第59話 僕を知る者にはこう告げよう
アマリア・ユリハルシラにとってその部屋にあるものは全てが愛おしかった。
向かい合った長椅子の柔らかな佇まいも、小さな茶机のおすましも、燭台の上品な華やぎも、四季折々の風景を鮮やかに描いた飾り皿たちも、絵物語の妖精の彫像も、家の祖たる人の肖像画も、何もかもが思い出の舞台背景だ。暖炉に火を入れた日には特に母が連想されてアマリアを喜ばせる。在りし日の様々がそこかしこにフワリと薫る。
弟ルーカスはあまりこの部屋に居付かない。以前からここに落ち着かず外を駆け回る子であったが、初陣を経験して以降は己を律する一環だと言ってなお近寄らなくなった。そして今回の一連の戦いにおいては王都を離れられない父に代わりユリハルシラ侯爵領へと赴いていて、今も領都で忙しく働いていると聞いている。
戦地へと赴いた彼女の婚約者ダニエル・ハッキネン子爵もまた戻っていない。戦いの中で重傷を負った彼は、一命こそ取り止めたものの、今もまだサルマント伯爵領領都にて療養している。王都まで移動する体力をすら回復できていないからだ。新しい年はそこで迎えることになるだろう。
そして、父クラウスは……暖炉の前を足早に行ったり来たりしていた。
もう随分と長い時間をそうしている。服装は寛いだものではなく登城できる代物で、剣帯こそ巻いていないものの物腰には張り詰めたものがあった。座ったのはここへ来た初めだけで、後はまるで落ち着きがない。今も己の両側を満遍なく暖めるとばかりに方向転換を繰り返していて、思いついては薪を掴んで火の中にくべるものだから、火勢が強まってしまって少々危ない。火箸も入れていない。
アマリアはとうとう行動に出た。そのうち父が両面をこんがりと炙られてしまうと判断したのだ。クラウスが反対側へ離れたところで、薪束をより遠くへと移動させてしまう。そして火の調整を始めた。
「ん? 少し火が強いのではないか、アマリア」
「はい。ですから離れていてくださいね、お父様。お水を飲まれてはいかがですか?」
「む……確かに少し渇いたようだ。汗もかいたか?」
不思議そうな声を背に聞きつつ、アマリアは作業を終えた。クラウスは壁際の台から水差しごと杯を茶卓へ運んできたようだ。椅子に座り、何の味もしないだろうそれを難しい表情で口に含ませている。
「お酒はご用意しなくてもよろしいのですか?」
「……うむ。酔って会える相手とも、酔わせられる相手とも思えん……いや、まだ分からんのだが、何にせよまだ若い……ルーカスと同じ年齢だとも聞くからな」
「あら、ルーカスはお酒が好きですよ? すぐ寝てしまいますけど」
「む、そうなのか? 駄目とは言わないが情けない話ではないか」
「お父様のように厳しくお酒を嗜みたいのですよ」
「ふん、そういう酒は望んで飲むものではないがな……いや、やはり酒は必要ないだろう。何しろ体調不良をおして訪ねてくるのだ。暖かく居心地のいい場所で迎えるのが道理だろう。酒は余計だ」
「それで、このお部屋をお選びになったのですね? ならば私が同席する理由というのは……」
「給仕や何かのためではないぞ。お前にも話を聞いてもらいたいとのことだ」
「まあ」
アマリアはまじまじとクラウスの顔を覗き込んだ。彼女に用件のある人物も少なければ、クラウスがそれを許可することもまた少ない。家の奥に押し込められているわけではないものの、母の看病の後は母に代わって屋敷を護ることを己の責務としてきたアマリアである。自然、社交の幅は狭く簡素なものとなっていたし、長子でありながら嫡子でないという事情も政治向きの役割を遠ざけさせていた。その彼女が、父クラウスをかくも緊張させる人物から指名されて会見に同席する……アマリアにとって思いもよらないことであった。
「どんな方がいらっしゃるのか、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……マルコという名の軍人だ。お前も聞いたことがあるだろう。忠勤愛国の者として謳われているし、武名もある。最近では妙に勇ましい歌にもなっているようだな」
「炎を呼吸する者、というあの歌のマルコですか? ルーカスからの便りにも書かれていましたわ。当代の英雄であるとのことでしたが」
「そのマルコだ。英雄……ではあるだろうな。確かに、それは疑いないのだが……」
