第81話 この一献を受けて飲みませ
およそ世間に刺激的娯楽物の多々あれど、何にも増して鮮烈無比なものはといえば、それはやはり人間そのものではあるまいか。王都の夜、アドルフ・マルヤランタは八十年近い人生の結論としてそんなことを思う。
「成程ね。交戦したとしてカリサルミ領へ入られては追う事が憚られるし、西の境からは無傷のエテラマキ領軍が接近してくるしで、已む無くその軍を見過ごしにしたというわけか。ふむふむ……成程ねぇ?」
しかつめらしい顔を作りつつ、努めて猜疑心を声音に乗せ、更には横目で覗き込むようにする。勿論のこと、左手は腰で右手は顎である。腰の捻りと足の向きはこれで良かっただろうかと細部にも思いを馳せて、アドルフは彼の反応を待つのだ。
「ご納得いただけたようで何よりです」
マルコ・ハハトである。当代無双の英雄であり、この数年来の戦乱は全てが彼を中心にして起こっているとすら感じさせる男だ。いや、あるいは本当にそうなのかもしれない。アドルフは新たなその着想を斬新であると自己評価した。総じて劇的なるものは善悪を超えて周囲へと影響すると知るがゆえの思い付きだった。
英雄とは平穏な世に現れることはないのだ。かつて勇者と呼ばれた男もまた嵐の中心にいた。卵が先か親鳥が先かという話だ。嵐が英雄を招くのか、それとも英雄が嵐を呼ぶのか……そら、今もただ座りただ答えるだけで、ただのそれだけでアドルフへと吹きつけてくるものがある。まさに時代をどよもす者の威力というものなのだろう。勢いを求めて三口飲んできた酒などまるで効果を失っていて、怖気を消すことなどできやしない。
「納得はできないかなぁ」
一歩踏み込み睨め付けてみたならば、返事は一言のみである。
「残念です」
何とまあ、平々の然としたものか……アドルフは内心で舌を巻きつつも、実際の舌については躍動感をもって仕事に当たらせなければならないと奮起した。今現在、彼は英雄を詰問する立場にあるからだ。
「進路を塞ぐなりできなかったのかい? 何しろ君の率いる軍はとてつもなく速い。速過ぎて、一度としてぶつかることなしに南部の大軍を崩してしまったほどだ。何だったっかな……飛龍の陣?」
「飛鳥の陣です。それに交戦はしました。予備部隊としての軽騎兵が後方にいましたので」
「これは失敬、そうだったそうだった。ま、それにしたところで一当てに蹴散らしているのだから同じことだね。君と君の騎兵は極めて強力だ。それなのに、敵を目視しておきながらまるで動かずというのでは、龍将軍としての職務怠慢を指摘されても仕方がないのではないかな? 君のことだから、間違っても臆病の類と言うつもりはないけれども」
早口に言葉を重ねていく。同時に大仰な身振り手振りも忘れないアドルフだが、それに紛れて水差しの位置を確かめることもしていた。この素晴らしくも恐るべき人物を相手にする際には、どうしても言葉が多くなる。わかっていてもその修正は困難だ。さりげなさを装って杯を手に取る。老人は喉が渇くものだと心中に言い訳を呟いてみたりもした。
「火撃の騎兵団であればこそ、あの場にあの時点でたどり着き、敵の旗を確認することができたのです。そして問答無用の武力行使をなど全能感にかられて執り行うほどに僕は近視眼ではありません。敵将が誰であったのかを思えば、王国四侯どなたもの称賛をいただける判断であったと思います」
英雄を動じさせることはやはり困難だ。被告席とも言えるその洒脱な椅子に座る姿は美しく、妖艶な瞳の色を僅かに細めて愉快をすら表わしている。アドルフはふと思う。唐突にこの杯を翻し、水をかけるなどしてみたならばどうなるだろうかと。意外性での勝負だ。少しでも驚かせられたならば……ちらりと隙を窺って、アドルフはその悪戯心もまた神妙に誤魔化すよりなかった。英雄が膝に並べ置くその両手に何かの気配を察したからである。あれはいけない。自ら水を被って終わせられる予感があった。
「フム、確かにそうなのだが……それは結果論というものではないかね?」
「結果が出るまでは何をしてもいいというものでもないでしょう。推し量り予見したならばそれを配慮するという、ごく当然のことをしたまでです」
「……いやはや、君はよく口が回るねぇ」
「お言葉を返すようですが、それは閣下の方でしょう。僕が回しているのは頭です」
微笑みながら辛辣なことを言うものである。アドルフとしては無礼を怒ってみせてもいいところではあるが、それが無益であることを承知している。現状、この英雄は王国に必要だからだ。
