第63話 怠惰も妥協も許されぬと知れ
もはやどうしようもない。あの男を止められる者などいやしない。
ベックは虚脱感と寒気とに体を苛まれながらも、その視界の中心に黒髪の少年を据えて、事態が収拾のつかない方向へと進んでいくのを見続けるよりなかった。典礼官が少年の姓名を高らかに宣言する様も、エレオノーラが得意げに特例を語る様も、どちらも己の思惑を越えて作用するだろうことを確信していてなお動けなかった。
少年により動くことを禁じられていた。ベックはそれを肯んずるよりない。抗い逆らうことは許されていない。どうしようもないのだ。事前に少年が命じてきたものを破ったならば、より悲惨な未来がやってくる。一つの弱みが握られていて、それはベックら教会にとって致命的だった。
金切り声が上がった。少女のままに今までを生きたエレオノーラだ。
全身を硬直させ、背伸びするようにして叫ぶその姿は狂おしい。眼は血走って真円を描き、鼻梁は皺を深くして二穴を晒し、口は頬を歪ませて顎を突き上げるおぞましの弓形を描いて、その面相は妖魔の類と成り果てた。震えを全身に不規則に波立たせ、認め難い現実を目の前に凝視している。彼女の夢世界に在り得ざるものと直面している。
少年が少女の前に跪いていた。ベックはそれを見ぬわけにはいかない。目を逸らしたところでもはや己の謀略は破れていて、この場に挽回の手段などないのだ。少年の謀略が成り行く先に、僅かでもマシな着地点を見つけるよりない。握られた秘密が暴露されたならば全てがご破算となる。
再びの悲鳴が上がった。顔を抑えて床をのた打ち回っているのはマルガレータだ。
エレオノーラが闇雲に振り回した細剣が命中したのだ。傷は深いようで、泣き叫び首を振るたびに血が飛び散っている。いかにも反応の遅いことだが、両王女の侍女武官がそれぞれの主に抱きつき取り押さえている。しかも腰が引けていて、二つの色をもってする悲痛の絶叫を止めようもない。エレオノーラは心の痛みを、マルガレータは体の痛みを、それぞれ世界も裂けよとばかりに訴えているのだ。
少年は静かにそれを見ていた。ベックと目が合うなり、幽界の青紫色に発光するかのようなその両眼を細め、小さく横に首を振ってみせた。苦笑しているのだ。少年の目にはその程度のこととしてしか映らないのだ、この凄惨な有り様が。
この場に集った誰もがその魂を凍えさせていた。事実、あちらこちらで糸が切れたように倒れる者が現われていて、呻きつつ蹲る者はそれより多く、残る大多数も顔面に血を通わせることを忘れ立ち尽くしている。ヨロヨロと動き出す者もいるが、事態の収拾を図らんとしたところで、王女の身分が踏み込んだ対応を妨げているようだ。
ごく少数、かかる状況においても毅然として動く者たちがいる。ベックは彼らをこそ見極めなければならないと理解していた。次の十年の鍵となり、大陸の未来に強く影響するに違いない者たちだ。
「医官を呼べ! マルガレータ様だけではない! エレオノーラ様にもだ!」
率先して動いているのはユリハルシラ候だ。かかる事態においても揺るぎない在り様はいかにも貴族の長たる態度で、ベックの見たところ、近年の塞いだ様子から脱却して往年の迫力を取り戻したような印象もある。その理由に思い当たる節があるから、ベックは腹の底に冷たいものを覚えた。
他の四候六伯はと見てみれば、やはり年嵩のいった者を中心に無様を免れている。マルヤランタ候、アハマニエミ候という怪老二人については動じるわけもないし、その二人に継ぐ年齢のパルヴィラ伯も手に持った焼き菓子を啄むことを止めたのみだ。それについてはそもそも現時点で未だ取り皿を手にしていることにベックは目を見張る。
かつての戦乱で父を亡くしたロンカイネン侯は、壮年の身の上としては踏み止まっているものの、他の侯爵と比べたならばいかにも頼りない。比較対象が悪いか……ベックは思考を転じて、同年代であるエテラマキ伯を観察した。動じていない。しかしそれは鈍さであるのかもしれない。自ら動くことを滅多にしないというその男は、今も狂乱の風景を他人事のようにして些かの乱れもないようだ。
