第41話 陰を先んずれば陰を知る
カツリカツリと音がする。それは時代の足音であろうか。
大雑把に見て、この大陸は大門の形を成している。
西の柱はエベリア帝国であり、領土を南北に西龍河が流れていて柱の芯となっている。東の柱はアスリア王国であり、領土の南北を流れているのは東龍河だ。互いに中央南寄りに首都を置いている点も似ている。両柱の間には二つの原がある。
北部の原は行禍原だ。変化に富む広大な原野は幾多の会戦が戦われた戦場であり、両国の北部と併せて北を天境山脈に蓋されている形だ。その向こうには大氷原が人間の営みを否定する世界を広げている。それがどこまで続くものかは人の知るところではないが、少なくとも季節ある世界と同等かそれ以上の面積が、ただ凍れる土地として続いているようだ。
南部の原は紫雲海だ。波高く潮流の不規則な魔の海原であり、どんなにか堅牢な船を建造しようとも沖に出て一昼夜と無事にはいられない海だ。巨大な海獣がいるとも、船を絡め取る大海藻があるとも、浮かぶ何物をも許さぬ無限の泡沫が湧くとも言われている。唯一、聖杯島付近のみが特殊船で航海することが可能で、東西両柱の南端との間に辛うじて海上の道を見出している。
国は二つきり。使える征路は一つきり。外洋の先には陸地の有無もわかりやしない。
人の世界の限界は知れていた。つまるところ人の営みの限界もまた知れている。
世界全図を羊皮の大紙の上に見やりながら、その男は腹の底からの吐息を噴き出した。白髪と白髭に縁どられた皺多き顔には猛禽類の如き両眼が煌々としている。表情は険しい。眉間の皺などは凍りついたものか平たく戻る気配すらない。
男の名はライムンド。
エベリア帝国の皇帝である。
豪奢な執務室の中で微動だにせず、帝国の国旗を背に机上の地図を見下ろす。飽くこともなく、さりとて楽しげにでもなく、そこに救われ難い債務でも示されているかのようにして、睨む。人間社会の半分を支配する彼にとって、その地図は憤懣やるかたない何かであった。
視界を部屋の中へと戻した時、未だに鳴りやまない音の正体が知れた。カツリカツリと繰り返されるそれは執務室の扉から発せられている。ライムンドが「入れ」と告げたならば、それは止んで一人の青年が入室してきた。
「失礼いたします。父上」
「……うむ」
ライムンドは皇帝たる己を「父上」と呼ぶ者を見やった。線の細い柔和な印象がまずあり、次いで公私の分別も分からない幼さが舌に残る甘味のように香り立つ。出会った頃の皇妃の面立ちによく似ていて、この息子が戦場に立つ姿がどうしても想像できない。
イスマエル。今や唯一人となったライムンドの子である。
「出発を前にご挨拶に伺いました。これより北へ発ちまして、この夏を北辺で過ごしたる後、秋に帝都へと戻ります。実りある報告を出来ますよう、頑張って参りますね!」
「そうか……“幻魔森”に立ち入る際は充分に気をつけよ。お前は夢中になると周囲が見えていないことが多々ある」
「また私を子供扱いして……大丈夫ですとも。これでも名手を自負しています。きっと七色の成果を挙げてみせますよ、私は」
嬉しげに笑んで、イスマエルは皇帝の執務室より退出していった。ライムンドはその姿を最後まで見送った後、長く静かに息を吐く。それには幸せの成分が含まれていたようで、吐き切った彼には苦々しげな顔が残るばかりだ。
彼の息子は……帝位継承権第一位たるイスマエルは、笑顔で北へと旅立つ。多くの護衛を伴い、充分な財貨と時間とを使って、戦争とは無関係のある事を為すために。充実した日々を送るために。
北の森林での昆虫採集。それが旅の目的だ。
天境山脈の麓より鬱蒼と広がる魔の密林地帯、幻魔森。奥に分け入ったならば戻ることの叶わない人外の地だが、外周付近は比較的安全で、特殊な生態系の片鱗を覗くことができる。他に見られない昆虫も多く、そのことでイスマエルは長く興味を募らせてきた。
そんな彼のもとへ辺境の民より情報が寄せられた。薪拾いに森へ入った童が、木々の合間を幻灯のように光りつつ飛ぶ七色蝶を目撃したと言うのだ。イスマエルは驚喜した。是非ともそれを捕らえたいとライムンドへ乞い願い、それは許されて此度の仕儀となる。ひと夏を北辺の村で過ごす旅だ。イスマエルが捕虫網を手に笑顔で過ごす夏の日々……ライムンドはそれを容易に想像することができた。
美しい光景を欲していた。夢のような光景を。
それを過ごす者が自分でなくともいいのだ。ただ、そんな光景が人の世界に現れるだけでいい。ライムンドは瞼の裏にそれを夢想して、束の間の寛ぎへと心を遊ばせていた。再びの音に起こされるまでは。ガツガツと、今度のそれは力強い現実の響きを持っていた。