アスリア王国を南北に分けての王位継承争いは、予定されていた決着点であるところの弓張原会戦を終えてなお、混乱の日々からまるで脱却できずにいる。勝敗としては北部側の勝利である。南部側も一旦はそれを認めたかに見えた。しかし会戦とほぼ時を同じくして思わぬ戦火が西の空に上がり、会戦の意味そのものを暈してしまったからだ。
切っ掛けは謎の騎兵集団による領境の不法越境である。三千騎からなる騎兵集団がカリサルミ領からユリハルシラ領へと侵入し、複数の村に火を放ちつつ北西へと駆けたのだ。あってはならない凶行だ。その場所は弓張原からは遠く、駆け付けられる兵力としては西境のものがあるきりだった。
西境には南北共に兵力を配していたが、かかる緊急時にあって最初に動いたのはユリハルシラ領軍である。五千からなる彼らは仮設砦に駐屯する形でそこへいたものだが、急報を受けるなり斥候を放ち、全軍をもって臨戦態勢へと移行した。凶行を南部の仕業と即断しなければできない行動だ。その辺りを報告に聞いた時、アドルフはその判断の内容と速度を共に評価した。それを為した現場指揮官は若きルーカス・ユリハルシラである。次代のユリハルシラ侯爵であるところの彼は、なかなかどうして、父親譲りの軍才を有するようだ……アドルフはそう感心したものだが。
しかしそれは南部による砦包囲の理由を与えたことでもあった。ルーカスとしては即応部隊を派遣したいところであったろうが、砦の物々しい有り様を警戒するとしてエテラマキ領軍三千が戦闘準備に入り、やや遅れてカリサルミ領軍五千もまたそれに倣った。北からの使者は不審として事情を説明する暇も与えられず、南からの使者は居丈高に臨戦態勢の解除を要求するばかりだった。南北合わせて一万三千というアスリア王国の将兵たちは互いを警戒して身動きの自由を失い、結果、王国の民が焼かれ殺される状況に対処しなかったのである。
結論からすれば、それはエテラマキ伯の策略だった。事後に報告を受けたアドルフとしては驚かざるを得ない事実である。何を考えているとも知れない無粋凡庸の男が、かくも大胆不敵な策を用いたらしい。
騎兵集団の正体はエテラマキ伯お抱えの軽騎兵連隊である。その名を冷月の騎兵団といい、南部においては調練時の仮想敵部隊として認知されていたものだ。ただし、その知られ方は二百騎ほどの規模の傭兵団としてである。まさか三千騎もいるとは誰も想像だにしていなかったようだ。しかもそれを指揮した人物がアドルフの度肝を抜いた。
マルガレータである。
アスリア王国第二王女にして父王に毒を盛った大逆人であるところの女が、この三年間でどのような魔法をかけられたものか、隻眼の将軍としてかかる凶行を為したというのだ。アドルフはそこに善悪を超えた凄まじさを見た。彼女もまた劇物だ。いや、猛毒と評するべきか。王を殺し民を殺し、その血塗れの道程の果てに何をか望むものだろう。近く声明があるとも聞くが、南部の盟主を含む四侯の誰もが戦慄を感じることなしにはそれを待てずにいる。
さても、西の境には極めて危険な状況が生まれてしまった。北はユリハルシラ領軍五千が仮設砦に籠城して四方へ斥候を放ち、南はエテラマキ領軍三千が領境をやや侵して砦を窺い、カリサルミ領軍五千もまた領内からながら兵列を整えて友軍たるエテラマキ領軍と歩調を揃えた。
今にして考察すれば、それはユリハルシラ領軍五千にとって包囲殲滅の危機であった。冷月の騎兵団は北西へ駆けた後にその馬首を南西へと転じ、仮設砦を北側から襲撃する進路をとったからである。一方で南側からは八千の兵力がじりじりと砦へ迫っていたのだから、まさに絶体絶命と言えよう。大なるところの狙いは未だ不明とはいえ、事をユリハルシラ領軍五千への攻撃に限って考えた場合、アドルフとしても唸らざるを得ない軍略である。
しかし事態は更なる変化を見せた。凶なる騎兵団が砦へ至るその途上に四千五百もの兵力が伏せていたのだ。それは砦に篭っているはずのユリハルシラ領軍の内、軽騎兵五百騎を除く全てである。魔法でも奇跡でもない。そんな不可能ごとを可能たらしめたものもまた戦場の策であった。
エテラマキ領軍が砦に物々しさを察知した時、既にして四千五百の兵は北へと密かに出発し終わっていたのだ。慌しい急報の早馬もこれみよがしの斥候も、全ては砦に兵力があることを偽装するための芝居であった。南部八千に対する示強の計である。実際はもっと早期に凶報を受けており、凶事を為す三千騎の動向を探りつつ主力を向かわせていたという。三千騎のあまりの速さゆえにそれでも後手に回ってしまい、しかし包囲の狙いを逆手にとって迎撃の用意をしたというのが事の真相である。
