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第29話 蛇が潜む野を行くなど

「敵はもとより三千の部隊であったか」


 巻物に目を通し終え、クラウス・ユリハルシラは深く長く息を吐いた。背もたれが軋む音をたてる。視線が机を越え、書棚をも越えて、隅の棚の上の酒瓶に辿り着いて止まった。しばし留まり、つと離れる。クラウスはもう一度小さく吐息を漏らした。目の前に畏まる男を見やる。


「はい。騎兵の数が少なかったためもしやとは思いましたが、浅慮でありました」


 答えたのは壮年の堂々たる騎士だ。誉れ高き剣角騎士団の騎士団長である。ユリハルシラ侯爵家への忠誠も厚く、かつての戦乱ではクラウスと轡を並べて戦場を駆けたこともある男だ。


 そんな彼が王都の侯爵家屋敷に出頭し、当主たるクラウスへと報告したものがある。先の行禍原における剣角騎士団の戦闘に関する詳細だ。それを書き付けた巻物を手ずから提出した後もそのまま留まり、質問に応答しつつ、何かを待つかのような佇まいである。クラウスは眉根の皺を解けない。


「見事な戦果であった。討った帝国兵は千を超えよう。鹵獲品から、相手は帝国軍第五十七連隊であると判明しておる。それを一当てに半壊させたのだから、騎士団としての面目を大いに施したな」


 返答はなかった。勇壮な面には静かな覚悟があるばかりで、口元はグイと締められて笑みもない。クラウスは大きく息を吸い、溜め、そして吐き出しつつ言葉を送った。


「……被害が大きいな。特に三百二十騎を失ったことは痛恨だ。未だ前哨戦に過ぎない段階で被るべき損害ではなかった。これは責任問題となる」

「はい。全て私の不肖不徳の致すところ。覚悟して参りました」


 キッパリと言い切る騎士団長の様子に、クラウスは口中に苦味を覚えた。この男は出処進退の伺いを立てているのだ。剣角騎士団はユリハルシラ侯爵家によるユリハルシラ侯爵家のための騎士団である。当主たるクラウスにはその活動の全てを裁決する責務があった。


 従騎士三百二十騎の戦死。これは由々しき事だ。


 アスリア王国において騎士とは貴族に準ずる地位であり、家名を名乗ることが許される特権階級である。貴族とは異なりそれは一代限りのものではあるが、多くの騎士は己が子を騎士に育てることによって家名を絶やすまいとする。騎士の叙任は特権的に四侯六伯が行うものだが、その際に親の家名を継ぐことも許されているからだ。事実上の家名相続である。

 

 1人の人間がいて、彼が騎士にならんと欲したならばどうすればいいのか。顕著な功績を挙げた者が特例的に叙任されることもあるが、基本的には現役騎士に弟子入りすることがその手段だ。武術、馬術、礼法、武具の知識など学ぶことは様々にある。そんな修行中の人間が従騎士であり、行く行くは騎士になるべき存在だ。


 だから、従騎士とは騎士の子であることが専らだ。そうでない者もいるが少数派でしかない。また、身内びいきによる弱体化を避けるため、従騎士は親族を主人騎士として持つことができない。慣習としては親族の所属する騎士団を避けて別の騎士団に弟子入りすることが精強な騎士を育てるとされている。


 他方、従騎士にも格がある。同じ主人騎士に師事していても、戦場へ徒歩兵として供する者は格下だ。格上は騎乗して主人騎士と共に戦う。重装の甲冑こそ所有できないものの戦場を軽快に駆けるのだ。即ち軽騎兵の役割である。


 つまり、三百二十騎の従騎士が死ぬということは、近く騎士に叙任される位置にいた有為の人間を三百二十人も死なせたということなのだ。しかも大半が他の騎士団に所属する騎士たちの子息である。剣角騎士団で馬を与えられたとなれば親の期待も大きかっただろうに、悲惨な結果となってしまった。


 クラウスは騎士団長に何らかの罰を与えなければならない。数と立場ばかりでなく、死なせ方もまた問題があった。何故なら、左翼へ駆けた三百騎は“囮”になってしまったからだ。結果だけ見ればそうなる。別にいた千騎と合算すれば、そちらにいた敵軽騎兵は千二百五十騎にもなる。それに対して三百騎を当てたという事実は……命を捨てさせる用兵を為したとの指摘を免れないのだ。


「……敵の後背を取りながら、徒歩兵の速度で攻めた理由を聞こう」

「はい。既に長時間を行軍していたため馬と兵との体力を考慮致しました。また、軽騎兵同士の数に差が少なかったため、徒歩兵を置いての突出は危険度が高いと判断致しました」


 今回の戦いで、騎士団は敵に気付かれることなく敵を発見し、しかも後背から攻めるという好機にあった。クラウスはその様子を思い浮かべ、小さく首を振った。彼の知る限りそれは徒歩兵を前面に押し出す状況ではない。少なくともそれは剣角騎士団の戦い方ではない。


