第92話 夕闇に三つ首蛇王の現れて
城の最も高い尖塔に登って独り、セヴェリ・カリサルミは酒杯を傾ける。
日の暮れようとする世界は血の色に汚れているかのようだ。天が壮大な陰影をもって人の目を眩ませようとも、騙されてなるものか、そこかしこで醜悪なる人の有り様が生じている。
美しかったはずのカリサルミ領は内乱に汚れに汚れてしまった。セヴェリではない誰からによって包み焼きのようにして切り分けられ、噛み潰され、乱されてしまった。
澱む太陽を追って西を見る。エベリア帝国が在る。父が十万を超える軍勢を率いておきながら敗死した国だ。
よくもやったものだと思う。軍才に乏しい男が率いるでは半数の五万でも手に余ったろうに、なまじ組織運営や勢力争いに長けるものだから、足元の覚束ない無理を押し通して大敗したのだ。帝国軍もさぞかし滑稽に思ったろう。雑兵に首級を取られたと聞くが、さぞかし情けない面であったろう。
自分は違う。セヴェリは酒を呷った。秘蔵の一本だが美味さが遠い。
もう一杯呷る。これは美味いのだ。そして、自分は父とは違うのだ。
あの男は他者を誹謗中傷することに快楽を感じていた。悪意がまずあって、理論理屈は後からいくらでも付け足せるような卑劣漢だった。そのくせ自分には甘く、追従の笑みを浮かべる家臣に囲まれることを好んだ。醜悪な愚人だ。自惚れの果てに自滅したようなものである。
当然だ。戦場とはそんな自分勝手な妄想が通用する場ではない。等しく命を危険に晒して、その運命を試される場だ。
自分は……それを嫌っていた自分は、きちんと生きてきただろうか。
セヴェリは星を見た。早くも瞬き始めた最初の一つたるそれ。自分は誰に恥じることもない生を、自分らしく誇らしく歩んできただろうか。美しい在り様を世界に示してきただろうか。
胸を押さえた。痛かった。
次いで顔を覆った。恥ずかしかった。
足腰の力が萎えた。涙が流れた。嗚咽が漏れた。体が震えた。己の体を掻き抱いた。椅子に座ることも出来ずに蹲った。
青紫の瞳を持つ男……妖しいほどに美しい英雄の言葉が耳に張り付いていた。
「貴方の父が率いた十二万将兵、それを支えるために行禍原へ出た三万将兵、前線砦の守備兵、前ペテリウス伯爵を含む一万将兵……帝国人は数えないにしろ、王国側は民も数えていいですか? 合算すれば二十万人くらいにはなりますか。僕の言っている意味……わかりますよね?」
耳を押さえてもそれは聞こえる。考えたくないことばかりを考えてしまう。セヴェリはむせた。吐いた。なけなしの気概でもって嘔吐物を避ける。遠ざかる。這いずるようにして窓辺に身を預けた。
火が投じられていた。
夕闇の迫る世界に無数の火精が飛ぶようだった。北から、南から、あちらこちらから、領都の壁を越えて火矢が放たれているのだ。
綺麗だった。あってはならないそれがとても綺麗だった。セヴェリは口も拭わずにそれを眺めていた。領都を包む二万余りの軍勢……己を救命すべく駆け付けたはずのエテラマキ領軍らが火計を為しているのだ。
いや、この場合は火刑と言うべきか。
飛来するのは火矢ばかりではないようだ。大型の投石機だろうか、それとも人が振り回す投石器だろうか、何か革袋のようなものも壁を越えてくる。それは着弾すると弾けて火に勢いをつける。油だ。その意図は明らかだった。
領都を燃やし尽くす気なのだ。軍と民との区別も無く、敵味方の識別も不要として、壁の内側を大きな焚き火のようにするつもりなのだ。
その中央にあって、周囲を炎に取り巻かれて、セヴェリは思う。やはり火刑だ。これが火刑なのだ。
極寒の高所にて己を焼く炎を見渡す……ああ……何という、何という心地だろう。
これが……絶望というものか。
戦闘も始まった。門を閉ざす暇もあればこそ、領都の全ての門において兵力のぶつかり合いが生じたのである。言葉が出ない朦朧の中にあっても、セヴェリは戦況を分析した。ここは全てがよく見える。見え過ぎてしまって凍えそうなほどだ。
領都内には北部の軍勢が三方向にわかれて戦列を形成している。東大門の内側にはペテリウス領軍六千が、北西門の内側にはユリハルシラ領軍四千が、南西門の内側にはあの男が三千の騎兵と一千の歩兵を率いている。
攻める側も数の割合を揃えたものか。東大門には八千、北西門と南西門にはそれぞれ五千が布陣して内へ内へと押し立てている。旗からしてエテラマキ領軍だが、東大門には圭丸騎士団が混じり、北西門には冷月の騎兵団が混じっているようだ。
