第62話 知らないその続きを知るために
表彰式典が開催され、絵物語の如くに進行していた。
今や謁見の間には咳の一つとてなく、金銀螺鈿の装飾も荘厳として、王国の尊き者たちが揃い踏みしている。至尊の玉座は空席なれど真紅の装いにして豪華絢爛、そこがこの王国の頂点であることは変わらない。その足元から広間を貫いて長く伸びゆく赤絨毯の道は、まさに王国最高の舞台だ。誰もがそこを歩く栄誉に身を震わせ、そこで繰り広げられる物語に心を震わせる……赤色の直線に左右分けられつつも諸人挙りて、舞台に呼ばれることを期待し、呼ばれた演者へと喝采を送るのだ。
マルガレータはそれを特等席で観る権利を有する。最上の座に近い王族のためのその席は、上手隣には姉エレオノーラが座り、下手隣には妹パウリーナが座る。本来であれば父王の政を傍観するための場所であるそこは、今、王権の長たる決定を側近くに見聞きすることができるからだ。
「アスリア国王の権を代行し、私、エレオノーラが許す」
その美貌を豪奢に飾り立てたエレオノーラが己の席の前に立ち、その手に聖別の宝剣を優雅に握って、一人の青年の肩に刀身を触れさせている。四侯六伯がそれを行えば騎士の叙勲であり、王がそれを行えば爵位に関する何某かの意味合いを持つ。今行われたそれは爵位の継承だ。
「あり難き幸せ。亡き父の誇りと、父に従い果てた一万将兵の勇気とを我が魂とし、この身の燃え尽きるその日まで不断の努力で戦い抜くことを誓います。アスリア王国に栄光のあらんことを」
黒髪黒目で眉目秀麗な彼が、新たなるペテリウス伯爵である。その礼装の一分の隙も無い着こなしといい、気難しげな表情といい、窮屈で格式ばった人物であることがマルガレータには見て取れた。言動と併せて鑑みれば、どこか飄々としていた前ペテリウス伯とは異なり、職務に精励することの他に生きる術を知らないようにも見える。マルガレータは判断する……見た目はいいががつまらない人間だ、と。
次いで、同様にエレオノーラの宝剣を肩に受けた人物がいる。典礼官の口上もほぼ同じだ。なぜならばその青年もまた爵位の継承が舞台上に上がった用件である。
「あり難き幸せなれど、我が父の首級をあちらに預け置く間は、真に伯爵領を継いだとは思いません。父が先駆した帝国侵攻への道、この私もいつか駆けて見せましょう。アスリア王国に栄光のあらんことを」
金髪碧眼で容姿端麗な彼が、新たなるカリサルミ伯爵である。その装いには洒脱なところがあり、優しそうでいて悪戯っ気の閃く目元、自負の滲む口元、どちらもが彼を華のある貴公子としている。畏まり殊勝なことを言っているようにも聞こえるが、もとより父親の功績の内の多くを担っていたともされる彼のことだから、言う以上の何かを成すつもりなのかもしれない。マルガレータはそれを野心と見た。
王国の重鎮たる四侯六伯十人の内ではこの二人が若手である。それはつまりマルガレータにとって配偶者となり得る二人であるということだ。どちらも未婚者であることが、そのままに立候補を意味している。少なくともマルガレータはそう承知している。
父王亡き後は姉が女王となり、自分はいずれかの大貴族へと降嫁する……それがマルガレータにとっての未来図であり、そのためには夫選びは重要事項だ。勇者との物語のような恋もしてみたく思うが、それが夢のような奇跡であって、現実的にはあり得ないことをマルガレータは弁えている。
彼女の視界には黒髪の新ペテリウス伯があった。
戦争の埃っぽさは今後収まり、平穏で文化的な時代が再開されるとマルガレータは予測している。そうであるならば地味で根気のいる政務が増える。花とは土作りが重要なのだ。そしてそれは、領都を破壊されたペテリウス伯爵領において最も困難なものとなるだろう。領地の位置も最前線だ。その復興はアスリア王国の十年後を占うものとなるかもしれない……そんな重責を担う新伯爵の隣に立つ自分を想像し、マルガレータは小さく鼻を鳴らした。
