第44話 旗を振りましょう、戦の旗を
行禍原は戦人たちの社交場だ。
変化に富んだ地形は軍勢によってのみ踏み荒らされた原野であり、何処にも集落など存在せず、動物の群れが生息している気配もない。北には天境山脈および幻魔森の末端、南には紫雲海と人外魔境に挟まれた土地であり、その為か、冬でも北風ではなく南から海風が吹いて奇妙な湿気に包まれる。瘴気の濃度という意味では一年を通して最も過ごしやすい“北部”と言えるのかもしれない。
ましてや、今は夏の盛りだ。日照と降雨とが連続して植生の豊かさが現出しており、それは多種多様な戦の形を戦人に思い描かせる。そこな林で、そこな丘で、そこな砂地で、そこな平原で。万を超える規模での会戦ならばいざ知らず、精々が三千人規模の部隊を率いての哨戒活動は、それを指揮する者たちに己の戦というものを期待させずにはおかない。
歴戦の戦人であるテレンシオ・バルセロもまた、そんな夏を勇躍して過ごしていた。彼にとって戦場を駆けることは人生そのものであり、そこに充実感と幸福感とを味わっているのだから、堪らない。堪らないほどに楽しい。
人の命の健やかなるを楽しむことが人生の正道だとするならば、彼は外道だった。彼は人の命を切り崩し、刈り取ることをもって己の生を楽しんでいる。しかし実のところ命そのものを軽視しているのだ。命など戦場に投ずる掛け金に過ぎなかった。戦争という名の賭博遊戯だ。己と部下との命を賭け、敵の命を頂戴していく。命を尊重する敬虔さなど絶無だ。老若男女の差異も無意味だ。戦場にいる、ただそれだけで彼にとっては獲得する戦果の一単位にしか映らない。
慈悲はない。慈悲を乞うこともない。冷淡な意識の内に確かな充足感を味わいながら、彼は今日も行禍原を駆けるのだ。彼は人の形をした一個の武器だった。他方、彼は“黒蛇”として敵味方に認知されている。
ゆえに、彼の部隊が掲げる旗には剣と蛇とが在る。武骨な抜き身の刃に、一匹の黒蛇が住まうようにして絡みつく……刀剣住蛇の印章。バルセロ騎兵連隊の連隊旗だ。
この夏に掲げることを許されて誂えた、彼にとっても初となる己の旗だった。かつてはただ孤軍として行動する中でその名を知られたに過ぎない。しかしこの夏は状況が異なる。彼の指揮する軽騎兵二個大隊二千騎は独立した武力集団であると同時に、積極的に味方の部隊を援護することで戦功を重ねている。そこの遭遇戦で、あそこの機動戦で、帝国軍が劣勢となるや疾風のように刀剣住蛇の騎兵隊が来援するのだ。その旗は前線将兵らの中で特別な意味を持ちつつある。
先の会戦においては端役でしかなく、次の会戦には不参加を決定されているバルセロだが、両会戦の間に戦われるこの時節においては主役に近い位置に立っていた。
今、丘陵の陰に千五百騎を休ませながら、バルセロはそんな己の状況を考えていた。名誉や栄達など望んでやしない。ただ兵権を欲していた。一騎でも多く率いて、一戦でも多く戦いたい。己の軍略がどこまで威力を発揮するものかを知りたい、味わいたい。そしていつか空想の中にでもあの男に勝ちたい。未だ遠く追うばかりの恐るべき敵将……サロモン・ハハトに。つまるところそれが全てであった。
二騎の斥候が丘の上に現われ、バルセロの元へと駆け寄ってきた。行禍原に広く分散させている五百騎の中の一騎だ。この夏を戦い抜くにあたり、補充された五百騎については調練の不足をそのような形で補わせていた。平行して鍛えもするが、そう易々と息を合わせられるほどにバルセロの戦術は甘くない。
「敵部隊を発見しました。旗は四剣方形にして重騎兵主体の陣容。剣角騎士団です」
「方角は南東、距離は駈歩でも三刻はかかるかと。緩やかに西進しています」
それはバルセロにとって朗報とは言い難いものだった。うむ、と返答してしばし黙考する。
剣角騎士団。アスリア王国の重鎮、ユリハルシラ侯爵お抱えの騎士団だ。かつても今もその武名は堅実さと共に語られる。何事につけそつが無く、常道を専らとしつつも確かな戦力として機能する敵だ。奇を衒うことはしないが、相手の失策を見逃さず食い破る獰猛さを有している。難敵と言えた。
昨年秋に偶然対峙してからというもの、バルセロは剣角騎士団と戦場の縁で結ばれている。遭遇戦としても何度か戦っているし、先の会戦においても対決している。あちらの意向もあれば、こちらの意向でもって戦うこともあったが、いずれにせよ深く踏み込まない浅い戦ばかりだった。
