第87話 泥沼に汚れる者と汚す者と
花の香で飾ろうとも、清新な風を送り込もうとも、その匂いは掻き消せるものではない。調度を整えようとも、幾人もの使用人を配そうとも、その気配は消せるものではない。ねっとりとして足腰を萎えさせるものがそこには在って、日々積み重なっては、律儀に存在感を増していく。
「ウンタモ……君はどうしても死ぬのかい?」
ニコデムス・パルヴィラは寝台に眠る友人へとそっと声をかけた。パルヴィラ伯爵領領城の奥の間である。出来うる限りの全てを尽くしているものの、南の怪老とまで呼ばれた男はとどめがたく死へと落下し続けている。意識も戻らない。目元は包帯で覆われている。ただ鼻と口とが空気の出し入れをして生き物の証を刻んでいる。
マルガレータ王女の斬撃がもたらした悲惨の姿だ。
あの日、弓張原会戦の後の去就について話し合われた場で、アハマニエミ侯はただ一人北部への恭順を説いていた。事前協議を遵守する必要性を声高に論じ、それを破った騎兵集団を激しく非難していた。アスリア王国の栄誉と伝統とを守護するため、速やかなる内乱の収束と継続的な保守言説とを求めていた。会戦の勝敗を受け止めた上での政治闘争を主張していたのだ。
ニコデムスはそれでは意味がないと考えていた。いや、もう少し踏み込んで予測したものだ。あの男……マルコ・ハハトは政治闘争をなど許しはしない。ただの一礼をもって内乱を勃発させ、会戦以前の三年間でいいように南部を翻弄したあの恐るべき男は、南部を敗北者としてすら扱わないに違いない。会戦の最中にあってもこちらを観察していたのだ。妥結することなどありえない。己の道理を全て押し通すだろう。マルコ・ハハトの良しとする色に、王国全土を塗り替えるだろう。確信があった。
「ウンタモ……君にもそれがわかっていたなら、会戦の形もあのようにはならなかったろうにね」
皺だらけの大きな手に触れてみた。会戦においてアハマニエミの家紋を刻んだ盾を構えていた、力強く雄々しい手だ。死へと眠る今となっても強張りを残し、僅かに震え、未だ憤怒を胸に戦っているのかと思わせる。
「相変わらず君は強かった。けれど、それは大貴族の名誉を示すものであって、あの男を殺すためのものではなかったんだ。あの会戦は始まりの段階から既に勝ちがなかった。大きく勝った時のみ、勢いでもってあの男を殺せたのに……エテラマキ伯にはそのつもりがあったようだけれど、彼は次の戦いに備えたのだね。マルコ・ハハトを殺すための戦いを既に思い描いているようだ」
エテラマキ伯はマルガレータ王女と共謀し、弓張原会戦後の戦略を策定していたようだ。カリサルミ領を東西に広く用いる遊撃戦闘である。小部隊を幾つも編成し、ユリハルシラ領に攻撃的な揺さぶりをかけている。北部の大軍が駐屯する弓張原では思うように戦えていない様子だが、それにしても挑発行動を繰り返している。戦線を混乱させ、どこかでマルコ・ハハトを罠にかけるつもりなのだろう。
ニコデムスはそれを誤りとは思わない。平時にあって一切の隙がないマルコ・ハハトだ。あの男を捕殺するためには泥沼の混戦に引きずり込むことが最も直接的だ。軍事をもって台頭した者には退きたくとも退けない場面というものがある。それを演出し、鋭利な一軍をもって殺す。マルガレータ王女率いる冷月の騎兵団はそのために組織されたものと見て間違いがないし、聞くにつけ見るにつけそれに相応しい一軍であった。
カリサルミ伯もその戦略に賛同したようだ。マルガレータ王女を新たなる盟主として奉り、忠節の姿をエテラマキ伯と競っている節がある。両名にとってはマルガレータ王女こそは次なる王なのだろう。彼女が女王として即位したならば、どちらも侯爵へと繰り上がりでもするつもりだろうか。それとも、王配の位置をすら狙っているものだろうか。若さが道理を覆す勢いをもって発揮されている。
愚かしいことだとニコデムスは思う。
マルガレータが王となる未来などどこにもありはしない。それは彼女自身もわかっていることだ。教会に利用されたものか、それとも教会を利用したものか……いずれにせよ彼女は大逆を犯している。四侯爵による王位継承権破棄にまつわる要求は公には記録されていないが、確かにそれは行われ、彼女は唯々諾々としてそれを了承したという。己の為した罪の重さは了解しているようだ。
だからなのか、それとも本来のそれなのか、マルガレータ王女は姉エレオノーラ王女の血筋に重きを置いている。王孫たるクリスティアンだ。彼女の眩しいばかりの信念は、一見したところ忠烈の騎士のような献身にも映るだろう。しかしそれは綺麗な仮面に過ぎないとニコデムスは考える。
「……マルガレータ王女を衝き動かしているのって、恐らくは怨恨だね」
ニコデムスはウンタモの手を摩りながら、ぽそりと言葉を落とした。