「失礼いたします。ドナルド・コレトス、只今帰還いたしました」
「うむ、よくぞ戻った」
足を引きずるようにして入室したその男は、威儀を正して直立不動の態をとった。寸分の乱れもなく着込んだ騎士服は勇壮であり、腰に下げた長剣はこの場においても帯剣を許された身の特別を示している。この初老の騎士こそはライムンドの股肱の臣だ。即位はおろか成人する以前からの側仕えである。
かつての戦乱では行禍原の大会戦を轡を並べて駆けた。その後ライムンドは後備えとして帝国領に留まったが、ドナルドは近衛軍に参加してアスリア王国へと赴いている。王国領北部を平らげ、そこから南へ向かったところで激戦の中に足へ大怪我を負った。今は“陸水面”と俗称される辺りでのことだ。護るべきを護ったことで受けた戦傷であるから、ライムンドはそれを名誉の負傷と思うばかりである。
「ご報告申し上げます。アスリア王国における諜報活動は第二段階に入り、王国内の残存エベリア人有志による挺身隊は各所に恙無く組織されました。進軍経路としては三路の内の一路が良、一路が可、一路が不可と相見定めましてございます」
前線で戦う能力を失ってなお、その身を粉にして働く騎士の報告だった。ライムンドはその忠義を当然のものとは考えていない。ドナルドは特別だった。肩書きとしては一介の騎士に過ぎないが、己の半身の如き存在と認識していた。
「挺身隊の規模はいかほどとなったか」
「は。主要な町にはそれぞれ三十人から五十人が機会を待っております。領城内部への潜伏は叶いませんでしたが、町の外門を開くこと及び市街への放火や騒乱誘導については効果を見込めるものと思われます」
「それなりの人数であるな……全てがエベリア人か?」
「いえ、地元の悪党の類を金で手懐けたものにございます。こちらの素性は知らせておりませんから、それと知らずに住まう国に仇為すことと相成りましょう」
「繋がりを気取られてはおらぬな?」
「複数の仲介を通し、個々別個に接触しております。事の起こるまで己が数十人の中の一人であることにも気付かぬものと思われますが……」
きっぱりと答えていたドナルドであるが、話の最後に言葉尻を濁してみせた。そこに微かな後悔を察し、ライムンドは眼差しをもって先を促がした。
「唯一、水運に影響力を持つ川賊“沙磨屋”についてのみは、私が帝国騎士であると告げた上で協力を承諾させております。本来であれば挺身隊に組み込む予定もあったのですが、それは叶いませんでした」
「ふむ……エベリア人ではあるのだな?」
「かつて帝国軍の傭兵部隊にて名を上げた者にございます。そして……最後の戦いにも参加し、戦争捕虜となった者とか」
ライムンドはすぐには返事を返せなかった。胸の疼きが息を詰まらせる。
最後の戦いとは、即ちライムンドが次代皇帝と見込んだ息子を失った戦いのことである。親の欲目もあろうが、見惚れるほどの男だった。覇気があり、軍才に富み、そして万人を惹き付ける資質を持っていた。ライムンドをしてアスリア王国侵攻軍の全権を委ねることに何の躊躇いも感じなかった。それほどの大器だったのだ。
その息子は魔人の手に葬られてしまった。勇者を討ったことは流石の戦いぶりであったが、まるで魔法のように殺戮の風が吹いて、帝国の未来を担う宝玉は砕かれてしまった。悪夢だった。実際、ライムンドは今でも夢に見る。彼在りし日々の輝きと、彼失いし日々の暗闇と、その落差は絶望的に思えた。
代われるものならば代わりたかった。可能ならば今からでも代わってやりたい。
この十五年、ライムンドはそんな悲嘆に取り憑かれたままに生きてきた。今この瞬間もその暗黒は胸中にわだかまっており、それはもう墓場まで伴い行くものと悟っている。疼きが消える時は死す時だ。
「……そうか。話を聞きたいものだが」
万感の思いを込めて、ライムンドはそんな言葉を口にした。会うことなどないと知っていて言うのだ。実際に会ったとしても、間違ってもその時の話などはさせないだろう。ライムンドの“傷”は深く深く心の深奥にまで届いている。触れて揺すれば今でも新鮮な血を吐き出すだろう。
「彼の者は国家に関わることを厭い、虚無に身を浸しているようでもありました。それを察することの出来なかった私の迂闊を悔いるばかりにございます」
ドナルドの言葉はライムンドに苦味を生じさせた。何故ならそれこそが彼の本心に近いからだ。国家の行く末に苦心するなど虚しい……ともすれば心中より生じてくるその思いは、否定のしようもなく、ライムンドの本心であった。
しかし、彼は皇帝である。川賊の頭領とは背負っている物が量においても質においても異なる。絶望を抱えようとも果たすべき巨大な責務というものがあり、そのために余命を燃やし尽くすより他に生きる意味を持っていない。