楽しみは少ない頻度で、短い時間しか訪れないに違いない。しかし彼女はその必要性を認めたのだ。姉エレオノーラが女王として輝く時代において、妹たる己が最も効果的に働くとすればペテリウス伯に嫁がなければならない。第二王女が降嫁したという事実が必要だ。王権の安定のためにはそれが最適解だ。マルガレータはそう見極めた。
第二王女が多くに思いを馳せている間にも式典は進む。伯爵についての言及が終わったならば、次いで子爵、男爵、更には準貴族たる騎士の叙勲もまた主だった者についてはこの場でそれを行われる。大変な名誉だ。新伯爵二人がそれぞれに新たな騎士を認定するところなどは大変に見栄えが良く、絵画にしても歌曲にしても人気を博すことは疑いないとマルガレータには思われた。
「さて、ここで皆には感謝の祈りを捧げて貰いたく思う」
エレオノーラの声が貴き者たちの頭上を美しく響いていく。
「既に聞いていよう。此度の帝国の侵攻において、我らは護国の龍により守護を賜っていると。東龍河における敵船団の大炎上がそれである。これは未確認ながらも、教会より奇跡の可能性が高いとされている……そうであるな、司教」
喜色の末尾に苦さをまとわせてエレオノーラが声をかけた先には、肥満体のベック司教が立っている。マルガレータは事前に話せなかったことを残念に思いつつも、その肉多き顔を見やって、意外さに小さく声を漏らしてしまった。
顔色が悪い。いつものように笑みを浮かべてはいるものの、肉の皺で細め隠した眼差しには欠片の余裕もないようにマルガレータには感じられた。心なしかその頬も肉に張りがなく、垂れ下がり、老いたような印象がある。
「左様左様、全くもって目出度きことでありますな! 神が、この国の在ることを寿いでおいでなのでしょう……さあ! 皆々様! あちら、西を向いて手を組みましょうぞ! 東龍河へ感謝を!」
やはり無理をしている……マルガレータはそれを目の端に確認するも、その目を閉じて祈りの姿勢をとった。帝国軍六万を一挙に焼いたとされる東龍河の奇跡、龍が火を吐いたとされるその新伝説に、些かの感銘も受けずとも感謝する。助かったのは事実だ。しかし内実は無理な侵攻作戦がそこで破綻をきたしただけだろうとマルガレータは考えていた。その後一気に王国領からいなくなったことからも、やはり尋常の作戦ではなかったのだろうと。
瞼の裏の闇の世界で、簡単に独りきりになれるそこで、マルガレータはいつも思うのだ。
世界なんてお芝居。主役がいて脇役がいる。そして脇役は何を為そうとも成功しやしない、と。
かつての戦乱において幼いマルガレータは脇役の中でも特につまらない脇役だった。幼児としてただ安全な所へ押し込められるばかりで、ただ見知った顔が減っていく現実に怯えていただけだ。兄がいたはずだ。他の姉もいたはずだ。そもそも彼女の母は王の妃の内の第一位ではなかった。四侯六伯にしたところで、ロンカイネン侯爵とエテラマキ伯爵が討ち死にした。子爵以下の貴族も死んだし、騎士に至っては顔を覚える間もないほどだった。
そんな人々の狂騒を横目にして、どんな危険にも負けない人間がいた。むしろ危険であれば危険であるほどに力強く輝き、周囲を魅了してやまない特別な人間……それは敵味方共に幾人かいるように思われたが、中でも最大の存在が勇者だった。そしてその勇者に愛された姉もまた特別だった。
生きる者がいて、死ぬ者がいた。戦争の中でそれは偶然でもなければ、戦う力の強弱ですらなかったようにマルガレータは思い返す。誰がこのお芝居の最後にまで登場し続けるのか……つまるところ、それは主役か脇役かの違いではないだろうか。そう感じていたから、勇者が死んだと聞いた時、心の底から驚いたものだ。物語の結末が差し替えられたような、そんな気分で、現実がわからなくなった。