「凄いものだね。以前は移り気で派手好みであった彼女が、たった一つのことに専心して他の全てを投げ捨ててしまっている。可愛らしい娘の皮が剥けて、中から鬼か魔物の如きものが姿を現したんだ。今の彼女は殺人の刃以外の何者でもないよ。きっと、目的を遂げた後の諸々をまで捨て切ってしまっている……」
言葉を重ねながら、ニコデムスは己の頬が次第次第に釣り上がっていくことを覚えた。笑んでいるのだろうか。いや、それにしては気分が獰猛であると自己判断する。ウンタモの手を握る。身を乗り出す。
「あの毒刃はね、利用できるんだよ、ウンタモ。君をそんな目にあわせた彼女には、それ相応の働きをしてもらわなくてはならない。好きなだけ存分に戦わせて、マルコ・ハハトを殺させるんだ。そして死んでもらう。目的のためだけの生を全うさせるんだよ。無論、死後は全ての悪事を公にする。大逆も、国民殺しも、君に斬りつけたことも! この内乱は彼女によって引き起こされたものとして歴史に記されるだろう!」
勢い込んで握り締めたためか、ウンタモの腕が痙攣してニコデムスの手を払った。全身もやにわに震えだした。時折起こることだ。ウンタモの生命の残り火が盛るのだ。まるで焚き火の中に薪が爆ぜるかのように。
しかしいつもよりも激しかったから、ニコデムスは呼び鈴を鳴らして人を呼んだ。薬師や看護人がわらわらと駆けつけてくる。ウンタモの面倒を任せると、ニコデムスは死がべっとりと漂うその部屋を出た。清らかな廊下を絵画調度を横目にして歩いたところで、もう死は拭い去れない。しかしまだ死ねないのだ。ニコデムスは常の歩調ながら眉根に力を込めて進んだものである。
新たに領軍を派遣しなければならない。
弓張原に率いた一万三千は一度壊滅し、再編したところで五千にも満たない。それは東龍河の西岸より弓張原を警戒させていたものだが、共に警戒に当たっていたアハマニエミ領軍五千が不審な動きを見せているという。ウンタモ・アハマニエミの未帰還により領内が混乱しようとしているのだ。戦傷悪化による療養などという虚報はそう長く効果のあるものではない。まるで王国の縮図のようにして、アハマニエミ領は北部恭順派と南部抗戦派との二派に対立しつつある。
だから、なお一層に、ニコデムスはウンタモを自領へと隠匿する。もうここきりだ。愛するアスリア王国はどこもかしこも騒がしくなってしまって、静穏な日々を送れる場所などこのパルヴィラ伯爵領をおいて他にどこにもない。古き美しさはここにしかない。
ウンタモが死ぬのに相応しい土地は、もう、この地ばかりしか残されていないのだ。
だからニコデムスは残る領兵二千をアハマニエミ領へと派遣する。アハマニエミ家の後継争いなどに発展させるわけにはいかない。そんな混乱の風が南へと近づくことが許せない。若者たちが荒々しく舞い上げる粉塵のひと握りも許容しない。王国南東のこの地はどこよりも穏やかに静かに老いと死とを迎える土地であるべきなのだ。
「おほう、随分と勇ましく歩んでらっしゃいますな、伯爵閣下。まるで勇者のようだ!」
執務室へと繋がる角で、そんなことを大声で言った者がいる。道化じみた言動とは裏腹にして陰謀を秘める肥満の男……東方司教ヨアキム・ベックだ。相変わらずの体型と笑顔だが、その髪には白いものが多くなったものか。全体としても以前の油菓子のような照りといったものが欠けているように感じられる。
「執務室で待てと言ったよ。そこは廊下の角でしょ」
「扉の前には待ち人集いて閣下をお待ち申し上げておりましてな、拙僧、少々ズルをしたまで。閣下におかれましては内政といい軍事といいご多忙のご様子、大変結構なことではありますが、同時に些か心配でもありますなあ」
「余計な話はいいよ。用意は出来ているの?」
「おや、茶と菓子を交えての交渉はもう行わないので? いやあ、残念残念、では用件のみにて」
芋虫のような指をうねうねとさせて、ベックは懐よりひと巻きの巻物を取り出した。お礼を言うこと一つ、早速それを改めてみる。
それは納品表だ。
食料品、衣料品、医薬品、武器兵具、馬……大量の軍需物資が羅列された最後には、複数の傭兵団の名前が列挙されている。半数以上がエベリア帝国人による集団だ。聞いたこともない名前が多いが、中にはニコデムスをして目を見開くような名も書かれていた。
「“刃”の団……滅んだはずではないの?」
忘れられない名前だった。国王ヴィルヘルムの陣頭指揮による行禍原会戦において帝国軍の遊撃部隊として活躍した傭兵団であり、その狂猛な刃でもってどれだけ王国軍を苦しめたか知れない。特に陸水面の戦いにおいては王国貴族を数多く殺めていて、ニコデムスの息子もその数の中に入っている。
