壱 それは、中学生の頃に……
「おーい!遼太郎一緒に帰ろうぜー!」
男友達の元気な声が帰宅時間で賑わった廊下に響き渡る。
同じ制服を身にまとった少年少女たちが一斉に学校の玄関口に向かう中、声をかけられた瀬崎遼太郎は振り返った。
「ごめん!今日日直なんだ!これから日誌、職員室に持っていかなきゃいけないから先帰ってて!!」
玄関に向かう生徒たちと同じように重たそうなエナメルバッグを肩から掛け、遼太郎は手に持った学級日誌を遠くにいる友達にちらつかせながら手を振ると、そのまままっすぐに階段を駆け降りていった。
これは、まだ日本という国が平和だった頃のお話。
そして、これから変わりゆく日本という場所をまだ知らない少年少女のお話……。
「ふぅ、やっと帰れる……」
日の暮れかかった学校の廊下というのは、物静かだがどこか幻想的だ。
オレンジ色の夕焼けに染まったそれは、いつもならたくさんの生徒で溢れ帰った息の詰まりそうな場所だが、誰もが帰宅した後に通るそこはまるで自分のためだけに用意された花道のようだった。……といっても、沿道には誰もいない寂しさと孤独感の溢れる花道だが。
日直の仕事である学級日誌を職員室に持っていった後、担任の教師に雑用を頼まれてしまった。そのため、彼が思っていたよりもずっと帰りが遅くなってしまった。
「もう、テスト前だってのに……あんな雑用頼まなくたっていいじゃんか……。人には勉強しろ勉強しろって言うくせに、一番邪魔してんの先生たちじゃん」
季節は五月。ゴールデンウィークも過ぎ、学生にとっては疲労の溜まる頃に差し掛かろうとしていた。というのも、五月初旬の祝日の連続を過ごしてまうと、それから七月の海の日まで祝日はないのだ。こんなにも学校に通う人間にしたら地獄な月間はそうそうない。
そして、ゴールデンウィークを過ぎると大体の中学校では一学期の中間試験が行われる。遼太郎の通う学校でもすでにテスト一週間前になっており、すべての部活動は禁止されていた。
誰もいない玄関で上履きから下履きに履き替えると、一人寂しく歩き出す。
遼太郎はどこにでもいる普通の男子中学生。今年で二年目になった学校生活はとても充実していて、毎日を楽しく過ごしている。が、彼には一つだけ秘密があった。
鼻が完全に散ってしまった桜並木を歩き、ぼんやりと夕暮れ空を見上げる。
「今日は、仕事あんのかな……」
呟いて、遼太郎は坂を下ってあまり民家のない山の方へと進んでいく。
春とはいえど夕方の五時くらいもなれば周囲はどんどん暗くなっていき、道はどこか不気味な何かを放ち始める。
「もう、爺ちゃんには視えないって言ってんのに、なんで連れ出そうとするかなぁ」
陽の当たらない林道をぐんぐん進みながら、ブツブツと遼太郎は独り言を放つ。通り抜けるときに吹く風が涼しくて気持ちが良い。
人通りがまったくない道を抜けると、そこには段が不揃いで急斜面な石段が現れた。この先にあるのが、遼太郎の家である。
歴史を感じさせる石段は本当に不揃いで、気を抜くとすぐに踏み外してしまいそうだ。
ここは元々神社があった場所。といっても本殿や祠はなく、鳥居すらないただの空き地で、そこに先祖が家を建ててしまったらしい。何とも罰当たりな話である。
「ただいまぁ」
学校で溜まった疲労に加えて石段を昇った足のだるさから、弱々しい声と共に遼太郎は玄関の引き戸を開けた。
「おかえりなさい、遼くん」
汚れの目立つスニーカーを脱いでいると奥から叔母が顔を出した。
「お父さんが待ってるわよ」
「えぇっ!?」
廊下を歩き、台所の前を通ると叔母が一言声をかけた。それには遼太郎は驚き、がっくりと肩を落とす。
「もう、テスト期間中は勘弁してよって言っといてよ」
「そんなこと言っても、聞いてくれないもの」
「ただでさえ帰り遅くなったのに、勉強させてよぉ……」
叔母に不満を当てるだけ当てると、そのまま自分の部屋へと歩いていく。
遼太郎には両親がおらず、叔母と祖父の三人暮らし。両親については彼がまだ幼い時に亡くなったそうだが、その事実に気付いたのはつい最近のことだ。それまではずっと叔母にはぐらかされ、亡くなったという事実をちゃんと知らされないままに生きてきたのだ。
「おぉ!遼太郎、帰ったか!」
