第61話 王都の冬化粧に招かれて
「本当に、皆して何もわかっていないのだから、嫌になりますわ」
小壺に指を入れ、白い内容物を適量掬いとる。腰周りや関節の内側、あばら骨の下の境や膝周りなどに磨りこんでいく。伸ばせばすぐに透明となり、肌の乾燥を防ぎ健康的な潤いを与えてくれるそれは、流通する内で最高級の“白透練”だ。
「口を開けば戦争戦争。そんなことにばかりお金を使っているから、粗暴でむさ苦しい歌などが流行るのですわ。『進軍に参加せよ』だなんて、全く、風雅の欠片もありません。お父様もそう思いませんか?」
鏡台に映った卵形の顔には眉もなければ前髪もない。眉は美しい眉を描くために全て剃り落としてあるし、前髪は額を広く美しく見せるために引き抜いてある。素の状態などどうでもいいのだ。美しさとは作るものなのだから。
下地に蜜水を塗りたくり、真っ白な溶き粉を満遍なくのせていって、最後に呼吸を止めて白粉をバフバフとさせる。先ほどの作業とは異なり、此方はなるべく不健康な様子を作らなければならない。青白さを強調するために目の周りや眉の色は濃い色で引く。口紅は儚げに淡く仕上げる。
「生々しい日常にも、荒々しい非日常にも、どちらにも美しい花など咲きはしませんのに……誰も彼も醜くて気が滅入ってしまいます。宝石細工の精巧霊妙を尊ぶくせに、自分たちは埃っぽくしていて平気だなんて、それってとってもちぐはぐな生き方だと思うのですけれど」
髪を整え、ドレスを整え、装飾品を身に帯び、香水を振って……それら全ての合間に返事もない相手へ声を掛け続けて、そして最後に艶やかな姿をひるがえし、豪奢な寝台へと腰掛ける。そこに眠ったままで目覚める気配もない老人へとにじり寄り、自らの化粧のおすそ分けとばかりに、その乾いた唇を水筆で撫でて潤いを与えた。
「どうですか? 私、もうお母様よりも美しいでしょう? これでもまた途上でしてよ?」
自慢げに笑みを浮かべたその美女の名はマルガレータ。アスリア王国の第二王女である。眠る老人は彼女の父であり、死の病に臥せる者であり、アスリア王国の国王だ。そこは王宮で最も尊貴な部屋であり、入室を許されているのはごく限られた少数のみだ。
そんな部屋に隣接した場所で、彼女は身支度をしていたのだ。亡き母の化粧台を用いて。
「では、行って参りますわ。お父様におかれましては、御機嫌よう」
颯爽と廊下へ出る。侍従長や医官長の挨拶を軽く流す。待機していた己の侍女と侍女武官とを一瞥もせずと従えて、ゆっくりと、どこまでも優雅な一団の長として王宮を進む。目指す先は謁見の間だ。近づけば近づくほどに管弦の調べと人々の賑わいとが聞こえてくる。洗練された音楽とこの国の貴き者たちの声とが混じり作るそれは、いささか粗野に傾いている嫌いはあるものの、マルガレータが浴するべき音たちである。年の瀬の王侯貴族の世界だ。
「あら、マルガレータ。またお母様の化粧台を使っていたのね」
謁見の間へ至る前の特別な休憩室には、既に彼女の姉エレオノーラが居て、その手には小さいながらも酒杯が持たれていた。それは彼女が機嫌のいい証だ。マルガレータはそれを嬉しく思う。エレオノーラは気分の良し悪しの狭間に甚大な溝があり、前者であれば華やかな美貌で周囲を魅了するが、後者となると鬼気迫る有り様がまるで絵物語の魔女のように映ることすらある。
マルガレータは美しい姉が好きだった。その在り様には一人の女性として尊敬の念を持っていた。勇者伝説という悲恋物の姫君であるところのエレオノーラには、他の誰が求めても得られない華がある……マルガレータはそう感じていたし、それを羨ましく思っていた。
「お父様がいるというのに……貴女もつくづく妙な子だこと」
「私がお母様より化粧室を受け継いだのは、お父様がお倒れになるより前のことですわ。私、あそこで身を整えることが何よりも好きですの。それに、お父様には色々と言葉をおかけすることも大事だと伺っていますわ」
「ふふ……貴女は昔からお父様お母様ばかりね」
「あら、お姉様のことも追いかけていましてよ? 私も勇者か聖騎士の夫が欲しいですわ」
「ほほほ、この子ったら、もう……おほほほ」
華やかに、どこまでも華やかに笑う。それだけで舞台演劇の一場面のようだ。一挙手一足には人目を引く華やぎがあり、一度笑ったならばもうその場の主役とならずにはおかない。自然体でそうあることこそが彼女の特質であって、マルガレータの憧れてやまないところであった。
ついと振り向ける眼差しにも艶美をまとわせて、エレオノーラは言う。
「勇者様はいないけれど……でも、特別な英雄はいてよ?」
「特別な英雄……それはもしかして、あの流行歌の?」
「そうよ。今回の戦争で最も活躍したのではないかしら。貴女の夫とするには歳が若過ぎるし、家格も何もあったものではないけれど……私のために戦った私のための英雄ですもの。特別でしょう?」