「おお、流石にお目が高いですな。凄腕の兵法者ばかりで組織されたその団ですが、あの魔人めに滅ぼされたのはあくまでも帝国遠征軍に参加した者らのみなのですよ。母体としての集団……まあ、打ち明けてしまえば教会の運営する孤児院なのですが……そこから才能ある者を選抜し、鍛え上げる仕組み自体は健在なのです。言うなれば、新生刃の団ですなあ。以前は少々暴走したというか、思いがけず王国を危機に陥れてしまいましたが、今度は敬虔なる南部諸卿の確かな力となるでしょう!」
この太った男は朗々として何を言ったものだろうか……ニコデムスは束の間呆然としてしまった。教会の暗部を陽気に晒されてしまったから対処に困ったのだ。
教会が営む孤児院は王国にもある。特に南部において多い。エベリア帝国におけるそれが教会の意を汲む刃を育んだならば、どうして王国におけるそれが同様の刃を生まないと言えるだろうか。それは一個の集団を形成しているのならばまだよし、分散しているのだとすれば危険極まりない。弓張原会戦後に多くの義勇軍を組織できた背景には教会の意図がある。隠された意図が。背筋が凍った。
聖杯騎士団という光り輝く存在にばかり目を向けていたことは誤りだったのだ。ニコデムスはそう思い至り愕然とした。もしも他にも同様の非公認部隊を擁しているのだとすれば……事と次第によったなら、勇者が現れたあの戦争自体が教会の自作自演であったという恐れが出てくる。帝国に王国を侵略させ、それを勇者と聖杯騎士団でもって撃退するという筋書きだ。魔人の登場で結末こそ変わったものの、その後に出来た国の形は変わらない。教会の影響力は強大となる。
考えすぎだろうか。しかし疑い始めたならばもうその推理は止められない。ニコデムスは歯噛みした。息子はそんな遊戯の中で命を落としたのだろうか? 友人たちは散っていったのだろうか?
「おやおや? 顔色が悪いですなあ。やはりお疲れなのではないですかな? いかんですなあ、うむうむ、いかんですとも。老いとは神の定め給うた人の頚木。相応の生き方をしなければ体を壊してしまいます。いかがでしょう、もしもお望みとあらば、教会は内政においても軍事においても優秀な人員を派遣することができますが? ああ、いっそトピアスなどどうでしょうかな? 教会は彼を推奨いたしますぞ?」
先刻、自分はこの男に勢いがなくなったような印象を持ったように思う。ニコデムスはその自分を殴りつけたくなった。何という笑顔で迫ってくるのか、この脂肪を鎧った聖職者は。俄に胸焼けがして、ニコデムスは唸り声を漏らした。ベックの目は笑っていない。肉を重ねるようにして笑みのような形を作ってはいるが、その奥に冷徹な眼光がある。こちらの出方を窺っている。
「パルヴィラ伯爵として支援物資には感謝するけれど、他は余計だよ。それに教会はマルガレータ王女を支持しているのでしょ? 私がそのことについて大きな懸念を持っていることを忘れないでほしいね」
釘を刺したつもりだった。国王毒殺の容疑があることを忘れるなと言うつもりだった。しかしベックの返答はニコデムスの剣を打ち払い、逆に鋭く胸を貫くものだったのである。
「王位継承権第一位たるエレオノーラ王女を幽閉した上に失踪させておいて、何とも勇ましい物言いですなあ。聞けば塵夢森へ迷い込ませたというではないですか。母親を排除しておいて幼い少年を即位させるのですかな? おやおや、何やら陰謀の気配がいたしますな! 教会が禁忌とする魔の森へと王女を放逐しておいてそれを隠す……うふふ……哀れマルガレータ王女はそうとも知らずに戦場に姉への献身を示しておりますぞ。安全な場所で友人と共に、閣下は何を企んでおいでですかなあ? 拙僧にはわかりかねますが、聞いた誰かにはわかるものですかなあ?」
ベックの言葉は毒の刃だった。刺し貫かれた己が体にはたっぷりの毒が侵入したに違いない。強い寒気に襲われて、ニコデムスは両の手で己を掻き抱いた。ベックは満面の笑顔でそれを見ている。
もう、泥沼なのだと自覚した。
どうしてこんなことになったのだろうか。ニコデムスは叫び出したくなった。ただ穏やかに朽ちていきたかったものを、どうしてか世界は激しさを増すばかりで、しかも己は抜けがたく避けがたくその只中に汚れている。戦わざるを得ない。戦わなければ死ぬことすらできない。休むことすら許されないのだ。
ならば戦うまでだ。ニコデムス・パルヴィラとして死ぬために戦う。厳冬の老いを全うするのだ。
「御坊は勇者でも見つけてくればいい。いずれ必要になるのでしょ」
「ふっはっは、これは大任を任されましたな。こちらは神に祈りましょう。そちらはご奮闘くだされ」
肩を並べて執務室へ向かう。大柄で厳格な友人を後背に残し、肥満で悪徳な司教を隣に立たせて、陰惨で油断も隙もない仕事を果たすために。
泥沼の内乱を戦い抜くために。その戦いの果てに死を望んで、ニコデムスは前進するのだった。