言い切らないままに、クラウスは重々しく息を吐いて黙り込んだ。眉根には深い皺があり、眼差しは水の杯を睨むようでいて焦点が合っていない。への字口の引き締まり具合も強い。アマリアは小首を傾げてそんなクラウスを見守った。パチリパチリと暖炉に火が音を立てている。
そして、使用人がやってきて来客を告げた。クラウスは重厚さを身にまとって立ち上がり、アマリアはそれに付き従う。客人は馬車からまだ降りてきていない。それを玄関広間で侯爵家当主とその娘が待ち受ける……そのことの意味をアマリアは理解している。
ほどなくして姿を現したのは、二人の人物であった。
一人はやや顔色の悪い少年で、長めの黒髪が中性的で端麗な顔立ちにサラサラとかかる様は絵画的ですらある。その瞳は美麗な青紫色で、それ自体が不思議な燐光を発しているかのようだ。もう一人が介添えしないと段差に躓いてしまうこともあって、儚くも妖しい幻想世界の貴人という趣がある。
少年を甲斐甲斐しく支えている人物もまた、常にない雰囲気を持つという意味では等しいところがあった。銀の髪に浅黒の肌、そして紅の瞳……北の極地に住まうという少数民族の女性だ。しかも大変な美人である。少年よりも体格にしろ背丈にしろ勝っているからか、愛情溢れる保護者のようにも見えてアマリアには微笑ましかった。女性は少年の世話を心底嬉しそうに行っている。そのことが僅かの間にも見て取れた。
「この度はお招きいただき恐悦至極に存じ奉ります。クラウス・ユリハルシラ侯爵閣下」
少年が美しく礼容を示した。彼が有名なマルコなのだろうとアマリアは思い、返礼しようとして、先にそれをするべき父クラウスが直立不動であることに気付いた。見ればそこには驚愕の態で女性を凝視する男の姿があり、そこにはいかなる礼の約束事も見られない。慄くばかりであった。
「ジキル……“魔眼”の……!」
呼ばれた女性がチラと顔を上げて、しかし何を応じるでもなくつまらなげに視線を外した。王国の筆頭貴族たる者への態度としては他に見たこともないような素振りだった。しかしそれは無知からくるものではない。アマリアはジキルと呼ばれた女性の目に確かな理性を感じていた。
「お前がいるということは、やはり、彼は……彼という人間は……」
クラウスは絶え絶えな呼吸の中に言葉を搾り出している。少年はどこか困ったような笑みでその様子を見ており、女性はといえばまるで無関心だ。アマリアは三者三様の有り様に困惑するよりなかった。奇妙な膠着状態は余人の介入を拒絶する雰囲気を伴っている。
「マルコ……マルコか。そういうことなのか……?」
掠れたような声でクラウスが問うた相手は、少年ではなく女性の方だ。返事はない。表情にも何ら表れるものがなく、ただ僅かに迷惑そうな気配が浮かび始めているようにアマリアには感じられた。
「そんな話は聞いたこともなかったが……いや、あり得る話か? うむ、十分にあり得る話か……それでダニエルがあのような書状を……そうか、そういうことなのか」
どういうことなのか聞きたいとアマリアは思ったが、何より、先ほどから返礼をもらえない少年のことが気掛かりだった。体調が悪いというのは彼のことであろう。綺麗な立ち姿で微笑んでいるが、次の瞬間にも倒れてしまうのではないかと思わせる危うさがあった。
「あの……お父様、ここは冷えますから……ね?」
差し出がましいとは思いつつも、アマリアはクラウスの肩に触れる。手の平越しにも伝わる震えはアマリアに緊張することを強いるところがあったが、しかし、冬の玄関で立ち話をするための訪問ではないはずだ。そう己に言い聞かせ、アマリアは少年と女性にも精一杯の笑顔で声をかけた。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらへ。身内の部屋ではありますが、お二人をお迎えしようと暖かくしておいた特等席があるのですよ。さあ、お父様も……ね?」
「む……うむ、む」
これも出過ぎたこととは思いつつ、アマリアはクラウスを半ば押すようにして部屋を目指した。隠し切れない無様があったことは疑いようもないが、しかし、背後から忍び笑いが聞こえてくるということはなかった。足音に乱れがないところから判断するに、少年を先導する速さに問題はなかったらしい……振り返らずともアマリアは色々を考え、様々に気を使っていた。