しかし、やはり主役は勇者と姉だったのだ。恐ろしい“聖炎の祝祭”という結末をもって、二人は勇者伝説という悲恋物を主役として演じきったのだ。自分はそんな素晴らしい女性の妹として生きる権利を有している……マルガレータはそれを誇りに思うし、十五年経った今もまだその物語の後日談を生きているのだ。
祈りが終わり、諸々の表彰が終わってからも、この謁見の間に集う人々が飽いたり帰ろうとしたりすることはない。誰もが未だ何かを期待するような顔をして、何かに落ち着かない風で、その視線を行き交わしている。玉座でこそないもののこの場の最上位であるところのエレオノーラの方へと、熱の篭った視線を代わる代わる投じている。
果たして、エレオノーラは嫣然として高貴なるそれらを受け止めているのだ。それは既にして熱烈な支持を集める女王の構図である。マルガレータは目に涙をすら浮かべた。美しく強いその在り様は、悲劇の王女の後日の姿としてどこまでも崇高だ。それが時代の主人公の姿でなくて何だというのか。
「ほほ、わかっている。皆に紹介する者が残っているな。誰よりも賞賛されるべき英雄が」
熱気が膨らんだかのようだった。その圧を弄ぶ様も艶やかにして、エレオノーラが指し示したその先には、扉が開かれて一人の少年の姿がある。遠目にも端整な彼こそは最後にして最大の出演者だ。無数の熱視線を涼しげに浴びて欠片の緊張もなく、その流麗な歩みが乗るのは玉座へと繋がる紅の一直線。礼装の襟首にも赤色の布があって、少年の歩みに合わせて揺れ動く様は火炎を装飾としているかのようだ。
風が……室内において吹くはずもないそれが少年の黒髪を舞い上げた。あるいはそれは首の火色が空気を逆巻かせでもしたものか。それとも彼の表情が周囲へ表出することを望んだものか。
微笑んでいた。しかしそれは何という微笑みだろうか。紫水晶を思わせる神秘の瞳が妖光を発していて、まるで深い深い谷底から霊気が立ち昇ってくるかのようだ。しかもそれは熱い。見たものの目から入って内側を……心を、魂を焼く。焼きつく。マルガレータは眼底にその色が残ることを確信した。
そして、怒りを覚えたのだ。
何だというのか、その少年は。何様のつもりでそのように世界を睥睨しているのか。王国の貴きを左右にして野を散策するが如きであり、その一歩一歩は至高の赤の価値をすら足蹴にしていて、玉座へと易々と近づいてくる様には身の毛がよだった。
この少年は、そのまま、玉座に座ってしまうのではないか?
予感が悪寒を伴って訪れて、マルガレータは咽の奥に息の苦しさを覚えた。少年は明確に圧力を放っていた。その巧妙に整えられた容姿は、教会の船の舳先に取り付けられるという魔神像の類なのかもしれない。周囲を魔力で押さえつけるところがある。あるいは不可視の大軍を背後に率いているのかもしれない。退かせ難い巨大さを発揮している。
姉を見た。夢のような麗しさを体現して、祝福の神像のように少年を待ち受けている。その姿はしかしマルガレータの焦燥を誘うのだ。違うと。わかっていないと。どこまでも美しく在ることが、マルガレータの憧れるところの在り様が、今、危機に晒されているようにしか思えないのだ。
少年が玉座からも姉からも遠く跪いた時、マルガレータは大きく安堵の吐息を漏らしたほどだ。彼女の姉が陶酔の笑みをもって受け入れたそれは僥倖とすら思われた。しかし未だ予断を許さない。鼓動が激しく咽奥を突き上げる。
「キコ村のマルコよ。“火撃”の騎兵隊を率いる者よ。此度の戦いにおいて特別の戦旗を掲げたるお前の功績は、満場の一致をもって最大にして第一位と認められるものだ。私、エレオノーラは、王権の代行者としてそれに大いに報いようと思う」
