第30話 言葉とは時に剣よりも
「そう。好きになさい」
実に素っ気無いその一言をもって、クラウスは剣角騎士団の前線駐留を許可された。庭園の東屋には茶の香りが漂っている。花の香も混じって鼻梁にむず痒い。耳には管弦の調べが気だるげな音色を押し付けていて、クラウスは厳冬の朝の己を想起した。寝具の中に朝を厭う雰囲気がこれに近い。
「話はそれだけかしら?」
近いはずの声が遠い。その女性があらぬ方を向いていて、クラウスに対して一瞥もないからだ。甘い香りの中にまどろむようにして、明眸皓歯な横顔が秋の庭の光彩を見やっている。
エレオノーラ。
アスリア王国国王の子にして、王位継承権第一位にある女性である。王の不予が続く今は実質的に王権の頂点に在る人物だ。現状は国王代理であり、それが女王という名称に変わることは近く確定された未来であると誰しもが認識していた。
「いえ……軍部より前線の戦況が御報告差し上げられていると存じますが、何かご存念などありましょうか。また、ご下命などありましたならば私めがお伝え致します」
「勝ったのでしょう?」
「国王陛下およびエレオノーラ王女殿下の御威光によりまして、行禍原における小戦闘に勝ち越してございます」
「そう。良かったわね」
声には何ら抑揚が感じられなかった。相変わらずその声は庭へと放られている。クラウスは言葉を重ねるしかなかった。
「……懸念事項と致しましては、前線への物資搬送に滞りがあることです。陸路はともかく水路がいけません。水上の治安が思わしくないようにございます」
返事はなかった。しかしクラウスは伝えなければならない。報告の長巻物が封も切られず打ち捨てられていることは聞いている。その中に表された文字や数字は、幾多の必死と数多の懸命を書き記したものだ。フワフワと言葉を遊ぶ経典や物語によって埋没させる訳にはいかない。
「警備を増強するとともに、輸送量の割合を陸路へ多く割くことで被害を減じられるものと思われます。ご承認をばいただけましょうか?」
「それは駄目よ。水の働きによって戦を制する……もっと船を増やしなさい。私は牛馬よりも船を好みます」
「……は、承りました」
これだ。エレオノーラにはこれがある……クラウスは腹の内に憤りを押し殺した。政務の殆どをクラウスら四侯六伯による合議に委ねているというのに、時折奇妙な強権を発して理に合わない政策を押し通す。それをする時には決まって自信に満ちているのだ。今もクラウスを見据えて笑んですらいる。
「では多少とも時期が遅れますが、とにかくも準備を急がせます。状況の推移から鑑みますに、行禍原に会戦の機会が訪れるのは早くても春の頃かと思われます」
「そう」
興味なしか、とクラウスは徒労感をまた1つ飲みこむ。エレオノーラの興味関心の方向性がクラウスにはまるで分からない。ちぐはぐな上に日により二転三転とするのだ。今日の夕になって俄かに船を嫌って会戦を望みだしたとしても、それはクラウスにとって驚きではない。
危うい。
それがエレオノーラに対するクラウスの評価である。今はその非合理な気まぐれも大局に影響を与えない範囲に収まっている。しかしそれは彼女が満たされているからに過ぎないとクラウスは考えている。いずれ彼女が困難に直面した時、その危うさが明確な形を帯びてくるだろう……それは暗い予感だった。王国は再びの危機を迎えるかもしれない。クラウスはそれを許容するわけにはいかなかった。
「あ、そうだわ」
不意に声が上がり、クラウスはエレオノーラへ意識と視線とを戻した。そしてそこに生々しい感情を見た。先ほどまでのどこか夢現な雰囲気は消えていた。紅を引いた唇はクッキリと笑みの形をとっている。
「パウリーナを前線へやりなさい」
「……は? パウリーナ王女殿下を……ですか?」
それは突飛に過ぎていて、クラウスは諾否もなくただ問い返すことしかできなかった。エレオノーラの唇はいよいよ端を持ち上げていって歯が覗いた。酷薄な白さが日陰の東屋の中に浮かび上がった。
「私もマルガレータも前線へ行ったわ。パウリーナだけが行っていない。それでは不公平でしょう?」
クスクスと笑い声がまとわりついていた。クラウスは言葉を忘れた。ただ聞く。
「前線の将兵たちを慰問させなさい。王族の義務です。すぐにも行かせなさい」