マルコの策だった。
この龍将軍なる者は事前に可能性の一つとして弓張原以西の奇襲を考慮しており、いざそれが起これば砦を目眩ましにして北へ走るべしと策を授けていたのである。ルーカス・ユリハルシラはそれを忠実に実行したに過ぎない。当人は交渉のためもあり砦に残留したとのことだが、この場合、残るも出るも胆力の要るものだったろうとアドルフは思う。やはり父親から引き継いだ才があると、内容を改めつつも評価したものだ。
かくして、ユリハルシラ領軍四千五百と冷月の騎兵団三千はぶつかった。事前協定で禁じられたはずの局地戦の発生である。それはただの一当たりのみのものと終わったが、その影響は絶大と言えよう。弓張原に十万近い将兵でもって戦われた名誉の会戦はその意味を失い、内乱はその終わり方を見失ったのだから。
南北の対立は今や国家間のそれと同じか、あるいはそれ以上の緊張感をもって激化しつつある。
兵力の分布で見るならば、まず最大の危険地帯は弓張原である。会戦に勝利した北部の軍勢は退くことなくそこへ留まっており、その兵数は三万を超える。野戦砦の建設にも着手しており、その影響圏にはカリサルミ領も大きく含まれている。実質的な占拠だ。南部に協定違反の疑いがあるための措置だという。
その南部はといえば、かかる状況では内部の混乱もあろうに、それでも一旦は引き揚げた兵力をば再び寄せ集めて警戒態勢を厳にしている。弓張原の南にはエテラマキ領軍および圭丸騎士団、カリサルミ領軍、パルヴィラ領軍がそれぞれ駐屯し、東には大河の対岸からアハマニエミ領軍が駐屯している。領軍はそれぞれ五千から八千という兵数だ。
西の境においても再びの対陣がなされている。北はユリハルシラ領軍四千五百余りおよび剣角騎士団が仮設砦に合流しており、南は以前同様カリサルミ領軍とエテラマキ領軍が八千の兵力でそれを警戒している。現場における相互不信という意味ではこちらの方が危険度は高いのかもしれない。
また、王都の南では第三王女親衛団とアハマニエミ領軍とが大河を挟んで向かい合っていて、その様子は会戦以前とほとんど変わるところがない。緊張の高まりもなく、アドルフの見るところどちらも戦う気がないようだ。それは中立二侯爵としては望ましい状況である。アドルフもロンカイネン侯もそれぞれに領軍を王都近くへ駐屯させているが、その軍が実際に剣槍を振るう時とは即ち王国崩壊の時であろうと思われた。
そして……南北両軍の切り札と目される軍は、どちらもその所在を明らかにしていない。火撃の騎兵団はその統率者たる英雄こそ今この王都へ召喚されているものの、騎兵団自体はユリハルシラ領のどこへ駐屯しているとも知れない。冷月の騎兵団については第二王女マルガレータの所在も合わせて何一つアドルフの耳に聞こえてこない。恐らくはカリサルミ領のいずこかに潜んでいるのだろうが。
つまるところが、大混乱だ。北の怪老などと呼ばれるアドルフですら腹部に重苦しいものを感じざるを得ない状況である。戦火が拡大していくことは確実で、しかも終わりの目処がつかない。南部諸侯は意思の統一を欠いている気配もあり、それが混乱に拍車をかけている。アドルフの知る限り、南の怪老たる男がこのような無様を企てることはない。思惑の違いによる不和だろうか。それともアドルフが思いもよらないような奇策だろうか。
いずれにせよ、この嵐を制するためには決定的な力が必要である。マルコ・ハハトだ。この英雄をおいて他にそれがなせる者はいないだろう。ユリハルシラ侯ではもはや手に余るのだ。次代を巡る混乱は新時代の英雄によって治められなければならない。アドルフはそう確信するものの、しかし一つの疑惑を捨てられずにいる。
「頭を回している、ね……」
わだかまる心情は口から漏れ出でて、アドルフの疑惑を晒す結果となった。青紫色の瞳が神秘の光彩を放っている。それは見る者をいずこへと誘う光なのだろうか。何かが期待されている。アドルフにはそれがわかってしまう。可能であれば相手を動かしてから踏み込みたかったところだが、もはやいけない。もう踏み込まないわけにはいかない。動かされてしまったこの上は、勢いよく動くしかないのだ。
「成程、確かに君は頭を回している。状況を利用する気なんだね?」
仄めかし合いは終いである。中立の侯爵による南北双方への聴取という建前はここまで、あとは綱渡りとも斬り合いとも知れない緊張を舌鋒でもって戦うよりない。それをしないでは生き残ることはできない。アドルフにはそれもわかってしまうのだ。