暖炉の火が穏やかに熱を発し、音を刻んで、部屋の光と影とを緩やかに揺らめかせている。大好きなその部屋へ入るなり贈られた言葉があって、それでアマリアは少年への好感を確かなものとしたのだった。
「とても素敵な……気持ちの安らぐお部屋ですね。一目で好きになりました」
大貴族の家に……ましてや軍人の家に生まれたアマリアであるから、待つ者の宿命としての不安や寂寥は幼くより覚悟しているところのものだ。人生の輩として受け入れ、よく耐え忍ばなければならない。しかしそれはただ膝を抱えて震えるということではない。母より教えられ、それを知っている。
この部屋が、その答えだ。
栄光と破滅とが激しく明滅する非日常を生きる者のために、その激烈な生が憩うひと時のために、彼女の母はこの部屋を生み出したのだ。場所があればいいわけではない。物があればいいわけでもない。母がここで過ごした時間が、沁み込ませ刻み込んだ人生の光陰が、この部屋にえも言われぬ居心地を生じさせている。特別な空間を形作っている。アマリアはそれを継いできたのだ。
父クラウスが、弟ルーカスが、婚約者ダニエルが憩うことを願った部屋である。そこが今、英雄とされる一人の少年を憩わせるのならば、アマリアはそれをとても誇らしく思う。彼女の信じるものが時代の中心に在る者へ影響したということなのだから。
いずれ尋常ならざる何かが三人の間にあって、それは恐らく戦争の激動に関わることであり、自分には意見することも許されないものであろう……アマリアはそう察しつつも、それでも期待せずにはいられなかった。きっと笑顔でお茶ができるのだと。どんなにか世界が非情で争いの絶えないものであっても、冬の寒さに暖を共にするひと時には、互いへの思いやりが生まれるのだと。
だから、この日、アマリアは生まれて初めて父クラウスを叱責することになる。
火を横に茶卓を挟んで、クラウスは少年と、アマリアは女性と向き合う形で席に着いた。使用人はお茶の用意をするなり退室していて、杯より湯気と共に立ち上る香りが四人の間に無音無形の繋がりを結んでいる。誰もが無言だ。主人たるクラウスと主客たる少年とは視線を合わせていて外すことがない。アマリアと女性とはどちらもそれを見守る姿勢だ。
初めに口を開いたのはクラウスだった。苦渋に満ちた声だった。
「マルコ君……いや、マルコ将軍と呼ぶべきか。君の父上については……私を恨んでいような」
「……どういうことでしょう? キコ村に何かありましたか?」
「キコ村? ああ、君の生まれた村のことか。此度、戦火が東龍河を越えなかったことは不幸中の幸いであったな。君は王国と故郷とをどちらも護ったわけだ……それが?」
「は?」
「む?」
何かが噛み合っていなかった。祖父と孫と言っても差し支えない二人が、どちらも神妙な顔をして、同じように首を傾げた。目線は互いから外さずに、揃って訝しげな様子である。
「君は……私を断罪するつもりで来たのだろう? それとも、私が自ら懺悔することを望むのか?」
「……何か誤解があるようです。僕は貴方の懺悔を聞きにきたわけではありません」
「何が誤解なものか。私は君の父親の仇である。それは間違いのないところだ。娘がいるからとて遠慮はいらん。これも侯爵家の娘である。親の罪と無縁の者ではない」
「待ってください。僕の父ヘルマンは今も健在です。どうして仇などという言葉が出るのですか」
徐々に声量を増しながら言葉を交し合った二人は、そこで再び首を傾げた。どちらも目元には怪訝と言うより他に言いようもない心情が表れている。そしてその気持ちはアマリアと女性にも伝染してきた。少年はアマリアの方にも問うような眼差しを向けてきたが、彼女には何一つ分かるわけもなかった。ただ、混乱の中心に己の父がいることだけは何とはなしに察していて、それが居たたまれなかった。まさか健康状態について言及を求められているわけでもないのだろうが。
俄かに娘から心配される身となったことも知らずに、クラウスはといえば女性の方へぐっと前傾になって問うのだ。そしてその内容は衝撃的であった。
「ジキル、どういうことだ。お前とあの男との間に出来た子ではないのか?」
空気が凍った。