正気の沙汰ではないと感じる一方で、クラウスは胸騒ぎを覚えていた。王女らによる王国北方領歴訪もこのような形で発案されたからだ。いや、どんな案であれエレオノーラが口にしたならばそれは王権に基づく命令となる。余程に道理を外れない限り、王たる者の意思は国を動かす。例えそれが代理であれ。
第3王女暗殺未遂事件……実行犯こそ処刑されたものの、それが事の真相には届き得ない処置だったことがクラウスを怯えさせていた。あるいは今度も狙われるのではないか。狙う者が帝国であるならばまだしも、もしも王国内に不穏分子が紛れているのだとすれば危機だ。クラウスは軍の動揺を案じた。
「……では、親衛団を護衛として同道させましょう」
「ああ、そういうのがあったわね。それは戦わせなさい」
「なっ、まさか、親衛団を行禍原へ出せと仰せですか!?」
「兵隊なんでしょう? 私の兵は勝ったわ。あの子の兵はどうかしらね……」
何を言っているのか分かりかねたクラウスだが、エレオノーラの言う“兵”の意味を解して小さく唸ることとなった。剣角騎士団である。エレオノーラはクラウスが出陣させた剣角騎士団を“私の兵”として語っているのだ。己の派閥に在籍する貴族の騎士団だ。筋は通る。
ルーカスに初陣を経験させるための戦いだった。騎士団はそれを完璧にせんとして犠牲を払い、それでも勝利を持ち帰った。騎士団長は覚悟を示し、クラウスはそれへ更なる覚悟を重ねさせた。騎士団は軍旗に賭けての宿敵を持つに至った。
そんな全てが、今、庭園の花が咲いたか否かという口調で語られたのだ。エレオノーラという次代の王がそう語ったのだ。騎士団の再出撃を認識しているかどうかも怪しいその人物は、剣角騎士団の戦いを理由にして、僻地に押し込められた千五百人を前線へ送ろうとしている。一度は解散させようとすらしたその一団を、思いついたように、植木の剪定よりも容易い口調で。
「準備に……一季節はかかりましょう。追加の支度金も必要かと」
クラウスは搾り出すようにして言葉を吐いた。破棄された砦へと封じられて半年、親衛団が元の規模を保っているとは思えなかった。ただでさえ通常の半数であったところを、僅かな運営資金しか支給されずに放置されたのだ。遠からず名ばかりが残るものとクラウスは予想していた。そしてそうなることが必要だとも考えていたのだ。今の王国にあって、王族が私に持つ兵力は危険過ぎるから、と。
しかし兵が哀れだった。兵とは政治に振り回されるものだが、碌な準備もなく死地へと送られるなど理不尽に過ぎる。クラウスは戦場の現実を知る。身を鎧えず、腰に頼みとする剣もなく、腹を空かせて彷徨う戦地など刑死に等しい。兵を辞めるのならば、よし。されど兵として惨めに死なせることはできない。
前線へ出すとなれば、早急に兵を集めなければならない。これはもう平時の理屈で扱ってはならないのだ。傭兵を集め、選別し、残存の兵との編成を取り決めて軍行動の調練を行わなければならない。また、装備や兵糧、そして移動手段と搬送手段の手配をしなければならない。早くて四十日、遅ければその倍がかかるとクラウスは見立てた。
しかし、返答は簡潔にして残酷だった。
「駄目よ。すぐになさい」
何故かを問う間もなく、愉悦の両目の下に赤と白とが躍った。
「あの子が前線に到着する前に戦わせなさい。会わせては駄目。会うのは戦った後になさい。あの子はあの子で急がせなさい。どうせ支度も仕事もないのだから、今日中に出立させなさい。そしてあの子が到着した時にまだ戦っていなかったなら、罰として労役を課すの。王命に背いて戦うことを避けたのだから当然でしょう? 池を掘らせるのよ。私、そこに舟を浮かべて楽しむから」
哄笑が上がった。それはクラウスの心胆を寒からしめる響きを持っていた。戦場に鍛えられた胆力はぶつかり合いにこそ強さを発揮するものの、このようなものには耐えられなかった。毒だ。これは毒性の何かだ。クラウスは茫然として、見目麗しい王女が溢す毒液の言葉に晒され続けた。
どうやら噂があったようだ。
それは初め、親衛団など作らざるを得なかった第3王女の孤独を嘲笑したものだった。賊どころか兵に襲われた人徳の無さを嗤い、慌てて護衛を寄せ集めた臆病を嗤う。その親衛団は王都に駐留することすら許されず僻地の打ち捨てられた砦に向かった……それをまた野犬の群れには相応だとして嘲笑う。