自室のドアノブに手をかけた瞬間、元気な声がかけられる。遼太郎は眉間にしわを寄せて振り向くと、そこには祖父の姿があった。
腰は曲がっていないが白髪と黒髪が良い感じに混ざり合い、灰色になった髪と色黒の肌が目立つ七十代手前なのにも関わらず衰えを見せない元気な姿の老人に、遼太郎は深いため息を吐いた。
「今日は行かないからな!……こっちだって勉強があるんだし」
強く言ってすぐに部屋に入ろうとドアを潜ろうとした。が、祖父は孫の手を強く掴んで廊下に引き戻した。
「何を言っておる!今日は久々の依頼を受けたんだぞ!さっさと支度するんだ」
「行かないって言ってるだろ!もうテストまで三日しかないし、勉強しないといけないんだよ!」
「テストは後でどうにでもなるだろう!頼むから学業よりも家業の方を大事にしてくれんか!」
必死に言う祖父の顔を見ながらも、遼太郎は歯を食いしばって反抗する。
家業ーーそれは、瀬崎家に代々伝わる仕事。
祖父はその“家業”を今でも続けており、誇りだと思っている。しかし遼太郎はそれを良しと思っておらず、いつもこんなやり取りが繰り広げられている。
瀬崎家の人間は特殊な能力が備わっている。常人には見えないものを“視る”能力、すなわち霊視能力だ。
この霊視能力を駆使し、昔から瀬崎家の人間は霊媒を行ってきた。これが祖父の言う家業なのだが、一般的に知られている霊媒を彼らは行っていなかった。
悪霊に取り憑かれている人をお祓いによって救う、これが誰もが知る霊媒行為だが、瀬崎家で行うそれはまったく違うものだった。いや、元を辿れば同じなのだが、それでも違う。
「今日だけ、今日だけだから!頼む遼太郎!」
強く手を掴み、頭を下げてまでお願いしてくる祖父の姿を見ているとどうしても気持ちが揺らいでしまう。遼太郎は、むぅ……。と顔をしかめ、ため息を吐いた。
「わかった、わかったから。でも、今日だけだからな!」
そう言って、彼は部屋の中に荷物を投げ込んだ。
◇
瀬崎家は昔から“霊の掃除屋”という名前で呼ばれていた。
それは、普通の霊媒師とは違う特殊な技法で悪霊を祓う姿から名付けられたものだ。
「よぅし、行くぞ!遼太郎」
「……うん」
夜も深まり、辺りがすっかり暗くなった頃。遼太郎は祖父と一緒に石段の下にいた。
夕飯を済ませ、制服から動きやすい格好に着替えた彼の手には鉄で出来た箒が握られている。中学生の育ち盛りな男の子の身長よりも遥かに長い、成人男性が持っても少し長いくらいのそれこそが瀬崎家が“霊の掃除屋”と呼ばれる由縁だった。
「じいちゃん、これ重い」
遼太郎は不機嫌そうな顔をしながら鉄箒を祖父に持ってもらおうとするが、あっけなく無視される。
「よし、出発じゃ!」
自分よりもずっと年老いているはずの祖父の方が元気というのはどういうことだろう。いや、いつまでも健康且つ元気でいてくれるというのは良いことなのだが、今の遼太郎にとってみるとこの元気さはとても鬱陶しかった。
“霊の掃除屋”という仕事にはいろいろな決まり事がある。まず、第一に必ず誰かからの依頼を受けなければならない。その依頼も幽霊絡みでないと意味がないのだが、これがあってこそ“掃除屋”としての仕事なのだ。
「じいちゃん、今日はなんの依頼なのー?」
気だるそうに遼太郎の問いに、
「ポルターガイストをどうにかしてほしいらしいぞ!」
と、不必要なまでの元気を振りまいて祖父は答える。
(ポルターガイストって、幽霊と関係あるのかな……)
内心で遼太郎は思う。ポルターガイストというのは霊がいたずらで家具を揺らしたり音を立てたりする無気味な現象のことだが、今までにもそんな依頼はたくさん祖父の元へと寄せられてきた。が、そのほとんどが屋根裏に住み着いたネズミの仕業だったりと、現実的な事柄が絡んで起こったものばかりだった。それを知っている遼太郎は幽霊が絡んだ正真正銘のポルターガイストだったらどうしようという不安以前に、今回もまったく違う原因で起こっていたものだったらという心配の気持ちを感じていた。
はあ、とため息を吐いて鉄箒の柄を握る。
瀬崎家は昔からこの箒で悪霊を祓ってきた。その姿がまるで掃除をするみたいだからということで“霊の掃除屋”という名前が付けられたのだ。
けれど、実際は違う。
