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第83話 さあ筆を取りて記し給え

「ん? 退屈しているとも。いっそ王都へ攻め入ろうかと思ったほどだ」


 とんでもないことを平然と言う中年男に、エルヴィは思わず右の拳を握り締めた。他の誰ならば許せるというものでもないが、特にこの人物だけはそういう軽はずみな発言をしてはいけない。そのくせ、そういう発言を好む節がある。アクセリ・アーネル元領軍大尉。現在は名にし負う第三王女親衛団の団長を務める人物だ。


「いや、君は怒るがね? 同情してほしいものだよ。弓張原会戦に前後して王都こそが最も熱い場所となるに違いないと、大いに働けるものだと意気込んでいたのだ。どれほどの罠と謀略とでもって手ぐすねを引いていたと思う。まったく、惜しいことだ……国軍の人事部が職場放棄する規模の仕掛けが施してあったというのに」


 大げさな身振りで指し示す先には何十巻もの巻物が大壺に差し立てられていて、覚書だろうか分類だろうか、羊皮紙片に「愛すべき馬鹿たち」だの「呆れるべき阿呆たち」だの「驚くべき無能たち」だのと書いたものが糸で巻きつけてある。それで何がわかるものかエルヴィには見当もつかない。


「……策の全てを放棄するのですか?」

「まさか。徐々に使っていくさ。一挙にやってお祭り騒ぎにできなかったことが残念なのだよ」


 片目を閉じるなどして笑むから、エルヴィはその顔に一撃をお見舞いしたいと切に欲した。この男は……政戦両略を才を持ち、一方面を方針のみの指示でもって任されるほどにマルコの信頼を得ているこの男は、常も飄々としたものだが、今現在明らかにふざけている。軽口を叩いて遊んでいるのだ。


 その余裕に憤ることは間違いだろうか。いや、間違っていない。そこに少しでもやせ我慢の影が見えたなら同情もしようものを、この男は本当に余裕がある風だから、ここは素直に怒ってしまってもいいところだ。エルヴィは心中に己の戦意を整頓するも、同時にこの男の有能ぶりを羨ましく思っていた。


 アクセリは相当の覚悟でもってここに働いていたはずだ。


 この天幕の内部を見たなり、エルヴィはそれを推察したものである。町近い野原に仮設された駐屯所の、執務室かつ住居であるところのここには、団長たる彼のための寝床すらない。僅かに毛布が椅子の脇に畳まれているだけだ。巻物や地図なども天幕内に引き込んだ荷車の上に集積している。非常の際には即座に動ける態勢のまま、それこそ寝る間も惜しんで働いていたに違いない。


 アクセリの任務は責任重大だ。第三王女親衛団は南部による王都への工作や強襲を阻止するためにここにいるからだ。


 大河の東岸にはアハマニエミ領軍がこちらを上回る四千の兵力で駐屯しているが、それは最低値であって、いつどれほどに増加するか知れたものではない。現状、アハマニエミ領とパルヴィラ領は北部にとって最も諜報の効かない土地である。突如として一万の軍でもって渡河してくる可能性すら完全には否定できない。逆に、こちらが渡河する用意もまた常に整えておかなければならない。国軍内部の蠢動もある。静から動へは急転をもってなされるだろう。一つの失策も許されない。


 しかし、それでもマルコはアクセリに命令したのだ。親衛団三千で王都を守護せよと。そしてアクセリはそれを拝命し、他の誰にもできないだろう最善を尽くしている。どういうわけか遊び心を持ちすらして。


「いっそ王都へ攻め込んでくれた方が、今頃は風雅な宿に拠点を構えるなりできたのだがね。まあ、どうしても安眠したい時には船室を使うという手もある。船溜まりは見たかね? この三年で拡張した結果、町の観光名所にもなろうという規模になっている。舟遊びが女性に人気だ」


 その発言はエルヴィの視線と思考を追ってのものか。つくづく油断も隙もなく、万事にそつの無い男である。それはまさにエルヴィの理想とするところの仕事ぶりであり、教えを乞いたい気持ちもあるのだが、しかし相手はアクセリだ。どうしてかこの男はエルヴィの拳に力を与える。