新顔の伯爵としてのペテリウス伯、カリサルミ伯はといえば、どちらもが蒼白に立ち尽くす多勢の内の一人と化している。ベックはそれを無理もないと思う。この日この時、美しい王女から剣を当てられ、栄誉栄光の一時を体験した二人である。同じ王女がかくも狂乱し、同じ剣があってはならない惨事を起こして取り上げられたのだから、爵位の重責を担ったばかりの青年らに不動心を求めるのは酷だろう。
四候六伯の残る二人、サルマント伯とヘルレヴィ伯についてはとても仲睦まじい様子である。口から泡を吹く鼠のようなヘルレヴィ伯をば、背から鬣獣のようなサルマント伯が呆れ顔で支えているのだ。ベックはそこにいたはずのもう一人を探した。これほどの惨事を想定していたかは知れないが、少なくともエレオノーラが激昂すること、場が混乱することについては承知していたはずの男を。
いた。青い飾り布を揺らせて、第三王女親衛団の団長を務めるその男は少年の側近くに侍っている。パウリーナの侍女武官が主を護るように前へ立つのに対して、男は自然体で少年のやや後方へ立つ。その目は油断なく周囲の様子を窺っているが、頬には興奮の色があるし、口元に浮かぶのは見間違うこともなく笑みだ。男は式典の狂い様を楽しんでいる。
そうであろうとも、とベックもまた口元を歪めた。胸中に込み上げる不愉快があった。叫び出したいほどの激情が渦巻いていた。言葉が次から次へ生まれては口をついて出ようとし、それを止めることに努力を要した。
そうであろうとも。さぞかし楽しかろうよ。お前はそこにいて、私はここにいる。お前の前には彼がいてその威力を発揮しており、お前はそれに従って共に世界へ影響していくことを許されている。素晴らしい風景が見えていよう。漲る力を体感していよう。充実していよう。何とも愉快であろうな!
ベックは思わず強く一歩を踏み出していて、それが大きな音を立てたものだから、俄かに衆目を集めることとなった。今や二人の王女はどちらも退出して人々のどよめきがあるばかりだった。三人目の王女と少年は超然と成り行きを見守るのみでこの場の雰囲気に迎合する気配などない。大多数が事態の異様に呑まれて次の行動を図りかねていたところへ、ベックは図らずも自己主張してしまったのである。
幾つもの顔がそれぞれの速度でベックへと振り向く。鋭く、ギョッとして、悠然と、のろのろと。そしてそれぞれの表情でベックを見る。怯えて、警戒して、訝しげに、面白げに。誰もがベックの次を観察している。東方司教が動き出すことを待っている。
彼も見ていた。
何人も揺るがし難い巨大を華奢な体躯に秘めて、黒髪に薫らせるは死の陰影、赤布に思わせるは罪の火炎、双眸に青とも紫とも定かならぬ妖光を灯す姿は……“魔人”だ。ベックは真の魔人というものを見たことがないが、少年の在り様たるや、かつて魔人として死んでいった男よりも遥かにそれらしい。
ベックは知る。人の才の抜群として誰よりも凄まじかった男を。火刑に処された男を。
ベックは知る。人に非ざる霊威を身にまとって強大だった男を。勇者と呼ばれた男を。
その少年は……血脈の貴賎や兵法軍略の強弱巧拙をもって人の世の上位にあることを自認する者たちをば、ただの雑踏の一括りにして迷うところもない少年は……マルコという名の彼は、勇者の霊験にも似た何かを感じさせつつ、炎に殺された英雄の如くしてそこに在る。呼吸している。ベックを見ている。
しかも笑むのか。上弦三日月の曲線を描く恐ろしい唇が、裂けて、音を発せずに言葉を紡いだ。ベックはそれを読んだ。いいよ、と言ったようだった。少年は僅かに顎を引いて頷きさえした。何かを許可しているようだった。それは挑発なのか命令なのか、あるいは慈悲なのか冷酷なのか。
もう、ベックは動くよりない。
返事の代わりに大げさな表情を作ってみせた。頬の肉を持ち上げ、眉を捻じ曲げ、渾身の力でもって己に滑稽を体現したのだ。道化じみた驚愕の顔である。その意味するところは宣戦布告だ。