顎に手を当ててしどけなく首を傾げる姿は、同じ女性のマルガレータをして魅入るものがあった。今日の姉は近頃稀なほどに上機嫌だ……そう納得すると同時に、疑問もまた生じた。尋ねる。
「その子、お姉様のための英雄でしたのね?」
「そうよ。私を脅かす帝国皇帝を追い払ったというのだから、素敵でしょう? きっとご褒美を待っているわ。私には分かるのよ」
陶然として思いを馳せる姿は生ける美人画だ。マルガレータはその上機嫌の理由を知ると共に、己の聞き集めていた情報との差異を冷静に分析する。美しい姉を長く見続けるためには必要なことだ。
まず、特別な英雄とされるところの少年の活躍は本物だ。彼女の好むところではない歌にある通り、先の帝国軍撃退に多大な功があると聞く。彼の出身地を治めるヘルレヴィ伯爵、領都にあって命を救われたサルマント伯爵などが口を揃えて少年を絶賛しているという。爵位を継承するところの若きペテリウス伯爵もまた意見は同じであろうし、むしろ誰よりも熱狂的かもしれない。貴族の長たるユリハルシラ侯爵に至っては少年の活躍のお膳立てをしたほどだ。今も誰よりも彼のために動いているようだ。
しかし、エレオノーラのための英雄とするには二つの無理がある。
一つに、少年は王国民の鑑として謳われていたものの、それは妹パウリーナを救命した献身を発端としている。王族への忠誠を誓う切っ掛けに過ぎないと見るべきか、それともパウリーナ個人への忠誠心を抱いたと見るべきか……これまでに聞いた噂をまとめるならば、マルガレータには後者の可能性が高いように思われた。
実際、この戦争においては第三王女親衛団の活躍もまた大きく聞こえてくるのだ。どれだけ殺したかを誇るようなそんな名声はマルガレータの忌むところのものだが、姉もまた剣角騎士団の活躍を妙に強調するのだから表立っては批判ができない。自身の名において人殺しが為されることなど醜いと思うマルガレータである。かの勇者も死んで初めて美しいものになったと考えていた。
姉は妹のこととなると心の均整を欠く。それはもうマルガレータにとっては常識だ。そしてそれはエレオノーラの不機嫌を増幅し、美しい王女を狂える魔女のようにしてしまう……その原因たる者を嫌うことは当然のことだった。
第三王女パウリーナ。エレオノーラやマルガレータとは母を別にする異母妹だ。彼女の母はヒルトゥラ家……当時伯爵家の娘で、かつての戦乱において帝国の侵攻軍に抗戦せず屈したことから、パウリーナを産んですぐにその爵位を奪われている。今やヒルトゥラ家といえば王国貴族の間では売国奴の代名詞だ。
パウリーナの母は離宮に篭りまだ存命のはずだが、他のヒルトゥラ家の面々がどこでどうしているかを誰も知らない。帝国へ亡命したなどということも聞かないから、父王が手を回していずこかへ匿っているというのがマルガレータの予想である。親とはそういうものなのか、父王は末姫たるパウリーナに対して甘いところが多々あった……マルガレータはそう思い返すと共に、その父王が倒れた後のパウリーナの境遇をも思った。庇う者がいなくなれば惨めなものだ。
そして、思い至った。
パウリーナを救い、第三王女親衛団に参加し、戦争における英雄となった十四歳の少年……十三歳のパウリーナには何ともおあつらえ向きの英雄である。姉は、意識してか無意識でかは知れないものの、そんな組み合わせを認めたくないのではないか。まるでかつての自分と勇者とが時を変え人を代え再現されていて、自身を主役とするところの物語が過去のものとされそうな……そんな危機感が強引さの根底にあるのではないか、と。
王女と英雄との新たなる伝説……それはマルガレータにとっても承服しかねる物語だ。彼女にとって主演女優は今も姉エレオノーラであり、それを継ぐ者があるとすれば自分をおいて他にいるわけもない。無粋で可愛げのないパウリーナなど論外だ。
協力しなければならない。マルガレータは決意した。英雄たる少年を妹から引き剥がし、関係性を断って、姉を飾るものの一つにしなければならない。そうでなくては美しくない。本当ならば戦争の英雄など土臭くて好ましくないが、もうしばらくは戦いもないであろうし、いざとなればマルガレータ自身が磨いてやってもいいのだ……貴公子の作り方など幾らもある。
「……今日の表彰式典、教会は誰が出席しますの?」
「教会? さあ……どうだったかしら?」
「ベック司教は来られませんの?」
「ベック……」
エレオノーラの表情に苦味が生まれた。最近はパウリーナの名に次いで避けなければならない名で、マルガレータとしてもそれを口にしたくはなかったが、それでも確認しないわけにはいかなかった。
少年をエレオノーラの英雄とすることを妨げるもう一つの無理、それが教会だ。
最後の会戦時、帝国皇帝に対して少年は火のような弁舌を振るったそうだが、その内容を問題視する動きが東方司教たちの間にあるという。特に慌しく動いているのがヨアキム・ベック東方司教だとマルガレータは聞いている。滑稽なほどに丸々とした中年男だが、その影響力は広く強い。