「この後、そこでオタラ隊長に会う予定です。舟遊びはしませんけど」

「ふむ。たとえオイヴァでも舟は沈まんと思うが」

「当たり前です! そもそもどうしてそんなに舟遊びを推すんですか。夏の遊びでしょう、それは」

「目立つからさ」


 ニヤリと笑って差し出してきたものは、エルヴィがマルコより預かってきた巻物である。アクセリの記名が必要であったのだが、いつの間にか書き終えていたらしい。そして一枚の羊皮紙が添えてある。「何べき」でも「何たち」でもなく、それは簡易的な町の地図だ。お薦めの軽食屋や散歩道などが記されている。筆跡からして第三王女親衛団団長アクセリ・アーネル三十九歳の直筆である。


「……ありがとうございます。アーネル団長は、本っ当に、仕事を楽しんでいるんですね!」

「はっはっは、そうでなくては人生など牢獄だ」


 巻物をしっかりと鞄にしまい込み、エルヴィは天幕を辞した。歩哨に立っている団員たちが熱心な挨拶をしてくるので返礼も忙しい。誰も彼もが意気軒昂かつ笑顔の絶えない在り様である。これも上に立つ人間による感化だろうか……何度目かの軍用茶の誘いを断り、エルヴィとしてはここにもアクセリ・アーネルという男の威力を感じたものだ。白流旗がはたはたと青空にたなびいている。


 町へは徒歩で行ける距離だが、団の厚意により馬車を用立ててもらって、エルヴィは親衛団歩兵隊隊長オイヴァ・オタラを訪ねた。彼と彼の率いる歩兵たちは町の中で仕事をしている。軍船を護っているのだ。それは危急時に親衛団の渡河手段となるものである。


 王都に近いということもあり、町は街路も整っていて活気がある。真新しい看板を掲げた店も多く、それはアクセリの言うところの船溜まりの拡張工事や造船需要が町の経済を活性化させているのだろうと思われた。工夫や職人といった風体の男たちも多く見かけられる。エルヴィは人通りの多い道を選んで歩いた。そこには人を集めるだけのものが軒を連ねている。


 やがて見えてきた風景はエルヴィの想像とはまるで違うものだった。


 一般に大河沿いの船溜まりといえば水を引き込んでの溜池のようなものがそれにあたる。形状としては利便性から長方形に整えられいることが専らだ。桟橋に船が連なり、物資集積場や船工場が隣接する様はチトガ大町においてその卓抜を見ることができるが。


 今、エルヴィの目の前には人工の河川とでも言うべきものが在った。大船の船幅にしても十分に余りある太さの直線水路が大河から垂直に伸びている。


 水路内には僅かに仮設の桟橋があるきり、架けられた橋すらも木造で取り外しがきくような代物である。小舟が幾艘か浮いているものの、それはまさに行楽的な目的に過ぎず、町の流通などに利用されてはいないようだ。水路の両岸は広場と街路の中間のような空間が長く続いており、花壇や長椅子なども設置されていて、町民が憩う様子が見られる。水路へ釣り糸を垂れている者も多い。水面の照り返しのせいなのだろうか、エルヴィにはそれらがキラキラと眩しく映った。笑顔が誘われる。


 軍用の施設のはずだ。実際、奥へと行けば第三王女親衛団の騎馬を含む三千を収容するための軍船が五隻も係留されている。更に奥には大規模な船工場と倉庫があって、そこら一画は軍関係者以外の立ち入りが禁止されている。この水路の工事にしても徴用はあったはずで、本来ならば物々しくなってしかるべきところだ。それがかくも長閑なものとして町に受け入れられている様子はどこか楽しい。エルヴィは少しアクセリに感謝した。ここは彼お薦めの散歩道である。


 さても心地よい道行きは過ぎて、エルヴィが到着したのは軍用倉庫である。大きい。故郷キコ村を思ったならば村人総出で住まってなお余裕のある規模の建物だ。しかもそれが複数建ち並んでいる。船に関連する建築物は総じてエルヴィを圧倒するところがある。


「おう、危ねぇからそこで待っといてくれ。すぐ行くからよ」


 その声は工場奥の鍛冶場から届いた。果たしてのそりと姿を現した大男は、作業着を煤で汚し汗に塗れ、全身から白く湯気などをたてていたものである。また大きくなったのだろうかとエルヴィは訝しんだ。このオイヴァという人物はいつも誰よりも筋骨逞しい。