たとえ望まぬ役割であれ、事ここまでに至ったならば、もはや最後までやり遂げる他に生き方も死に方もありはしないのだ。いずれ避けられぬ対決であるならば、ここは攻め込まなければならない場面だ。これ以上の失望を買うわけにはいかない。ベックは唾をゴクリと飲み込んだ。震える身に息を吸い入れ、吠える。
「おお! 何と痛ましいことが起きたものか! どうしてこのようなことが!」
大声を上げつつ両腕を広げて悲嘆を表したならば、果たして追従の顔が幾つも幾つも広がっていった。その場に漂う感情を拾い上げることはベックの得意とするところである。それを増幅し、導くこともまた。
「エレオノーラ王女殿下はその御心を乱し、マルガレータ王女殿下は不幸な不幸な事故に見舞われてしまった! 王国の中枢たる王都のここで、貴い身分でもって国政を担う皆々様の前で、何という恐ろしいことが起きてしまったものだろう!」
この混乱はかくの如しと断言し、定義付けていく。人は不安を忌避するからこれに飛びつく。多数派の安全の中に逃げ込むのだ。ベックは己の舌が動かすほどに潤い、速くなっていくことに気付いた。その力の源は腹に据えかねる何かで、今自分は大声を出したいだけなのかもしれない……そうも思った。
「しかし私は知っている! かかる悲劇を招いた原因のあることを!」
指差すことはせず、まるで主賓を紹介するように身振りして、ベックは少年へと衆目の焦点を放りやった。束ねられた多勢の意識には非難の色が加味されている。疑問ではぬるい。少年の笑みは微塵も揺らがないが、それでもベックは全力を尽くすのみだ。
「敢えて家名は口にすまい……マルコよ! 何の権利あってか上座に立ち続ける者よ! まずはこれを問おう! 汝は何を思ってその家名を選び取ったのか! 汝の前にそれを名乗った者が何者であったか、王国の民の鑑とも謳われた汝が知らぬわけもあるまい! 帝国皇帝を前にして“聖炎の祝祭”を論じた汝が知らぬでは通らんところであるぞ!」
踏み込んだ発言だった。教会は王国の政治について積極的に意見する権利を持つわけではない。曲がりなりにも貴族として承認を受けた少年に対して、ベックは今、その正統性を問うている。一人の貴族を衆目の中で糾弾しようとしているのだ。
その返答は思わぬところからやってきた。
「王国貴族の名誉を傷つけること、断じて許し難し!」
ユリハルシラ候である。王国貴族の筆頭たる者が、老いを感じさせない迫力でもって、ベックと少年との間に割って入ってきたのだ。ベックはそこに往年の大将軍の在り様を見た。
「ハハト家は由緒ある貴族である。王国の歴史に多くの軍功を記録されておるものぞ。その中にはサロモンという当主の名もあるが、その者がどのような末路を迎えたとしても軍功が帳消しになるものではない! ましてや、御坊が執り行った火刑とはハハト家の当主を裁いたものではないぞ! 家名は返上されていたではないか!」
口ぶりが生き生きとしていた。態度に自信と充実とがあった。ベックは己の腹中にいよいよ盛んになる衝動を覚えた。お前もか。クラウスよ、お前もなのかと。反論するその舌鋒も激しさを増していく。
「これはこれは、ユリハルシラ侯爵閣下ともあろう御方が、異なことを仰いますな! ハハトの家名が王国にとって忌むべきものとなったことは確かでありましょう? 名誉とは不変不動のものではなく、間断なく時代に審査されて価値を定められるもの。かつての戦乱とはまさに名誉を試すものでありましたなあ! 勇者と共に在って英雄となったハッキネン家然り、護国の御大将として名実共に貴族の筆頭となったユリハルシラ家然り……魔人が名乗ったことにより貶められたハハト家もまた然り!」
言葉で斬りつけたならば、やはり言葉で斬りかかられる。それは戦いであるから、ベックとユリハルシラ候の間に人は絶え、誰もが遠巻きにして観戦する構えのようだった。気付けば両者の間の距離は縮まっている。
「無礼者め! いかな教会とて王国貴族の名誉を審査する権利などあるわけもないぞ! 全ては王権の定めるところであり、王はかつても今もハハト家についてそれを貶める発言をなされたことなどないわ!」