何か信仰心を疑われるような発言があったのかもしれない。あるいは、そんな場で教会への非難など口にしていたのなら、何らかの制裁が行われることもあり得る。教会は王国の許可の下に国民を拘束し、尋問し、時に教義上の罰を与える権利を有する。マルガレータの知る限り、そう強引で荒々しい手段を取ることはないそうだが。
しかし注意すべきはベック司教が奇跡調査室と関係があるということだ。マルガレータにとってそれは恐怖対象である。世に死に方の多々あれど、教会の断罪による刑死ほど、おぞましく醜い死に様はないと思われるからだ。水刑、火刑、虫刑、鳥刑……聖典の中に挙げられる事例はどれもマルガレータの想像を絶する代物だ。“聖炎の祝祭”の日などは部屋で震えていたものだ。しかも奇跡調査とはあらゆる権威を無視して行われる。歴史上には一国の王であっても無惨な最期を迎えた例があるのだ。
確認しなければならない。よもや戦争に勝利しただけで奇跡調査官が派遣されることもなかろうが、万一でもそんなことがあったなら、それはエレオノーラであっても庇い立てや入れ込みがそのままに断罪の対象となりかねない。教会が少年をどのように扱うつもりなのかを知っておきたい。場合によっては、少年をより一層、パウリーナと関係深いものであると喧伝する必要もある……マルガレータはそんなことを考えていた。
「来るのじゃないかしら? 会いたい人間がいるようなことを言っていたわね、そういえば……」
「まあ、そうなのですか」
「私は顔も見たくないのだけれど……司教は司教なのだから仕方がないわね。いっそ大司教にでもなって、早く聖杯島へ行ってしまえばいいのに……」
「まあ、お姉様ったら、そんな風な言い方でベック司教の昇格を願っておいでなのですね。とても素敵で魅力的な言い回しだと思いますわ。冷たく突き放すようにして、それでいて応援していますのね」
マルガレータは矢継ぎ早に言葉を重ね、おどけて見せた。聞きたいことを聞いた以上、もう姉の機嫌を損ねるつもりも、姉に危険な発言をさせるつもりもないからだ。目一杯に道化を演じる。可愛がられるための技術を駆使するのだ。
「どうしたらお姉様のように素敵な女性になれるのでしょうか?」
「あら、貴女も十分に可愛いのよ? 工夫もいいけれど、そんなことをせずとも幸せが向こうからやってくるからこそ、それは素敵なのではなくて?」
「まあ、それはとてもとても素敵ですわ」
世界の中心に在る者の発言だった。そしてそんな夢のようなことを信じて許されるところでエレオノーラは生きている。どこまでも美しく咲く大輪の花は、ただ在るだけで全てを周囲から与えられて誰憚ることもない……どうして憧れずにいられるだろうか。マルガレータは焦がれるように姉を見つめた。
姉は流行を追うことをしない。作る側だ。化粧に凝ることをしない。薄化粧で誰よりも美しい。日々を気だるげに遊ぶだけで多くの事業が姉の名の下に実施され、成果を出す。亡き母を真似て貧民救済などという事業を我慢して行っている己とはまるで違う。賛美と賞賛は自然と姉を目指してやって来るのだ。
マルガレータ自身もまた、何を言われずとも尽くしている。ならば少年も尽くすべきだ。それが世界の自然であるように思うから、パウリーナの出番などないし、教会も邪魔をしなければいい……エレオノーラという美が在り続ける限りにおいて、物語は彼女を中心にして回ればいいのだ。
あるいは、それは異端の信仰であったのかもしれない。
だから……後世の歴史は第二王女マルガレータを“魔女”と呼ぶのかもしれない。
激動に見舞われた一年が寒く寒く閉じ行き切り替わろうとしていた。前線に駆ける兵馬の数は次第次第に減り行き、混乱の市井も徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。戦いの明確な決着を見ることもできないままに、何もかもが翌年へと持ち越されようとしていた。厳冬の日常がやってきて人の世の粉塵全てを押し流していく様子は、連綿と続く人と自然との戦いが人同士のそれよりも大きく抗い難いことを示しているかのようだ。
それでも人は動く。実感をもって日々を生きること欲し、区切りなど無い時間に歴史を刻んでいく。
アスリア王国王都において、その日、戦いの一年を総括するものとして表彰式典が盛大に行われた。帝国皇帝の生死は不明であれど、ここに王国の勝利を高らかに宣言し、大きく論功行賞を行うというものだ。それによって様々に秩序を再編し、国内の混乱収拾に弾みをつける狙いである。
それがまさか、新たな戦いの勃発を広く知らしめる歴史的式典になろうとは……少なくとも、休憩室で待機するマルガレータは、まるで何もわかっていなかったのである。




