第60話 魔人サロモンの名の下に
「その名で呼ばないようにお願いします。僕はマルコです」
それは拒絶だった。声音こそ平常であるも、双眸の奥には青みを帯びた紫色の瞳が強く光っていて、断固たる圧力を放っている。髪の黒が揺れ崩れる様は剣呑な何かを感じさせる。クラウスは続く言葉を発することができなかった。ジキルローザの方へ問いたい気持ちが湧くも、それをすることに恐怖をすら覚えた。のっぴきならない間合いにまで踏み込まれていると感じていた。
「勘違いしないでくださいね。その名で呼ばれた男は死んだのです。縛られ、燃やされて、激痛と呼吸困難の果てに黒く終わったのですよ。聞けば排水路に捨てられて死体も残っていないとか。神の名の下にそれは為されたのですから、蘇りの奇跡などあろうはずもない……貴方が貴方自身を許せる日など来はしない」
胸を刃が貫く感触があった。無形でいて冷たいそれは、もしも本当に剣の形を成していたならば、外からでなく内から肉を裂いて突き出したのだろう。クラウスは自分がいつの間にか座っていることに気付いた。目の前には一人の少年が巨大な存在感でもって微笑んでいる。
そっと手に触れる柔らかなものがあった。それはアマリアの細くか弱い手だ。じんわりと伝わってくる熱が、クラウスの老いて強張った皮膚と骨肉とを励ましている。しかし胸中から生ずる寒さは全てを根こそぎにしていくのだ。
コツリ。コツリ。コツリ。
耳を打つ単調なその音は鼓動であろうか……それとも靴音であろうか。クラウスは冷たく響くその音を聞く。時が逆向きに渦を巻いていく。おぞましき“聖炎の祝祭”より以前の時間へ。あの男が王都にあって未だ縄を受けていなかった時間へ。クラウスが死を予告し、あの男がそれを受諾した夜へ。
月光を浴びて影を壁に伸ばし、その男は佇んでいた。
余人を介さず二人きりで対した庭園脇の廊下は静寂に支配されていた。灯火も少なく世界の色は白々と虚脱していた。クラウスは己を乾きひび割れた石膏の像のように感じていたものだ。だから言葉にああも感情の色が乗らなかったのだろう。
「王国は貴族の上から民衆の下に至るまで、全てが戦いを望む狂声に満ちておる。このままでは、王国軍は憎しみのままに帝国領へと雪崩れ込み、ありとあらゆるものを破壊し、掠奪するだろう。秩序なく、兵糧なく、計画も際限も恥もない……そんな山賊めいた軍勢の先頭に立つのはお前だ、サロモン」
何を言われたところで、その男は月を見上げるばかりだった。戦場に死を大量生産することにかけては大陸に冠たる者……眼差しに燻らせるものは憂いか哀しみか……あるいは絶望か。どこか透徹としていて、クラウスにはいずれであるかの判断もつきかねた。静けさの中に言葉を放り投げ続けたものだ。
「お前が軍に行禍原を越えさせなかったことは英断だが、それを維持することは不可能だ。複数の讒言が上がっていて、中でも第一王女を通じて教会が意見してきたところのものは痛烈だ。お前は王女に懸想し、勇者を陥れた魔人だそうだ。私の知るお前は人間で、勇者の無謀を幾度となく救い、王女を無能と嫌っていたように思うのだが……既に油と薪とが用意されている。帝国領へ攻め込む陣頭へ立たないのであれば、お前の立つところは刑場でしかない」
虚しい予言だった。愚かしい恐喝だった。クラウスが絶望していた。
アスリア王国を滅亡の危機から救った英雄に対して、軍の長たる国軍元帥が無謀な出陣を強いるのだ。王国民総暴徒などという悲惨を避けるために軍の手綱を握り、暴れ馬のようなそれを必死に御していた軍人に対して、それに乗って駆けるか無惨に殺されるかの二択を迫るのだ。どちらを選んだ先にも名誉などなく、破滅があるばかりと知っていて、それでも選べと突きつけるのだ。そこに何の希望があったろうか。
「もしも私が軍を発したならば、国が滅ぶ」
