月日が、決して戻らないという事実が、いつしか彼の悲しみを風化させたのだ。
だが、男が彼女を忘れる事はない。自分が彼女の存在を忘れてしまっては、今や誰も彼女を思う人はいない。
人が死ぬのは、誰もがその人の事を忘れてしまった時だ。故に自分が覚えている限りは、彼女は生き続ける。
彼女が居なくなった時、彼の中で様々な思いが錯綜した。困惑、悲しみ、嘆き、憂い、そして怒り。
だが彼女の最期の行動に対する答えは、男の中で長い年月を掛けて純粋に単純化された。 それは彼女の事を忘れずにただ想い続ける事であった。
夢は自分に彼女を強く思い出させる。それは辛い事かもしれないが、彼にとってはこの上なく嬉しい事でもあったのだ。
ミネラルウォーターのペットボトルの表面を水滴が伝う。いつの間にか時間が経って、冷やされた水は少し温くなっていた。
――氷妖精よ、下雪のささやきを――氷結――
朝の肌寒さは消え、ハトが鳴く声が聞こえる。
――もう夏だな。男は冷やされた水を口にしながらそんな事を考えていた。