「あの日を前に仕込み、孕んだものを、お前が産み育てていたのだろう? それゆえの才覚であり、それゆえのあの弁舌であると納得したのだが……違うのか?」
アマリアは「あの男」とやらが誰であるかまでは分からない。しかしその人物が三人に共通する「誰か」であり、今はもう亡くなっていて、その死にクラウスが関わっていることまでは察した。優秀な人物であったことも、クラウスから見て女性と親密な関係にあったことも推し量れた。
しかし、何よりも、女性が激怒していることが伝わってきていた。
アマリアは断言できる。目の前の女性には出産経験などない。齢四十五十でも二十代に見えることで知られる少数民族であるから、外見年齢を見ての判断ではない。女性同士に通ずるところの感情がクラウスの言葉を全否定していた。
女性は、少年に、全身全霊の思いでもって愛を捧げている。保護者のようにも映ったかもしれないが、それは体格差からくるものであって、眼差しを見ればそこには色濃く「女」がある。「母」のそれとはまるで違う。一目瞭然だった。
女性は怒りにワナワナと震えながら拳を握りしめたが、その拳骨にはそっと少年の手が添えられた。もう片方の手で己の顔を押さえつつ、少年は脱力している。クラウスはといえば、そんな二人を交互に見やったる後、首を傾げるのだ。ここに座して三度目となるそれは、しかし、女性の感情を逆撫でするものである。
だから、アマリアは生まれて初めての事をした。
父の両の頬に手を添え、グイと己の方へと顔を向けさせる。目線を合わせ、自らは上目遣いでもって下唇を噛む。それは弟が悪戯をした時などによく示していた作り顔だ。幼さへの躾として考案したそれを、客人を前にして父へと実行したのである。
「お父様。謝罪なさってください。失礼なことを言っていますよ」
唐突なことに、クラウスは目をまん丸にして言葉も言えない様子だった。アマリアとてそれ以上の言葉を口にすることは憚られた。恥ずかしい父子の姿である。しかしそれを敢えて晒すことでもって、父が無神経に踏みにじった乙女心に報いたいと思ったのだ。
鈴の音が聞こえてきた。
それは少年の笑い声だ。馬鹿にするような悪意などまるで感じられず、清澄で耳に心地いい声だった。心身に込めた力が解かれたような気持ちになって、アマリアは手を下げ、座り直した。クラウスもまた同様のようだ。見れば女性もである。
視線を集めに集めて、少年は笑う。宝石のような青紫色の瞳が、細められた目の中にキラキラと煌いている。暖炉の火がその身の弱々しさに活力を与えたものか、とても寛いだ様子で、彼もまた三度目となるそれをした。首を悪戯に傾げて、艶めく黒髪が流れた。
「幸せそうで何より、元帥閣下。炎を浴びた甲斐もあったというもの」
不思議な言葉だった。
アマリアは彼の活躍を歌う詩歌を思った。炎を呼吸する者という、印象的な歌詞を連想したのだ。次いで先刻の父の姿を思った。暖炉の前を往復して左右両面を強い火に向けていた姿は、あるいはあれも火を浴びていると言えるのかもしれない。そう考えたのだ。
クラウスは立ち上がっていた。
震えてはいなかったが、放心していた。アマリアは心配するよりも先に、その姿に弟の姿を重ね見た。初陣から帰った弟が日常の合間にしばしば見せていた姿……それは今の父の姿ととてもよく似ていた。途方に暮れているような、それでいて尻餅をつかず両の足を踏ん張っているような、誤魔化すことを知らない者の生きる姿。不器用かもしれないが、いずれ雄々しく歩き出すことを予感させずにはおかない姿だ。
「お前……か。お前だというのか。この私を前にして……ジキルを隣にして……!」
クラウスの必死さを感じ取るも、アマリアは何もしない。ただ見守る。彼女は知る。彼女の父も弟も、誰に頼ることなく己の力で困難を克服していく人物であると。今まさに何か大きなものに挑み、進もうとしているその姿は、アマリアにとって力強く頼もしいものであった。
クラウス・ユリハルシラ侯爵という、王国貴族の筆頭に在る者を必死にさせて……その少年は微笑んでいる。この部屋に憩う姿に偽りは感じられない。アマリアは見た。少年の両の手がゆっくりと返されていき、何かを披露するようにして、二つの手の平がクラウスへと示された。
「不思議なことは、あるものです」
美しさの中に茶目っ気を香らせて……そんな言葉が添えられた。