好戦的でもなく挑戦的でもなく、むしろ恐怖を抱え悪寒に震え、しかしそれらをおくびにも出さない在り様でもって英雄と戦うべし。マルヤランタ侯爵ともあろう己が無為無能として歴史に記されることなどあってならないし、この英雄が思い描く未来においては有為有能でなければ殺されるに違いない。権威も伝統も何もかもを無価値なものとして、まるで草木を間引くかのように、摘まれ束ねられ焼かれてしまうだろう。
「敢えて断言してみせるけど、ねぇ君、君は内乱を弓張原で終結させる気なんてもとからなかったんだ。まだ足らないと考えているんだろ? かくも王国をかき回しておいて……いや、帝国の方もか……それでも君は不満なんだ。まだまだ満足できないんだ。以前君が言っていた“開拓”とやらを推し進めるつもりなんだ。そうだろ?」
声に震えが混じらないよう抑えることは、同時に速まる口調をも整えることになる。アドルフは水杯を舐めた。その冷たさがありがたかった。
「弓張原に大軍を維持するための用意は、最初から全て整えていました。三年前から準備を進めていました。今、それがとても役に立っています」
アドルフの問いに肯定もせず否定もせず、しかし重大な事実を言葉に乗せて、黒髪の英雄は小首など傾げてみせる。霊妙な眼差しは瞬き一つ必要としないものか。アドルフは退路のないことを改めて思った。
「会戦における南部の軍勢……あれは酷いものでした。討つまでもなく多くが崩れました。僕はそれを兵権を有する者の無能とだけ断ずる気になれません。民であれば犠牲者という理屈には畜舎の糞尿の臭いがします。彼らは知るべきです。龍は南部を無条件に寿ぐ存在にあらず。それの吹く炎とやらは、今、南部の怠慢を焼こうとしているのだと」
ああ、今まさに炎が吐かれている……アドルフは頬の熱さが原因のあるものと知った。やはりこの英雄は壮絶だ。この時代に大嵐を巻き起こしている張本人だ。まだ南部は許されていない。この三年間による経済的打撃も、会戦による被害も、この龍とも人とも知れない者の目には生温いものでしかないのだ。
「教会も御苦労なことです」
来る。次の火熱が来る。アドルフは顎を引いて全身を強張らせた。間違っても怯えなど見せられない。
「彼らの教えは社会秩序を形成しそれを維持するための力を備えていますが、悲しいかな、場当たり的に非合理を合理であると説明してきたために却って理を失いました。また、慣習の上に胡坐をかいたところで経済が混乱しては転げ落ちるのみです。求心力を失いつつあるのですよ。信じたいから信じるなどという脆弱な姿勢を僕は見苦しく思います。すがられ寄り掛かられて、それでも教会は頑張っていますが……いずれ僕はその最後の説得力をも打ち崩すでしょう」
その笑み! アドルフは頬が引き攣り身が戦慄くことを遂に抑え切れなかった。悲鳴をあげなかっただけで精一杯だった。魔性に触れたがためだ。この英雄は絵物語に語られるような善良などまるで体現していない。万民を代表するような存在でもない。それが痛いほどの確信でもってアドルフの魂を打った。強烈にも程があると思われた。
魔人ではないだろうか、この者は。
アドルフの知り得た刺激的な人物たちの中で、このマルコ・ハハトという十八歳の英雄は飛び抜けてしまっている。最も近いところではやはり前戦争における勇者と魔人であろうが、彼らにしたところでこうも抜群ではなかった。人間の匂いがしたものだ。巷間に漂う生活の塵芥を浴びて、日月の寒暖を味わって、持って生まれた才能の最も鋭利な部分を多少とも磨耗させ丸めていたものだ。それがない。黒髪を揺らせ紫水晶のような瞳に光を灯すこの者には、研ぎ澄まされた才が全てを切り裂く迫力でもって在るきりだ。
「いけませんね」
気付けば目の前に彼がいた。アドルフは反射的に逃れようとしたが、しかし身を仰け反らせるばかりで動けなかった。手を掴まれていた。数多の人の生死を欲しいままにするだろう者の手がアドルフの手を捕らえていて離さない。熱かった。老いて乾いた手が焼かれるようだった。悲鳴すら出なかった。
「杯を落としますよ。温んでもいます。注いで差し上げましょう」
アドルフは身動きの一つもとれず、ただ杯を取られ、新たにそこへ冷水の注がれる様を見た。器は国か、それとも世界か。捨てられた水は何を意味し、注がれた水は何を意味するものか。あるいはそれも全て彼の目的に比べれば児戯に等しいものか。
「どうぞ。気をしっかりもってください。まだ朝は遠いのですから」
躊躇うこと数瞬、アドルフはそれを飲み干した。
新鮮なものが全身に行き渡っていった。それは痛みを伴っていたが、しかし呑まねばならないものだった。