相性が悪いのだ。
バルセロらは速さを信条とする軽騎兵集団であり、剣角騎士団はそれに対応してか硬さを旨とした重厚な陣容でもって戦いを挑んでくる。数にして半数であるバルセロら千五百騎に対して、騎士団三千人は手堅すぎる防御と弓射戦を仕掛けてくるのだ。挑発してもその戦法には揺らぎすら見られない。互いに一兵も失わずに離れることすらあった。そしてそういう時に限って一昼夜も睨みあっているのだ。
損害を覚悟せずに打ち破れる敵ではなく、そうまでして打倒しなければならない敵でもない。討つことを求められてもいない。油断できる相手でもない。あしらうにしても時間がかかる。総合するに厄介な敵ということだ。
しかし、そこへもう二騎の伝令が駆けてきて、状況の妙を伝えてきた。
「南西より味方部隊が急速に東進しています。旗には八枚花弁の印章、紅華騎士団です」
「紅華騎士団団長より伝言、蛇は退路を断つべし、以上です」
紅華騎士団。
それはベラスケス伯爵家の主催する騎士団であり、伯爵家の次男が団長を務める新進気鋭の戦闘集団として知られていた。団長以外にも貴族の子息が複数名参加しており、会戦戦力でこそあれ、このような地味な局面に出張ってくることは考えにくい。バルセロはいぶかしんだ。
(紅華騎士団は先の会戦では右翼に配されていた。その戦いぶりは……目立つところがなかったか。ベルタの突出により敵右翼が動揺し、それをこちらの左翼が押し崩したことが勝負を決した。右翼は総じて働きどころが少なかったものだが……)
だからといって右翼に参加した諸将が罰せられた事実などはない。少なくともバルセロはそんな話を聞いていなかった。そうであれば懲罰的出撃ではありえない。では逆だろうか、とバルセロは考える。まさか功名心や戦功を求める熱情でもって行禍原を駆けていやしないか、と。
そして、苦笑する。自分も同じだと気付いたからだ。この夏の彼はハッキリと戦果を挙げるために戦っている。それが次へ繋がるのだと確約されているからだ。部隊戦力を手に入れるためならば何でもする。節約でも、散財でも、露骨な人気取りでも、何でも。
今、もし、紅華騎士団が若さゆえの蛮勇でもって名にし負う剣角騎士団へ挑むとするならば、バルセロはそれを無謀とは思えども愚かとは言いにくい。結局のところ、戦場における栄光とは命を掛け金にした先にしか存在しないからだ。誰であれそこに勝利を夢見る。程度の差こそあれ変わるものでもない。
「剣角騎士団を牽制することを目的として、出撃する」
バルセロの声が発せられ、千五百騎が迅速に出発の準備を開始した。
これは戦いにはならない……バルセロはそう予測していた。剣角騎士団の実力を高く評価するゆえのことだった。かの騎士団が、前方より鼻息も荒く迫る紅華騎士団を察知しないわけがない。同数の騎士団同士であるから対陣して名乗り合う流れも見えなくはないが、恐らくはそうせずに退くだろう。彼らの目的はバルセロとの対決であり、矢鱈に戦功を求める意思はない。
その退路をバルセロが押さえたならば面白い戦にもなるが、これまでの経験上、そんな致命的な失敗を犯す相手とも思えなかった。横にも広く斥候を放っていよう。千五百騎に後ろへ回られるような間抜けではないのだ。
以上のことから、これは戦いにまで発展しないとバルセロは見る。剣角騎士団は早い段階で後退する。バルセロらを警戒しつつ、味方部隊へも連絡するだろう。紅華騎士団があくまでも東進を続けたならば包囲される恐れもある。連携する以上は紅華騎士団の被害は避けなければならない。そういった意味では足手まといとも言えた。
(いっそ早い段階で姿を晒すか。この状況を短時間で安全に解決できるというものだ)
バルセロは馬上の人になってからも先の判断を前提に戦場を見渡していた。この夏を通じて己の巣のようにも感じ始めた原野を、己の手足のようですらある千五百騎を率いて疾く駆ける。
油断したわけではなかった。緊張感を欠いていたわけでもなかった。
しかしこの時、テレンシオ・バルセロという戦人は自分らしさを見失っていたのかもしれない。彼は本質的に飢えて戦う者だった。刃の上に身命を乗せ、研ぎ澄ませた牙でもって血肉を喰らう者だった。牙狼は餓狼であり、瞬間の戦いに全身全霊をもって当たることが本当の彼らしさだった。