冷月……ああ……マルガレータ王女はそこにいるのか。そこからこの領都を燃やさんとしているのか。それはつまり賭けの敗北を意味する。セヴェリは慟哭した。
「伯爵、僕と賭けをしませんか? 貴方が見る世界と僕の見る世界、どちらがより真実に近いのか……ただの一事で判明します。貴方の信奉するマルガレータ王女が何をするか、二人で観察してみましょう。きっと今日中に駆けつけますよ。もうすぐそこにまで来ているかもしれません。僕は、貴方に、それを待つ時間を与えようと言っているのです。どうですか? 嬉しいでしょう?」
セヴェリは信じていた。次代の王たるあの隻眼の王女将軍は、きっと籠城する自分を助けてくれると信じていた。
この内乱において最も働いているのは自分であるとの自負があったからだ。弓張原会戦では北の盟主の精鋭と五分で戦った。円卓会議ではマルガレータの決意を知ってすぐに賛同し、支持を誓った。その後の戦いにおいても自領を戦場として尽力した。全てはマルガレータを奉じてのことだ。
ところが、どうだ。
彼女は北部の軍勢と何ら交渉する素振りも無く領都を攻め立てている。セヴェリの身の安全などまるで考慮していない。それどころか、いっそ危険度を高めている。もっと進んで、全てを一緒くたにして殺しにきている気すらするのだ。
そら、街のあちらこちらでも戦闘が始まってる。
南部義勇軍……いや、得体の知れない傭兵たちの仕業だ。門を抜けた者らもいようが、多くは壁を越えて侵入してきている。火矢を射尽くした後はその手で着け火しようというものか。想定よりも火勢が弱いと見たのだろう。セヴェリはそれを嗤った。声が出た。
「馬鹿め……虫どもが……馬鹿め!」
外周部の町並みにおいて何十軒も建物を壊した成果だった。延焼を防ぐための“間引き”である。あの男との賭けを始めるに際し、その条件として提示された行為だった。
領軍内の工作員を捕殺したこともそうである。何十人もの兵士らが、何十人もの民に偽装した者らが、北部の軍勢が入った後に領都から脱出を図った。残らず矢をお見舞いした。
あの男の予言通りだった。全てがあの男の言った通りに進んでいく。
今、この領城には五百騎ほどが残るきりで、残りの兵は全て領都内に伏せてあった。捕縛した工作員からの証言を得て実行に移した策だが、それを為すということは、賭けに負けた未来を見越すということであった。それでもやらないではいられなかった。
それはそうだ。セヴェリはこの領都を愛している。
燃やされるというのならば、それを消火したい。民が無差別に殺されるというのなら、それを護りたい。だから北部の軍勢が領都を包囲した時点で降伏を視野に入れて考えていた。それに踏み切ることができなかっただけだ。
「戦え、我が領兵たちよ……虫を駆除せよ! 炎を消火せよ! 民の命を救うのだ!」
セヴェリはついぞ体験したことのないほどに涙を流していた。滂沱の落涙だ。泣けて泣けて仕方がなかった。窓に張り付き、眼下に向かって叫んだ。叫び続けていた。
もう、それしかないのだと悟った。もう自分にはそれしかない。
民だ。この町だ。カリサルミ伯爵が王国に在ったことを証明してくれるものは、眼下に広がるそれらしかない。この夕闇の火炎戦闘においてどれだけ民を、街を救えるか……己の最後の矜持をそこに委ねたのである。
「戦え……戦え……戦ってくれぇっ!!」
叫びが招いたものか。戦況が大きく動いた。
北部の軍勢は全体として火災の内側へと押し込まれていたが、その一角、南西門の付近でエテラマキ領軍が崩れたのだ。
まるで積み木の芯を抜いたかのような崩れ方だった。それまでは優勢に見えたところが、俄かに混乱し、その混乱は加速度的に広がっていってとどめようもない。雪崩を打つようにして門外へと人が動いた。無秩序な有り様だ。見るも無残だ。
それを蹴散らし踏み分けて、その一軍は門外へと駆けていく。
火撃の騎兵団である。
一気に駆け抜けた騎馬の群れは、そこで旋回すること三度、付近のエテラマキ領軍を完膚なきまでに崩し散らすと、弾けるようにして三つに分かれた。数はそれぞれ千騎に届かない程度か。それらは互いに連携しうねるようにして左方、南へと駆けた。
傭兵の小集団を狙ったようだ。凄まじい機動だ。三部隊が時に離れ、時に交わり、時に合流して、目につく集団を片端から打ち砕いていく。まずは南、次いで南東と些かも速度を減じることなく駆ける。軽騎兵による駆逐行だ。