しかし、新たに1つの噂が届いたことにより、状況はエレオノーラに不愉快なものとなったようだ。
親衛団の末席には1人の少年の名がある。辺境の村の子、マルコ。命を懸けて第3王女を救命し、貴族の養子になることをすら辞退してのけた忠烈の国民である。その彼が言ったというのだ。
「王女殿下のために働けることはこの上ない喜びです。この気持ちは僕1人のものではなく、王女殿下の御心に触れた誰もが自ずと抱いたものでした。親衛団とは正に王女殿下を敬愛する心の現れであり、王国において僕たちが唯一のそれだとしたなら、これほどの光栄はありません。僕らが在ることこそが、王と民とを結ぶ絆の証なのですから」
エレオノーラによって歪められ聞こえてなお、その内容にはクラウスの胸を打つものが含まれていた。民から真心の奉戴を受ける王権……それは理想であれ甘美に過ぎたからだ。そして忸怩たる思いを抱いた。その解散を止めたとはいえ、僻地に親衛団を封じたのはクラウスである。痩せ細ることを期待もした。砦を見て少年は何を思ったろうか。今をどう過ごし、何を思っているのだろうか。
それは分からずとも、目の前の王女の不快は察することができた。少年の発言が純粋であればあるほどにエレオノーラには面白くないだろう。同じく北方の領民と触れあった彼女には親衛団がない。必要の有無ではないのだろうとクラウスは推察する。嫉妬だ。無い物ねだりと言ってもいい。彼女の持たないものを1つでも第3王女が持っていることが気に食わないのではあるまいか……クラウスは怒気を押し殺すために大変な努力を要した。
潰したいのだと理解したからだ。エレオノーラは童のような心情でそれを欲している。今まで興味も示さなかった剣角騎士団のことを己の兵と言い放ち、その勝利をもって親衛団を扱き下ろしたいのだ。彼らの敗北は彼女の中で既に決定事項であり、その敗残の姿を嗤うために色々を命じたのだ。あるいはもうそれを見ているのかもしれないとクラウスは思い、そのおぞましさに震えた。
エレオノーラを恍惚とさせる光景……それは無惨に成り果てた親衛団とパウリーナとの対面だ。前線将兵たちが見る中でそれを執り行わせるつもりなのだ。勝利の騎士団と敗北の親衛団の対比だ。己の兵とパウリーナの兵の対比だ。輝かしい己と惨めなパウリーナとの対比なのだ。
(そんな下らない動機で、兵を……忠烈の少年を死なせようというのか!)
止めねばならなかった。クラウスは憤然として抗議を口にしようとし、それができなかった。己を射ぬく冷酷な眼差しがあった。エレオノーラがその指を突き出し、クラウスを糾弾する構えを見せていた。
「お前は勇者様を見殺しにした」
鋭い言葉がクラウスの眉間に刺さるようだった。
「お前は父様を護ることしかせず、あの男は敵を倒すことしかせず、それがために勇者様は帝国兵に殺されてしまった。私は助けてと言った。誰もが聞かなかった。それがために私はお前たちを恨む。けれど許そう。あの男は死に、お前は私の望みを叶える。忘れるな、クラウス・ユリハルシラ侯爵。私は許す努力をしているのであって、ただの一時とて勇者様を忘れたことなどない」
指先が凍気を放ってでもいるものか。クラウスは寒さを覚え、全身の力が虚脱していく落下感が後に続いた。内面にあっては陰惨な炎が音もなく燃え盛っている。中央に崩れ落ちてなお、1人の男の眼差しが己を見据えている……聞こえない声が聞こえる。いっそ恨み言であったならと恨む。
クラウスは時を失った。過去が大挙して己を呑み込み、現在も未来も暗く見えないものとなった。冷気と熱気とがクラウスを挟んで咆哮を上げていた。クラウスは声を出すこともできなかった。ただ苦しかった。
「下がりなさい。祈りの時間です」
何と答えたかも判然としないままに、クラウスは王宮を退出した。馬車に乗ることも億劫だった。屋敷に到着してからも戸を開けられてしばらくを立ち上がることができなかった。重かった。馬車の外の風景に回帰することを身体が拒絶していた。
クラウスは首から下げた守り袋をまさぐった。今は亡きかつての妻を思った。戦乱に散った息子たちを思った。今の妻とその子らは心に浮かんでこなかった。それを思うにはあまりに身体が重かった。
目を閉じていた。
クラウス・ユリハルシラには、それでも泣くことを許されていなかった。