男はその視線を月浮かぶ星空から離すことをしなかった。クラウスは思う。それは死を避けがたいものと覚悟した者の本能だったのかもしれないと。地表の有象無象を排除して、ただただ美しいもので視界を満たしたい……限られた時間を素晴らしいもので満たしたいとの欲求から、そうしていたのではないかと。
「虫嵐のように全てを喰らって進み、大地と大河とを朱に染めて、後には廃墟しか残らない。暴徒をそのように操作する。それより他に生き残る術がない。そして私は西龍河の上流に独立するだろう。そうするより他に部下を食わせる手段がない。しかしそれでも長くは生きられない。賊の一党以上になれやしない」
クラウスの肩書に対して礼節を欠く男ではなかった。だから、それは月に向かって紡がれる独語なのだ。人の世に孤立して天へと語る英雄は、その聡明でもって既に多くを諦めきっているように見えた。だから、語られる不遜がクラウスの耳にそうとは響かない。サラサラと乾いた言葉が流れていったものだ。
「三年もしない内に、王国の権威も帝国の権威もどちらも共に失われる。大陸は千切れ乱れることになる。退廃の荒野に群雄が並び立ち、本当の戦乱が戦われ、文化は衰退して教会の権威だけがより深刻に浸透する。そういう未来が見える。そういう未来しか見えない」
男が語る未来図はクラウスが思い描いたものの相似形だった。狂える王国軍が行禍原を越えていった先に待つのは王国の分裂であり、復興の遅滞であり、王権の失墜である……クラウスは喉の奥に唸りを生じさせることで英雄の独白に同意を表していた。
「だから私は死ななければならない」
残酷な言葉だった。多くを考慮し先を見通すが故に、己の死の必要性が見えてしまう。王国のために帝国と戦った一人の軍人が、その時、両国の存続のために自らの未来を断つ決断を口にしていた……口にさせられていたのだ。他ならぬクラウスにより、暗に示された意図をくみ取って。
「大いに死んで時代の区切りとならなければならない。人々の意識を戦後へと転換し、槍持つ手に鍬を握らせ、奪うことよりも直すことに力を使わせなければならない。戦争よりも復興を戦わせなければならない……平和をもたらすために、私は、戦争の権化として死ぬ必要がある」
驚くべき理不尽がそこにあった。
クラウスは知る。その男は混乱の中で無理矢理に戦わされただけの男だった。雑兵の中に台頭したのは能力によるものとしても、名誉や戦功とは無縁の戦地を転戦させられたのは明らかに蔑視だった。彼と彼の率いる兵たちとは軍にとって最も安い消耗品であり、勇者や貴族の引き立て役であり、矢を防ぐ木盾や泥土を埋める砂利と大差ない存在だった。
そんな彼だから、抜群の戦功を挙げてなお、英雄として遇されることはない。信じ難いほどの汚名を着せられ、想像するも無惨な死を用意され、死後も長く名誉を辱められることが予定されたのだ。信賞必罰こそが軍律の根幹に在って然るべきであろうに、まるで正反対のことが正義として罷り通ろうとしている……クラウスもその片棒を担いだ。担がざるを得なかった。
「一つの命で数多の命を購えるのならば、これほど合理的なことはない。軍事も政治も、どちらも突き詰めれば効率だ。情緒という装飾は後からやってきても充分に間に合う。軍人であれ政治家であれ、危急の時にその判断を過つべきではない」
男のその言葉は、自らへ向けた言葉であったのか。それとも、クラウスに向けた言葉であったのか。確認することもできないままに、男は独り語りを止めてクラウスに言ったのだ。しばらくは街の宿で酒を楽しむことにしたから、後はご随意になされよと。
それは出頭でなく逮捕を望むという意味だ。事の始まりから惨めを演じるという意図だ。己の命を徹底的に利用しろという意思だ。その心意気を全て受け止めてお前は生きろと、そう突きつけられたのだ。
そして去りゆく足音が、今もコツリコツリとクラウスの耳に響いている。