「王権? 王権を口にするのならば、侯爵閣下、まさにその代行者たるエレオノーラ王女殿下こそが魔人糾弾の代表者ではあらせられる! その王女殿下が不快に思う家名がどうして名誉を保っていると言うのやら! はっはっは!」
「つくづく不遜を吐く! この場におられぬ王女殿下の御心を、どうして今、御坊が代弁する権利を有するというのか! 勇者伝説にかこつけて全てを寓話の世界に引きずり込むことなど許しがたい暴挙である! 領分を越えた発言を猛省あるべし!」
「勇者伝説を寓話と仰ったか! エレオノーラ王女殿下がおられぬからといって!」
「軍略による火計を龍の火炎などと飾り立てることのいちいちに、余人は知らず、このクラウス・ユリハルシラがいつまでも追従するとは思わぬことだ! つきあいきれぬと言っている!!」
ユリハルシラ侯の雷撃のような一喝が為された。とてつもない発言だった。謁見の間には咳一つ生じない静寂が生まれ、誰もがそれを破らない。ベックもまた衝撃を感じずにはいられなかった。ワナワナと湧き起こり体を震わせるものは感動か、あるいは憤怒か。
ベックは言葉を発しようとして、口が窮屈で動かし難いことに違和を覚えた。肉のついた頬に触れる。歪んでいた。この上なく、この十数年で一度としてなかったほどに、ベックは笑顔になっていたのだ。視界が広いことにも気付いた。今、自分はどれほどに目を見開いているものか……ベックは鼻息も荒くそれも手で確かめ、そして堪らずに哄笑した。大声で、全身の肉をユサユサとして、大笑いした。
見る。ついにそれを言ってしまった旧知の男をば、ベックは見る。クラウス・ユリハルシラを見る。かつての戦乱における王国軍の良識であり、宿将であり、政治的事情を知りつつもあの男を火刑台へと送り出した男を見る。雄々しい。その後背にいる少年は見えない。
二歩、三歩とベックは進んだ。叫ばずとも声の届く距離へと歩み寄るのだ。もはや遠慮はいらない。ベックはこれまでの健闘を称えて握手でもしたい気分にかられていた。忌まわしき聖炎の祝祭よりの十数年を、火刑後の世界を、立場こそ違え互いに歯噛みしつつ働いてきた仲だった。暗黙の内に築いてきた協力関係があった。抱える苦悶は共通するもののはずだった。
三歩の距離にまで寄って、ベックはユリハルシラ侯と対峙した。視線に感情が乗るのなら、さぞかし高熱が吹き荒れ火花が散るだろうと思われた。表情は異なる。しかし互いに嵐を抱えていると知れた。
憎み合いがそこに在った。
「随分と楽しそうに吠えるではないか。後ろめたさはどこへ行った、クラウス・ユリハルシラ」
「貴様こそ、己が堕ちてはいかんところにまで堕ちたことを恥じよ。ヨアキム・ベック」
周囲に聞こえるか否かという、そんな音量で言葉が行き交った。
それは決別の挨拶だ。もはやこの後は互いを思いやることなどなく、互いの死を願い、その屍を踏み越えた先にしか望む未来など訪れないものと思い定めて……そのことを伝え合ったのだ。
「祈りを捧げたばかりの新たな伝説を蔑ろにする今しがたの発言、教会としては許すわけにはいきませんぞ、侯爵閣下」
ベックは大きく身振りして、息も絶え絶えな面々を見渡してやった。誰もが見えざる権威の矛先を恐れて仰け反り、後ろに下がりもして、ベックの意のままに人の波がうねった。視線を戻したならば、そこには威厳をすら感じさせるユリハルシラ侯の立ち姿がある。応戦の言葉が更なる衝撃を生む。
「諸卿、聞くべし!」
もはや並の者では威儀を正すこともできぬ中で、それを叱咤するように声を上げたユリハルシラ侯は、続く言葉をもってしてアスリア王国内乱の第一歩を踏み出すのだ。
「私、クラウス・ユリハルシラは四侯六伯の長たる権限により、ここにパウリーナ王女殿下の王位継承権第一位への昇格を発議するものである!」
そこまでの覚悟であるならば、こちらも相応に対するのみ……ベックは冷徹にそう思うばかりだ。謁見の間に吹き荒れる有象無象の感情を聞き分ける。分析する。計算する。今やこの場は内乱の勢力図を定める分水嶺と化した。瞬き一つの油断も許されない。
戦いは、始まったのである。