威厳のある姿だった。この場に集いし高貴な者たちの総意を代弁し、どこまでも自信に満ちていた。しかし危うい。マルガレータは愕然とする思いでエレオノーラを見ていた。つい先刻までは主役であったはずの姉の姿が、視界に青とも紫とも言えないそれが焼き付いた今、悲しいほどに道化じみている。
「先ず、お前に家名を授けよう。貴族になるのだよ。いずれかの家に養子縁組をとも思うたのだけれど、お前はそれを一度断っている。美談よな。今更それをさせるのも興ざめであるから……途絶えて継ぐ者もなき家より、お前の好きなものを選び取ることを許す」
エレオノーラの言葉を受けて、典礼官が装飾も美しい巻物を持って前に出た。それを広げたならば、二十を超える家名がズラリと列記されていて、その多くがマルガレータに過去を思い出させる。かつての戦乱によって絶えた家だ。その後の復興期に養子を認められずに絶えた家も混じるが。
中でもたった一つ、異彩を放つ家名があって、それはマルガレータの目には色すら違って映った。典礼官はその巻物を周囲にも広く示しているから、同じく気付いた者たちが次々と唸り、どよめきが込み上げていく。
典礼官は少年の前に立ち、巻物を示して、いずれかを指し示すことを求めた。マルガレータには予感があった。あれだ。あれを選ぶに違いない。あれを選び取ることによって、少年はその不遜の証を立てる。
食い入るような視線を一点に集めて、少年の指が、巻物に触れた。
ああ……果たして彼はそれを選んだ。その位置はやはりあれだ。その家名はかつてあの男が名乗ったものだ。典礼官が仰々しく声を上げる。忌むべきものとなったはずの家名をば、少年の名と連ねて姓名にするのだ。もう誰にも止められない。
「ここに、アスリア王国貴族、マルコ・ハハトが誕生するものなり!」
どよめきは一気に盛り上がり、マルガレータはそれが否定一色でないことに驚愕した。あり得ざることのように思えた。嫌悪や不快を表した声は確かにある。それは勇者伝説を賛美するこの国の当然だ。しかし賞賛や納得といった感情を表した声もまた上がっているのだ。それの最大はどこか。誰か。
先の決戦に参加した者たちだ。戦馬鹿で雅を理解しない男であるサルマント伯、貧乏性で神経質な小男であるヘルレヴィ伯、そして……その二人の間に立って実に風流な佇まいを見せる不敵な男……第三王女親衛団の団長だ。その三人を中心とした一団が事態を肯定的に捉えていることは明らかだ。マルガレータが夫として選ぶところの黒髪の貴公子、ペテリウス伯もその一団の中にいるではないか。
「……ハハト? そんな家名が混じっていたか……そんな家名でいいのか?」
不思議そうな、ただ純粋に不思議そうな声がして、マルガレータら全ての注目を集めた。エレオノーラである。小首を傾げた美女の、その眼差しはどこを見ているとも知れない。見た目の美しさをそのままに、何故か幼くなったような印象がマルガレータを捉えた。
「ハハト……マルコ・ハハトか……響きは悪くないが、どうしてか印象が悪い……どうして?」
マルガレータは酷い悪寒に襲われた。反射的に探した人物がいる。存在感もなく控えるその男は、姉の夫であり未来の王配であるところの元聖騎士だ。勇者と同じ名の彼を目線で探した。いた。控えているべきところにいるが、しかしその表情は常と同じの微笑みであった。動く気配もない。
「まあ、良かろ……そこはどうでも……」
遠い。エレオノーラのその発言は何かがマルガレータから遠かった。どうでもいいわけがなかった。なぜそんなことがこの場で許される。そもそもどうして用意されていたのだ。マルガレータは視線を走らせて、一人の老いたる男のところでそれを止めた。クラウス・ユリハルシラ侯爵。彼だろうか。いや、彼しか考えられない。かかる重要な事案が彼を素通りして成されるわけもない。
責める眼光があった。マルガレータからではない。ユリハルシラ侯のその鋭い眼差しは今、他の誰でもなくマルガレータに向けられていた。この場では逆であろうと思った。胸元に冷たく突きつけられる無形の何かを感じて、マルガレータはしかし、恐怖よりも何よりも憤りを覚えた。