まるで三つ首の蛇のように。
あるいは三匹の龍のようにして。
その三千騎は敵対する全てを噛み滅ぼさずにはおかない。抵抗など無意味だ。人が寄せ集まろうとも化け物には敵うわけもないのだから。
そして化け物は東へと至った。
そこにはエテラマキ領軍と圭丸騎士団とが八千兵力をもって集まっていたものだが、ペテリウス領軍の奮闘もあってその数は削れており、何よりも全軍が門の内にのみ気を取られていた。側面も背面も無防備なものだ。化け物がその油断と隙を衝かないわけもない。
喰いつかれた。喰い破られた。散々に引き千切られて、逃れようもなく磨り潰されていく。
そしてそこでも不思議が起きた。軍学を修めたセヴェリの目から見て、やはり崩れ方が一挙に過ぎる。速いとはいえ軽騎兵の質量でしかあるまいに、僅かも堪えられずに集団が無秩序化していく。
それが化け物の化け物たる所以とでもいうのか。いや、どこかで聞いたことがある。セヴェリは頭皮に爪を立てた。上手く働かない頭を無理やりに動かした。
「そうだ……魔人だ……魔人サロモンの軍のようではないか……!」
セヴェリはその実物を見たことがない。しかし聞いたことはあった。敵を切り崩すその巧妙は他の追随を許さないものであったと。
教会が火刑に処したところの魔人は人の名をサロモンといったが、王国において一軍の将を拝命していた時にはハハト将軍と呼ばれていた。今まさに龍将軍が名乗っている家名である。
偶然だろうか。必然だろうか。いずれにせよ物凄まじい在り様に、セヴェリは強い畏怖を感じていた。
これがあの男、龍将軍マルコ・ハハトの本気なのか。弓張原会戦では見ることのできなかった真の実力なのか。敵うわけがない。勝てるわけがない。化け物だ。本物の化け物ではないか。
セヴェリはもうその一軍から目を離すことも出来ない。
東大門の勝敗は既に決したようだ。ペテリウス領軍が固く隊伍を組んで前進する様には残敵掃討の貫禄すら漂う。火撃はそれを背後に残して止まることなき進撃を続ける。
次は北東だ。化け物は高速の機動によってその貪欲を満たしていく。
誰が抗えようか。誰が避けられようか。どれほどの血肉をまき散らし命を啜ろうとも、その戦闘機動はいよいよ冴え渡るばかりだ。あれに敵対することはそのままに死を意味しよう。災厄だ。騎兵による災厄なのだ。
北を経て……領都をほとんど一周するようにして、その瞬間がやってくる。
セヴェリは今、自分がどんな表情をしているのかわからなかった。どんな感情をもって酒杯を捨て、食い入るようにして窓に張り付いているのか、自分で自分を説明出来ないのだ。
生まれて初めての感覚だった。世界とは自分が在って初めて存在するものだとすら考えていたものだが、今この瞬間に、セヴェリは自分という人間が世界の外側にいる気すらしていたのである。
あるいは気付かぬ間に死んでいたのかもしれない。世界から透明に消え去ったのかもしれない。それでもいい。この特等の視界でもってそれを目撃できるのならば、死んでいたとしても悔いはない。セヴェリは思い切った。
対決が始まろうとしていた。
北東には化け物を迎え撃つべく三千の軽騎兵が馬列を並べている。黒地の中央に白色の半月を染抜いて……黒夜片月の軍旗も勇ましく、隻眼のマルガレータ王女率いる冷月の騎兵団である。
そこへ駆け迫るは化け物たる一軍だ。赤地の中央に黒十字を染め付けて火炎を模す特別の戦旗……火計戦旗……カケイセンキ……? いや、違う。そうではない。あの旗はこう呼ぶべきだろう。
「火刑戦旗、とでも言ったところか……」
セヴェリは炎の夜に呟いた。天も地も赤色に染まった火刑の都において、あの旗はまさに火刑の戦旗である。燃える領都の外周部を背景にして、あの三又の軍は己に敵対する全てを打ち砕こうとしている。
その凄まじさの全てをセヴェリは目撃した。その終着点とも言うべき戦いを、その運命的とも言うべき対決を、セヴェリはやはりここから目撃するのだ。領都で最も高い場所から、全てを失いつつある我が身をまるで顧みないで、生死の拘りをも捨てて、一心に目撃するのだ。
この時代の主役たる者らの決戦を、その目に焼き付けるのだ。
それしか望みはなかった。それだけが望みだった。セヴェリは呼吸をも忘れて目を見開いていた。
天は夕闇。地は火災。
人は黒色と赤色の旗をそれぞれに掲げて、今、騎馬の壮絶がぶつかり合うのである。