ライムンドはまだ死ぬことを己に許していない。王国を滅ぼさなければならない。
「これは三路の内の良とした水路に関わることでもありますが、彼の者には侵攻軍を支えるに充分な働きを期待できるものと存じます。教会の工作活動に協力してきた実績があり、また、悪党の中にあっても頭抜けた実力を持っていることは間違いありません。払う金次第で多くを働きましょう」
ドナルドの説明は続いていた。ライムンドは頷く前に確認した。
「教会には真意を明かしておらぬな?」
「は。あくまでも情報収集が主目的であるよう体裁を整えましてございます。物流についてはやがて侵攻の暁には協力するよう各所に要請いたしましたが、これはむしろ要請しない方が不自然となりましょう。開戦の目的が王国への侵攻であることは明らかなのですから」
「うむ。精々それらしい動きを教会には見せておけ」
ライムンドは教会を信じていなかった。先の前哨戦における砦焼失なども直近の例だが、かつての戦乱における教会の動きには不審な点が多すぎたからだ。
行禍原における大会戦。ライムンドの親征となったそれを教会は中立の立場で受け入れていた。その時点では傍観者であり、どちらの味方をする素振りもなかったのだ。その態度が急変したのは、帝国が大会戦に勝利し王国領へと侵攻軍を雪崩れ込ませた後のことだ。急に王国への協力姿勢を示し始め、それは帝国が勝利を重ねるごとに露骨になっていった。
決定的な行為となったのが、“勇者の聖定”だ。
王国南部に奇跡の瑞光ありと大々的に発表した後、どこからか見出した一人の若者をして聖定の勇者であると宣言した。そして聖杯騎士団を派兵したのである。勇者に率いられてこその騎士団であるとして。
その事で王国軍は持ち直した。勇者が王国に味方し帝国と戦ったからである。亡国の瀬戸際であったところを押し返していって、そして最後の戦いへと至るのだ。ライムンドは今も思う。帝国軍が勇者を狙ったことは正しかった。教会の大義名分が勇者という特異な存在に拠るのだとすれば、それを討ちさえすればいい。それで優勢を取り戻せたはずだ。
もしもサロモンなどという虐殺者が現れなかったならば、勇者を討ったその後、帝国軍は王国の息の根を止めていただろう。この人間世界にはエベリア帝国のみが唯一の国家として在り、ライムンドはそれを見届けて退位していただろう……彼在りし日々の先に思い描く理想の光景だ。
「水路はよし。他の二路について聞こう」
再びの疼きを嫌い、ライムンドはドナルドへ報告を催促した。美しすぎる夢想は現実の悲惨を辛く耐え難いものへと悪化させる。今はその時ではなかった。
「ヘルレヴィ領を通る陸路は可と見ましてございます。一見したところ物流は整然として管理の行き届いた様子に見えますが、実のところそれは民間の働きに支えられている割合が多く、これは利をもって介入できることを意味します。事実、川賊が強奪品を秘密裏に横流ししているのはこちらなのです」
無言で頷く。商家が時に国家の枠組みを超えたがることは国の東西を問わない真実だ。それはライムンドもよくよく承知していることであり、その利用価値についても弁えていた。
「ユリハルシラ領を通る陸路については、これを不可と見ます。開戦に前後して前線への補給路を整備し、交通規制を強化しております。これは件の騎士団が前線へ常駐していることと無関係ではないと思われます」
ドナルドが騎士団の固有名をぼかしたことで、却ってライムンドは意識を刺激された。そう仕向けられたのだろう。そしてそれは苦々しい思いをライムンドに抱かせた。
あのユリハルシラ侯爵が養う精鋭の騎士団……四剣方形の軍旗をたなびかせるは剣角騎士団だ。かつても存在し、今もまたその精強さを失っていない。前哨戦においても快勝し、先の行禍原会戦においても秩序だって後退した数少ない部隊の内の一つだ。
そして、この新たなる戦乱において絶えず彼らと戦っている集団がある。千五百騎の軽騎兵からなる一個増強大隊だ。指揮する者の名は忘れようにも忘れられないものとしてライムンドの胸に刻まれている。
理屈では分かっているのだ。
しかし疼く絶望が承服させない。
だからドナルドのその提案に対し、ライムンドは沈黙をもって答えを保留した。己の狭量であることも、八つ当たりであることも、立場らしからぬ固執であることも理解していた。それでも即答できないのだ。頷けないのだ。ライムンドは苦しかった。
「陛下、テレンシオ・バルセロ帝軍中佐に更なる兵権をお与え下さい。不可の陸路を可にも良にもしてのける者は、彼より他に誰もおりません」
答えられなかった。しかしライムンドは考えることは放棄しなかった。