「団員の皆さんはどうしたのですか? 歩哨もあまり見かけませんが……」

「資材整備がちょっとえらいことになっててよ、応援に行ってるんだわ。俺も工場の方の手伝いだしな。これまたえらい量を鋳造してるもんだから、忙しいったら忙しいったら」

「忙しいって……」


 それは本来の任務とは異なるのではないか、という常識的な指摘はエルヴィの喉元で止まって発せられることはなかった。代わりに溜息が出る。アクセリが責任者の立場にありオイヴァとその部下たちが職人や工人と共にいるのならば、これも当たり前のことだと悟ったからである。


 第三王女親衛団歩兵部隊……戦場においては特筆すべき武功もないこの集団は、その活動を戦場の外へと広げた時、他の追随を許さない評価と信頼とを勝ち得ている。土木建設集団としての能力が突出しているのだ。近いところではペテリウス伯爵領における復興において瓦礫の処理や地均し、灌漑工事、家屋建設に多大な貢献を果たした。さりとて戦闘力に劣るわけではなく、実際、戦場においても濠を掘ったり馬防柵を張り巡らせたりと地味ながら重要な仕事を果たし、そこを巣のようにして戦ったという。


 エルヴィとしては小器用で働き者の筋肉男たちという印象だ。さもあらん、歩兵部隊にはハッキネン護衛団時代からよく知る面々が多い。一癖も二癖もあって陽気な男たちばかりだ。その筆頭はまさに隊長であるオイヴァで、騎士の家の息子であるも刀鍛冶であり、どうしてか物凄まじい穴掘り名人でもあり、最近ではペテリウス伯爵の名代として一騎打ちに勝利した武芸者でもある。仕事の幅はある意味でアクセリにも劣らない。


「……楽しそうで何よりです、オタラ隊長」

「まあな。やっぱり団は居心地いいし、炉の熱も気持ちがいいったらないぜ。伯爵んとこじゃ扱いが大げさ過ぎてよ、こう、尻がむず痒いったらなかったからなぁ」


 言葉のままに心底充実した顔をして、大男はエルヴィの差し出した巻物を解いたものである。そして首を捻り捻りしながら文言を記していく。体格のままに大らかな字だ。アクセリの達筆と比べると大人と童のようでもあり、それが何とも微笑ましい。


「ほいよ、ご苦労さん。けどそれ、まだの連中はどうすんだ? ヤルッコさんは姫さんとこだろ?」

「ありがとうございます。ヘルレヴィ領にはラウリ室長が向かう予定になっています」


 目の前の大男以上に付き合いの長い人物の名を口にして、エルヴィはふと来し方を思った。かつてキコ村に行商に来ていたラウリは、ハッキネン護衛団の事務方責任者を経て、今は龍将軍直下の参謀室に室長という肩書でもって務めている。秘書官職にあるエルヴィも参謀室に所属しているから、護衛団時代と変わらない上司と部下の関係である。


「ん? じゃあここに来るのか。一席設けたいなぁ」

「……素敵な思い付きですけど、軍船の防衛の方は大丈夫なのですか?」

「ああ、まず問題ねえや。実はよ、ちょいと前からベルトランの奴が来てるんだ。だから、俺らの今の仕事は楽しい何でも屋ってわけさ。たまに兵隊ってことを忘れるぜ」


 そして豪快に笑うのだから、この大男もまたつくづくもって護衛団時代から変わらない。エルヴィもつられて笑ってしまった。マルコに近しい人間たちは誰もがこうである。時代がどれほどに激しく鳴動しようともまるで動じるところがない。むしろ活き活きとしている。勇躍して仕事に励んでいる。


 自分もまた、同じだ。


 エルヴィは誰に対してというわけもなく闘志を燃やした。龍将軍の秘書官という今は、幼少の頃に思い描いた夢そのものだ。英雄となるに違いなかったマルコは果たして最新の英雄となり、その傍らに立つべく力を求めた自分は、未だ能力不十分ながらどうにかこうにかその位置で仕事をしている。