四侯六伯の長とはいえ、それは臣下の長であるに過ぎない。現状、王位継承権の第二位たる自らに向けていい視線ではないように思われたのだ。
「ではマルコよ。次に、お前の軍才を最大限に活かすために幾つかの特例を設けよう」
あり得ない発言だった。マルガレータはユリハルシラ侯とぶつかる視線を引き剥がし、姉のその顔を窺った。夢を見ている。この状況で、未だ覚めない夢を見ている乙女がそこにいた。今、目の前で、勇者を謀殺した男の家名が新しい命を得たというのに、それは彼女にとって僅かな当惑でしかなかったのだろうか。選んだ者も、用意した者も、そのどちらからも暗に示された何かがあるだろうに。
「お前の率いる“火撃”を三千人規模へと拡大せよ。騎士団の如く誇り高く、親衛団の如く絶対の忠誠を示せ。その軍旗としては件の戦旗を掲げよ。その意味するところは王権の特別な守護軍であるということだ。騎士団よりも親衛団よりも上位の軍団として、必要とあらばそれらを先の決戦の如くに指揮せよ。護国の龍が放ったという火炎を体現する軍となるのだよ。ほほほ……素晴らしかろ?」
エレオノーラは再び陶酔し、満足げである。マルガレータはそこに姉の浅慮を見てしまった。第三王女親衛団の別働部隊として在った騎兵隊をば、親衛団から出向する形で指揮していた少年ごと独立させて、むしろ上位に据えてしまう……パウリーナから少年と騎兵隊とを奪い取ることが目的なのだ。貴族の意向をいちいち窺わなければならない騎士団とも、パウリーナの二番煎じとなってしまう親衛団とも違う、時期女王となることが確定している自らのための特別な軍団を組織したつもりなのだろうが。
「マルコの率いる火撃の軍団の上位には、ただ王権の頂があるのみ。その性質上、多くにおいて独立行動権が認められような。ふふふ、特別な英雄には相応しい待遇よ。お前は並み居る将軍を抜き去って、勇者様に準ずる立場を得るのだから……嬉しかろ? 私はとても嬉しく思う。この特例は王国が王国の定めたる勇者様を得たに等しい」
マルガレータにとってそれは危険な発言でしかなかった。少年が特別扱いに感動し、王国のために献身するというのならばいい。その決定は彼と彼の軍とを姉のための特別にするだろう。しかし、王国のあらゆる権威を平然と見渡し、ハハトという家名を選ぶ彼にそれを期待できるのだろうか。
息を飲む貴人たちの中に、独り、血の気もない顔色で立ち尽くしている男がいた。マルガレータにはそれがまた衝撃的であった。ベック司教である。嫌味なまでに健康的な肉塊であったはずのその男は、今や肉の重みに耐えかねている老人のようでしかなかった。張り付く笑みもなく、ただ虚ろな表情をして、その視線を跪いた姿勢のままの少年に向けている。
事態はマルガレータの理解を超えて進行していることは間違いがなかった。それでも閃くものがある。会ったのではないか。マルガレータは為す術もない状況にあって視線を二人の老人の間で行き来させた。ベック司教は事前に少年と会見したのではないか。ユリハルシラ侯もそうだ。この国の中枢に大きく立つところの二人は、既にして、少年の魔的な影響の下に置かれているのではないか。そうでもなければかかる異常事態が罷り通るはずもない……マルガレータはいや増す焦燥を持て余して歯噛みしつつも、脳裏に分析し推理することを休まない。休めない。
エレオノーラは歌うように気持ちよく言葉を発している。止めようもない。
「今後は家名と共に“龍将軍”と名乗るがよい。その受領をもってして、以上の特例の全てを、即刻お前に許すものとする」
謁見の間に渦巻いていたどよめきは、その言葉を受けてどっと沸き立った。溜めに溜めた熱情がついに溢れたのだ。意見の賛否を綯い交ぜにして、ただ一様に興奮を露にして、王権に服する者たちが至上の位置に展開される歴史演劇に歓声を送っているかのようだ。マルガレータはその凄みに呑まれた。