英雄が理不尽極まる死へと歩み去ったその音は、冷たく乾いていて酷く痛々しい。戦後を生きたクラウスの鼓動とは、あるいはそれそのものだったのかもしれない。コツリコツリと絶え間なく、いかなる苦難をも苦難と感じることを許さない音だ。後悔することも許されない。鼓動の限り責めたて、命ある限り最善を尽くせと強迫する音だ。
パン、と目の覚めるような音が鳴った。
夢とも現とも知れない酩酊の視界が晴れ、前を見たならば、少年が合掌している。どうやら拍手を一つ打ったようだ。クラウスはそれを無礼な振る舞いであると、頭の隅では感じていた。しかしそんな理屈を超えたところで魅入っていた。少年が笑んでいた。
「僕が、貴方を許しましょう。他の誰でもなくこの僕が……戦後に生まれ戦後を生きてきたこの僕が、貴方が僕を呼んだその名の下に、今、貴方を許します。王国の復興は貴方の尽力なしにはあり得ないものでした。十数年に渡るその戦いは火炙りの一瞬に比して劣るものではありません。誇りを持ってください」
およそ不遜な物言いだった。しかしその言葉はどうしてかクラウスの心に染み渡るのだ。何をしようとも全てが極寒の罪の前に色褪せ凍りつき、どんな苦労を重ねたところで自らを労わることもなかったクラウスである。万事を罪人の心情でもって労役に服するが如くに生きてきたのだ。その老いたるクラウスに対して、過去の英雄のようでいて最新の英雄でもあるところの少年が、許しと励ましとを口にしている。
「日常であれ非日常であれ戦争は戦争です。貴方は一人の男を火刑台に追いやりはしましたが、託された戦いを十数年に渡り休まず戦い続け、決して敗北することはなかったのです。完全な勝利ではなかったかもしれません。しかし投げ出さなかった。逃げ出さなかった。それでこそのクラウス・ユリハルシラというものですよ。つくづく、貴方は護国の御大将ですね」
クラウスの視界が熱くぼやけた。それは久しく無縁だった涙によるものだが、その時、彼はそれを自覚するどころの騒ぎではなかった。呼吸を忘れて見入っていた。
サロモンがいた。
滲む視界の中に煌々として青光が輝き、紫炎が燃えている。幻光と幻熱の渦巻くその中心にいるのは、それは間違いなくサロモンなのだ。あの月夜に遂にクラウスを見ることのなかった男が、今、クラウスを見ている。魔人でも英雄でもなく、一人の年若い友人としてのサロモンが、その顔に莞爾とした笑みを浮かべてクラウスを見つめている。
涙は溜まって溢れ出て、クラウスの皺多き頬を伝い落ちていった。視界の幻はそれで消え落ちた。クラウスの目の前には少年が寛いだ様子で微笑んでいる。クラウスの手はアマリアの両手によって握り包まれている。
「マルコ……マルコという名か、お前は」
「はい。侯爵閣下」
「お前の……キコ村のマルコの十四年とは……どういうものであったか」
「胸に遥かな大望を抱き、生きてきました。目に生活の逞しさを見て、耳に世界の宿業を聞き、鼻に戦火の燻りを嗅ぎました。口に戦を準備して、腰に佩くは剣の一振り、手には鋭き槍をひるがえしました。足は拍車を踵に鐙へとかけて、馬上から広く戦場を眺めやって、そして駆け抜けてきました」
少年は謡うように言葉を重ねていく。そうするにつれて笑みは消え、僅かに瞼を閉じ、開いたならば鮮烈な眼光がある。それは圧力を伴っているが、しかし再びクラウスを恐怖させることはない。老いたる元国軍元帥の目にも光が宿ったからだ。今や易々と気圧されるものではなかった。
「しかし、まだまだです。僕の戦いは両国が共に疲弊したところで終わりはしません。むしろここからが難しい……だから貴方に会いにきたのです。侯爵閣下」
凄まじい発言だったが、クラウスはそれをごく自然と聞いている自分を不思議には思わなかった。十四歳の少年と会話していると同時に、彼は古い友人とも会話しているのだ。そう信じられた。