 功名へのこだわりは捨てていた。力を示すことと名を成すこととが同義ではないと知ったからだ。マルコに従う者たちは世評を気にも留めない。ただマルコの期待に応え、マルコの征く遥かな先へと遅れずついていくことをのみ欲している。あるいはマルコの障害となるものを先んじて切り払うことを考えている。誰もが実力以上の実力を発揮しようと、最善以上の最善を為そうとしている。


 ならば、自分も仕事を徹底しよう。ただのお使いで終わりにはすまい。


「ラウリ室長とは明日の昼に落ち合うことになっています。場所はアーネル団長の天幕です」

「よしきた。酒は団長の私物でいいとして、肴だなぁ」


 釣るかなぁ釣れるかなぁ、などと呟きつつ再び鍛冶仕事へと戻っていく大きな背中に一礼し、エルヴィは来た道を戻った。今夜の宿は町に取ってある。日はまだ沈まない。それなりの額を財布に入れてあるから買い物がはかどりそうだ。貨幣には粒、青銅、白銅、半銀、銀、小金、大金と種類があるが、エルヴィはそれらの中でも白銅貨が気に入っている。仕事としては金貨と証文が専らではあるが、幼い日々にあって大事なお金といえば白銅貨だった。


「大河までは出ないのでしょう? お願いするわ」


 桟橋から小舟に乗った。遊覧である。年寄りの船頭は不愛想に竿を差した。水路には波もなく乗り心地がいい。軍用とあって生活排水の流入も制限されているようで、水面を流れる風の匂いも悪くない。視界の左右には穏やかな風景が先と変わらずに続いているが、今は注目を集めているから露骨な態度はとれない。仕事柄得意となった澄まし顔を通す。


 しばらくして別の桟橋に降り立ったエルヴィは、水上に確認した地図に従って町を歩いた。必要な物は既に持っているし、多くを持って生きていけるほどに一所へ落ち着いた生活をしていない。それでも今年で女二十歳、花も恥じらう年頃だとは思う。思いついて露店で鉄櫛を買った。柄のある形状が好ましかった。


 甲高く鳥の声が聞こえる。雑踏の中にも空を思わせるはずのそれは、しかしエルヴィに緊張を強いる。


 人通りから離れて小道を右へ左へと辿っていけば、まるで建ち並ぶ家屋全てに背を向けられたような空間に出た。目に映る緑色も花壇の類ではない。人工の世界が綻んで大自然が顔を覗かせているのだ。町と村とはここが違う。巨大なるものへ寄り添わない強張りはこのように不調和を育む。だからそこには不自然も潜もうというものだ。


 立ち止まってすぐにそれは来た。


「おや、どうかしましたか、お嬢さん」


 土色の上着を着崩した男がふらりと姿を見せた。エルヴィは前髪を払う仕草に紛れて視線を鋭く動かした。地味な色を羽織ればそれで地元風を装えるとでも言うつもりだろうか……男の足元を見たならば、そこにはいかに速く長く走れるかを追求した靴がある。刃物は何を隠し持っているものか。


「少し道に迷ったようです。宿へ帰ろうと思ったのですが」

「それはいけない。ここいらは少し入り組んでいる。案内しましょう」


 近づく足運びには野暮な身なりとは裏腹の洗練がある。武の気配だ。日常の無駄な動きというものはそぎ落としてしまうと再現の難しいものだ。どんなにか手を大仰に遊ばせようとも、歩みを乱そうとも、重心は崩れず視線はこちらの全体を捉えている。


「……どこへ案内してもらえるのかしら?」

「どこへって……ははは、お嬢さんほどの美人にそういうことを言われると、困りますね」

「困るでしょうね。囲うつもりが、貴方以外がいっかな追いついてこないのだから」


 男の変貌はいっそ見事だった。貼り付けていた笑顔がべろりと剥がれ落ちるようにして剣呑な無表情が現れた。手練れに違いない。エルヴィは得物を確認したかった。間合いがつかめない。