そんな彼が、予断と打算でもって戦場を駆けている。理由は幾つもあった。長く居座っている戦場、約束された昇進、戦い慣れた相手、若さを感じさせる味方……そして初めて許された己の戦旗。
バルセロが刀剣住蛇の旗を掲げるよう指示する時、その声には喜びの成分が混じっていた。長く軍内に不遇を生きてきた彼にとって、それは余りにも誇らしいことであった。疾駆しつつ背に聞くはためきに心を躍らせていた。満たされる思いがあった。たとえ僅かであれ……浮ついていたのだ。
戦場の生と死は実に容易く変転する。
バルセロら千五百騎は東南東へと駆ける。斥候を小刻みに放ち、敵の斥候にも警戒して、夕暮れにも剣角騎士団を間合いに捉えんと進む。夜襲になるかどうかは相手次第である以上に、味方の紅華騎士団次第だ。いつ発見され、どのように剣角騎士団に作用するものか。どのように進み、どのような戦いを思い描いているものか。それらに合わせて動くことをバルセロは考えていた。そして激戦になるなどとは予想もしていなかった。
だから、斥候より剣角騎士団が西進速度を速めたと聞いた時には耳を疑った。思考の虚を衝かれた。それは全く想定していない動きだったのだ。
「……気づかれてはいるのだろう?」
思わず確認してしまったほどだ。既に十分に接近しており、まだ間合いには遠いものの剣角騎士団のものと思われる斥候も目撃している。味方が前進している状況は夜陰に乗じての進軍を選択肢から除外しているから、発見されることは想定内のことだったが。
「はい。剣角騎士団の陣形は右側面に我々を意識した重なりを持っているようです。進軍路も比較的高所を選んでいることから、いつもの重層弓射を意図しているものと思われます」
それでいて前進するとはどういうことか。バルセロは進軍速度を下げる選択をした。剣角騎士団がその前方に紅華騎士団を把握していることもまた間違いない。進めば挟撃される危険を敢えて冒す理由が見えなかった。違和感があった。己が戦場において次の最善手を即断できないことに戸惑った。
だから、斥候が新たな部隊を発見したと報告する声をば、微量の恐れとともに聞くこととなる。
剣角騎士団はその後方に騎兵千五百騎を従えていたようだ。その編成は重騎兵五百騎に軽騎兵千騎である。騎士団との間に開けた絶妙な距離と、地形を縫うようにする巧妙な進軍とがこうも発見を遅らせた。斥候の早合点もまた原因だろう。バルセロだけでなく、彼の斥候もまた剣角騎士団にばかり意識を囚われていた。良くも悪くも指揮官の意識は部隊に影響する。
旗は白く流れる独特なもの……白流旗。第三王女親衛団である。
剣角騎士団は前進を止めず、今や互いに姿を確認するに至った紅華騎士団もまたその速度を更に速めた。騎士団同士の戦いには名乗りが伴う。両団の代表が己の名誉を堂々と表明し合い、勇戦を約してから戦うのが礼儀とされている。それに先立つ斥候同士の行き交いが始まろうとしている。対決は確定だ。
しかし、バルセロは動けない。動きようがなかった。
親衛団の騎兵たちは奇妙な位置取りでもって騎士団同士の戦いとバルセロらとを見据えていた。剣角騎士団を左前方にして先ずは重騎兵五百騎が在り、それを更に左前方に見る形で軽騎兵千騎が控えている。三千、五百、そして千という斜形を描いているのだ。バルセロらは右手に紅華騎士団を見つつ正面に親衛団の軽騎兵千騎と正対している。地形はあちらが高所にあり、こちらは全体として低所だ。
形勢不利、とバルセロは即断していた。
遠目にも白流旗の下に並ぶ騎兵たちの練度が伝わってくる。並みの敵ではない。会戦に先立って成し遂げられた事実が無形の威圧となってバルセロを脅した。思考の隙を衝かれた段階で既に己が受身であることをバルセロは自覚していた。それもまた形勢不利とした材料である。
夕闇が迫る前に、騎士団同士の名乗り合いが始まっていた。しかしバルセロは動けない。彼もまた無言の名乗り合いをしていたからだ。軽騎兵千騎の中で白流旗が合図のように振られている。重騎兵五百騎の中でも同じだ。誘っているのか。そして何をしようというのか。
「……旗を振り返しておけ」
バルセロはそう言うと、呼吸をゆっくりと整えていった。
期せずして、難しい戦いが始まろうとしていた。