“掃除屋”の仕事には理念がある。そして、その理念を第一に優先し、悪霊を祓う。
「着いたぞ!」
祖父は後ろからトボトボと付いてくるだけの遼太郎に声をかけた。彼が顔を上げると、そこは廃墟と化した空き家だった。
周囲にはそこそこ民家が建っており、電灯が明るく輝いている。そんな場所にぽつりと不気味に建つ一件の空き家は今にも崩れそうなくらいボロボロになっていて、人なんて当然住んでもいなかった。
「依頼はここから聞こえる物音の正体を掴んでどうにかしてくれということらしい」
「なんだよそれ」
ようやく依頼内容を聞いたは良いが、遼太郎はすぐに思った。これは幽霊絡みのポルターガイストではなく、野生動物などか引き起こしているポルターガイストもどきなのではないかと……。
遼太郎は既に脱力していた気を余計に抜いて箒を持ち直すが、祖父の目はとても真剣なものに変わっていた。
「……おるぞ、遼太郎」
「なにが。……どうせ、今回も動物だろ?」
先程までの元気な声が一転、低く静かなものになる。
玄関さえもない空き家の中を、祖父はじっと見据えている。
遼太郎は祖父のそんな言葉を半信半疑で聞きながら、仕方なく箒の先を向けた。ジャラ、と柄と箒の境目に付けられた鎖と札が音を立てて揺れる。
「いや、遼太郎。今回は“本物”だぞ」
冷静に言った祖父の目は片時も空き家の中にある暗闇から離されないまま。張り詰めた糸のようなピリリとした緊張感をようやく遼太郎も感じ取ったのか、ゴクリと生唾を飲んだ。
……ガタッ。
ふと、物音が聞こえる。
二人が目の前にしている家の中から、何かが動くような音がした。
「来るぞ、遼太郎……」
「く、来るってなにが!」
急に身体がガクガクと震え始める。今まで、今回の依頼も幽霊絡みではないと思い心から来る怠さを感じていたというのに、背筋には感じたこともない悪寒が走り始める。
しかし、何らかの変化が生じたのは遼太郎の身体だけではなかった。
ガタガタ、ガタガタガタガタガタガタッ……ガタガタガタガタガタガタガタガタ…………!!
なんと、さっきまでただ不気味なだけだった空き家が、突然家ごと縦横に大きく揺れ始めたのだ。それも周囲に大きな音を発しながら。
「う、うわああっ!」
「遼太郎!気をしっかり持て!箒の方向はあっておるから、わしの声に合わせて攻撃を放つんだ!」
「そ、そんなこと言われたって!」
非科学的に揺れ続けている空き家に恐怖から涙目になった遼太郎に声をかける祖父だが、震えからか箒の柄はグラグラと揺れ、立っていることが精一杯な状態になっている。
「今じゃ、遼太郎!」
「……そっ、箒っ!!」
祖父の声に遼太郎は大きな声で叫んだ。瞬間、鉄箒の先がパッと眩い白い光に包まれる。何も力を入れていないのに先端が小刻みに揺れ、柄に巻かれている鎖がジャラジャラと音を立て始める。
そして、先に集められた白い光がある程度の大きさになると勢いよく空き家の中にへと飛んでいった。
ヒュン、とすごい速さで飛んでいった光は空き家の中に入ると、塊だったはずの白が夜の闇を一気に照らすように放たれる。カッと辺りを眩しくさせ、そのまま何事もなく光は消えていった。
「よくやったぞ、遼太郎」
「えっ……ああ、うん……」
たった今何が起こったのかさっぱり理解しないまま、口を半開きにしたまま立ち尽くす遼太郎に、祖父はいつもの明るい声をかけるが、彼は首を何度も傾げながらなんとなく頷いた。
「よぅし、帰るぞ!」
「えっ、えっえっ、ああ……うん」
遼太郎が分からないまま仕事が終わり、祖父が空き家を後にするのを見、やはりまだ全然納得がいかないまま、鉄箒を両手で支えながら歩き出した。
“霊の掃除屋”……。
瀬崎家の二つ名であり、誇りでもあるその呼び名。
由緒正しき霊媒師の家系として、現在でも悪霊退治に勤しむ彼らだが“掃除屋”の名を継ぐ遼太郎には一つ欠けたものがあった。
それは、霊視能力。
本来、必ず継ぐべき能力のはずなのだが彼の身にはつかなったが故に、彼は“掃除屋”としての意識も誇りも何もなかった。
そんな遼太郎を芯から変える出来事がこれから起こる。
だが、今の彼は知ることはない。
これから出逢うことになる一人の少女……。その出逢いが遼太郎のすべてを変えることになる。