死者が生き返ることなどありはしない……少年もそれを否定したし、遺児でもないようだが、それでも感知される霊妙不可思議がある。長く氷の剣に刺し貫かれていた心が、クラウスの魂が、炎の中に死んだはずの男がここに在ることを感じ取っていた。胸が焼けるように熱かった。諦めていたその活力のことを人は誇りと言う。クラウスはもはやそれを失うつもりはなかった。
「お前があの男の名の下に戦うというのならば、私にはそれに従う義務がある。英雄の一命をもってする貸し借りだからな……相当な無理にも応じよう」
「では、まずは僕に家名を。軍のための家名です。そう言えばわかりますよね?」
昔やった悪戯を共犯者に思い出させるような、そんな言い回しだった。クラウスは可笑しかった。ゆっくりと苦しみに耐えながら死んでいくはずの人生が、暖炉の炎に照らされながら、随分と楽しいものに変貌しつつあるようだ。
心が踊った。しかし困難が増すことは間違いがなかった。サロモンの名の下に小事が為されるわけがないからだ。事は大きく苛烈に動く……クラウスはそれを予感しつつも答え、そして問う。
「うむ。それだけの功がお前にはある。実現してみせよう。しかしそのような立身出世が大望というわけもあるまい。お前はこの先にどんな未来を見ているのだ?」
問えばそこには少年の真剣な眼差しがある。クラウスもまた真剣だった。大なる責務を背負う者は軽はずみな何事にも組しないものだ。しかしその一方で巨大な事業については必ずそれに関わらなければならない。見極めて決断することこそが責任だ。
そして告げられたのは、まさにクラウスの覚悟を試すかのような内容であった。
「まず王国が割れます。僕は一勢力に深く関わり、然る後に教会と対決するでしょう」
とてつもない発言だった。
もっとも、クラウスはそれを全く予想していなかったというわけではない。少年が帝国との決戦の場において語ったという内容を……火の色の旗を掲げ、炎を吐くようにして論じたその内容を鑑みれば、少年が教会に対して思うところがあると知れる。しかしその手段が内乱であるとまでは考えていなかった。
「この私に……王国における内乱を認めろと言うのか」
「僕が内乱を起こすわけではありません。内乱は自ずから起きるのですよ、侯爵閣下。此度の戦いが勝利に終わったとて、それで第一王女の名の下に王権が安定すると思う方がどうかしています」
耳に痛いどころの騒ぎではなかった。そして決戦前にダニエルより手渡された書簡が思い出される。クラウスはそこにサロモンの意志を読み取り、戦いの全権を少年に譲渡すべく動いたのだ。果たして、目の前の少年はクラウスにとって再びのサロモンである。クラウスは問う。問わないわけにはいかない。
「お前は……エレオノーラ様を恨んでいようか?」
それはクラウスが少年を試す発言だった。大事業を行おうというのだ。たとえ止むを得ない事情があるにせよ、怨恨と復讐心とを原動力にして生きる者であるのならばその成功は危うい。軍事であればまだしもいいが、教会と対決するとなれば事はそれほど単純では済まない。何よりも人心を負の感情で導くことを許すわけにはいかなかった。それでは聖炎の祝祭の二の舞である。
返答は簡素にして決定的だった。
「無能には何を期待しようもない……恨みようがありませんね」
少年の視線は遥かな先を見据えていて、しかも濁ってはいなかったようだ。そして言う。
「北部の王室不信は限界点を越えていて、もはや平常の手段ではどうしようもありません。流れを操らなければならない……大水の前の治水ですよ、これは。そして開拓するのです。教会はそれを許さないでしょうから、数年もすれば争いになりますね」
簡単そうに言い切ったる後、笑む。
「それに勝って、道半ば。僕の大望はその先にあります」
クラウスは絶句するよりなかった。