だから、声もなく、それを見守ることとなった。
この場でまさに王侯貴族が時代の大音量を轟かせている中、少年は静かに立ち上がり、特別の称号を受領すべく歩き出した。エレオノーラがこの上ない艶やかさでもって笑み、彼女の侍女武官がそっとその手に自らの佩剣を……教会により祝福を受けた宝剣を握らせた。
ペテリウス伯のように、またはカリサルミ伯のように……それは肩に当てられ、許され、誓いを立てるはずだった。そうなるべきだった。そうなればよかった。
待ち受けるエレオノーラの下に、少年は向かわなかったのだ。
少年はその眼中にエレオノーラも、マルガレータも入れずに、一人の少女の下へと歩み寄ったのだ。それを見たマルガレータが魂を焼き尽くされるかと思ったほどの、それほどの微笑を……彼が神であると言われたならば信じてしまうほどの筆舌し難い美麗に、彼が悪魔であると言われたならば信じてしまうほどの恐るべき酷薄を香らせる微笑を浮かべて、パウリーナの足元に跪き、頭を垂れたのである。
時が止まったかに見えた。その時、少年とパウリーナ以外には誰も息をしていなかったのではないだろうか。事実、誰もが動けずにそれを見ていた。そのゆっくりとした動作を、見入るよりなかったのだ。
パウリーナがその手に細剣を握った。彼女の侍女武官は教会より宝剣を授かっていないから、それは聖なる剣ではない。装飾されこそすれただの一振りの剣でしかない。しかしこの瞬間に時代を動かす巨大な意味を付加されて、光源も定かでない輝きを放っていた。マルガレータにはそう見えた。
刀身が返され、音もなく、少年の肩に触れた。そこに儀式が始まった。
「アスリア国王の権を代行し」
パウリーナとはこんな声をしていたのか。マルガレータはその響きの澄明過ぎることに震えた。大きな声ではない。しかし広大さがあった。天空を轟く雷鳴がそうあるように。
「私、パウリーナが許す」
許されざることが目の前に行われていて、マルガレータは打ちのめされるばかりだった。それはただの儀式ではなかった。それがわかってしまっていた。多くを特等席で見てきたマルガレータは、今ここに、歴史の大舞台を目撃していることを理解してしまったのだ。
「あり難き幸せ」
初めて、少年が言葉を発した。それはパウリーナの声音と不思議に共鳴する、やはり遥かな響きをもっていた。パウリーナのそれが聞かずにはいられないものであるとするならば、少年のそれは聞かぬことを許さないものであった。巨大な威が込められていた。
「炎の中に世界が呪われた獣であることを嘆いた私は、図らずも再び獣と相対した今、もはやその嘆かわしさを焼いてしまわずにはいられません」
そして語る内容が凄まじい。それはマルガレータの理解を超えていて、しかし畏怖すべき何かを内包していた。鈴が鳴り響く様をマルガレータは幻視した。これは……この発言は何か大いなる流れの先触れとなるものに違いなかった。意味を解せない自分を矮小なものに感じた。
「死を経ぬ何者にも私を止めることあたわず。王女殿下の寿ぐ世界に気高き強さの在らんことを」
ああ……始まってしまった。
マルガレータは多くを理解しきれないままに、ただそのことだけを思った。この世界の誰よりも特等の場所で見せ付けられたそれは、始まりなのだ。彼女が信仰するところの物語が終わり、新たな伝説が始まろうとしている……その歴史的事象が、今彼女の眼前にて、起こったのである。
悲鳴が上がった。
大静寂を破るものとして上がったそれが誰のものであるかは、マルガレータには目で見るでも耳で聞き分けるでもなくわかった。振り向く前に、確認する前に、その刹那の間に、彼女は瞼を閉じて闇に祈った。万感の思いを込めて祈った。
その祈りは、哀悼のそれに酷似していた。