「……龍将軍の秘書官だな。拘束する」

「焦る者に勝利なし。やってみなさい」


 鋭く金属音が弾けた。次いで素朴なお金の音が脇に生じ、転がる音に変わって、やがて静かになった。


「銅貨を投げたか……器用なことを」


 男は得物は小刀だ。それでもって顔面に飛来した白銅貨を防いだらしい。抜く手も見せず咄嗟にそれを為したのだから、やはり手練れだ。エルヴィは小さく唾を飲み込んだ。


「童遊びだな」


 再び動き出さんとした男へ、その起こりを攻めるようにして、エルヴィは再び銅貨を放った。


「二度とそんなものが……ぐわっ!?」


 弾かれたのは左手で放った一枚のみだ。右手で放った本命の三枚はどれもが男の顔面に命中した。指と指の間に硬貨を挟み持ち、一挙動で三枚同時に投擲することが投銭術の実戦技である。エルヴィは身を翻して走った。予想したよりも男の腕前は少し上だ。鉄櫛一つでやり合うつもりはなかった。


「ちっ、逃すか……ぎゃあっ!?」


 その悲鳴もまたエルヴィの予想より早かったから、つんのめるようになりながらも、エルヴィは何とか機敏に振り向いた。男は既に絶命したようだ。土色の上着は地に伏していて血の広がりを見せている。その臭いにエルヴィは顔を顰めた。


「……こういう時は私を背に護るようにして戦うものかと思っていました」

「飛び道具を持っていなかったからな」


 倒れた男の向こう側に立っているのは、緑色の頭巾をした剣士である。口にはせずともその名をエルヴィは知る。彼はベルトラン……マルコを信奉し、暗闇の世界に活躍する男だ。仕事の勲章として功名を求めていた昔を愚かと痛感させる男でもある。彼の仕事は危険度といい影響力といい他と比べて優るとも劣らないにも関わらず、古くからマルコに仕える者以外には名前どころか存在も知られていない。


「殺してしまってよかったのですか?」

「他に四人いた。既に一人は逃がしてある」

「成程、それならば」

「餌がよかったようだ。護衛もつけずにとは、いい仕事をしたな。秘書官殿」


 ニヤリと笑ったベルトランから閃くものが数個放られた。エルヴィは片手でそれらの全てを取る。白銅貨だ。男の死体を放置して何をしていたかといえば、わざわざ拾い集めていたらしい。あとはもうエルヴィのことを見向きもせずに己の仕事へ没入したようだった。ベルトランが鳥の囀りを模して口笛を吹いたなら、ズタ袋を持った男たちがどこからともなく集まってくる。


「では、失礼します」


 エルヴィは地図の記された羊皮紙を畳んで鞄へとしまった。これでアクセリのお薦めするところの全ての要所を辿り終えた。今夜の宿にしてももはや仕事の発生する可能性はない。時間を持て余すかもしれないと思う。


「……練麺でも作ろうかな?」


 ふとそんなことを呟いてみた。マルコに振舞うほどの腕前には至っていないものの、明日の一席とやらに披露するぐらいには作り慣れている。どうせ街中では弓の練習などできないのだ。できる中での修練としては練麺が適当に思われた。軽麦粉を取り扱う店は通り過ぎた商店街の中にあった。調理具は宿で借りられるだろう。


 再びの喧騒の中に身を晒して、エルヴィは思う。


 村であれ町であれ、この世界には生と死があって消えることはない。隠されているか否かに過ぎない。それを直視する者のみが真の力を得る。己の信ずる旗を見上げ、あるいは掲げ、あるいは大いに振る者にとっては、生死の直視は前提条件でしかない。大なる事業に参加したならばその行く末にこそ心は躍る。生死の先を生きることができる。


「あら、この香辛料は初めて見るわ。随分と緑色だけど」

「そりゃあ通好みの逸品だぜ。童にゃ一欠けらも食べらんねぇ。どうだい、えらく別嬪さんだし、買うんだったらこっちの赤色のやつもおまけにつけとくぜ? どっちも炎の味わいってやつだ」

「ふぅん?」


 食材を買い集め、エルヴィは宿へと向かった。


 懐と袖口には白銅貨を忘れずに……キコ村でないならばどこであれその教えを守り、その教えに護られて、エルヴィは夕暮れを迎える。一人静かに過ごすはずであったその夕食は、修羅場を踏んで体に痺れを残すその時間は、しかし賑やかで気の置けない仲間に囲まれるものとなった。護衛団の時代、竹束剣で殴り合った男たちが食事の誘いに来たからである。


 オイヴァとその男たちが大飯を食らう豪快を音楽として、エルヴィの一日は閉じていくのだった。


 龍将軍の秘書官がここにいる……その事実を周囲に喧伝するようにして。

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