「どうして騎兵を分割運用した。理由を聞こう」

「はい。敵の士気を挫くためです。敵は軽騎兵隊と歩兵隊との間に連携の齟齬が見受けられました。それは配置と斥候の運用で察せられました」

「だからそれを助長しようとした、と?」

「はい。その通りであります」


 敵の連携を断つ、とは戦術として正しく効果的だ。今回の戦闘の場合、騎士隊が実に効果的な位置取りでそれを為している。敵の歩兵と軽騎兵との間に進んでしまえば後はどう動いても大打撃を与えられる。実際にそうしたように歩兵を半包囲してもよし、逆側に向いて軽騎兵の挟撃を試みてもよし、だ。


 しかし、とクラウスは小さく唸った。今回に関して言えば問題があったからだ。


 騎士団長の指揮は尽く従騎士たちの消耗を前提としている。勝つには勝ったが、従騎士たちは軽騎兵にしろ徒歩兵にしろほぼ五分のぶつかり合いを行っているのだ。それが敵に隙を生じさせ、騎士隊の騎馬突撃を効果的に働かせたことは確かであるが……別の要素を考慮することで、全く別の意味が見えてくる。クラウスは確認しない訳にはいかなかった。


「卿は……我が息子を大事に扱い過ぎたようだな」


 返事はなかった。騎士団の主たるクラウスに対して虚偽を口にすることは許されない。その誓いが沈黙を作っているのは明白だった。


 ルーカスの加わった騎士隊の危険を可能な限り低めるための戦術。


 それこそが、今回の戦闘の真実であるとクラウスは見抜いていた。


 敵を発見してそれが味方よりも少数であったなら、騎士団とは戦いを避けることができない。不可能ではないがよっぽどの理由がいる。そして交戦許可の出ている哨戒任務中であれば避ける理由などあり得ない。戦うのだ。初陣のルーカス・ユリハルシラを護りながら。


 軽騎兵を主戦場から遠ざけ、徒歩兵を正面からぶつけて槍と矢とを引き受け、敵の攻撃に晒されることなく騎馬突撃を実施して一撃で敵を崩す。乱戦にも機動戦にもさせない。戦闘時間を長引かせもしない。ルーカスにとって安全かつ速やかな勝利を1つ得るため……そのためだけに用兵が駆使されたのだ。


 もしも……とクラウスは想像した。もしもルーカスがいなかったら剣角騎士団はどう戦っただろうか。


 初手から騎馬突撃を敢行しただろう。それはクラウスにとって確信に近かった。軽騎兵を側面援護として駆けさせつつ、敵が陣を再編する前に遮二無二吶喊しただろう。弓歩兵を蹴散らし、その先の槍歩兵をも切り裂いて、敵陣の中央を突破する。危険だが最も効果的な一撃となったに違いない。


 そして追いついてきた徒歩兵隊と連携して敵を挟撃するのだ。圧殺するがごとき戦果を得られただろう。軽騎兵同士の戦闘を援護するのはその後でも充分に間に合うし、歩兵隊が壊滅すればそのままに追撃戦となった可能性もある。この辺りは予測もあやふやになるが、何にしても勝利はより大きくなっただろう。味方の犠牲も少なくてすんだだろう。


 全てはもしもの話に過ぎない。それを口にする愚をクラウスは犯さなかった。しかし騎士団長を責めることもまたしない。できるはずがなかった。全てはクラウス自身の責任だ。ルーカスに初陣を経験させるようにと騎士団へ命じたのだから。


 だから、クラウスはその言葉を発したのだ。


「エベリア帝国軍第五十七連隊従属の軽騎兵大隊……アレを討てるか?」


 自然、声音が低く重々しくなっていく。新たな覚悟を強いている自覚があった。


「捕らえた兵からアレについての情報を得た。大隊指揮官はテレンシオ・バルセロ帝軍中佐。私はその名を戦場において聞いたことがある。当時は大佐だったがな」


 騎士団長の目が見開かれたのがわかった。そこに驚きと共に戦意の高まりを見てとって、クラウスは口の端を笑みに歪めた。


「そう、卿も知っているあの男だよ。“黒蛇”のバルセロだ。出世と無縁の男だとは思っていたが、まさかあれ程の男が降格された上に大隊指揮官如きを拝命していようとはな……」


 “黒蛇”のバルセロ。かつて戦乱の中に轟いた名の1つだ。


 強力無比の騎馬部隊を率いて戦場を荒らしまわった男である。兵を徹底的に統制することで知られ、彼が率いる軍は僅かな乱れもなく鋭く速く動いた。日中にあっても夜襲用の戦外套をまとっていたため、遠く見たならば黒い蛇が王国軍を襲っているようにも見えたという。異名の由来はそれだ。


 クラウスはその猛威を報告の中でしか知らない。彼の身は常に王の側にあったから、参加した戦闘も自ずと重要なものばかりであった。そしてそんな戦場には黒蛇が出没しないのである。軍の上層部から嫌われている……異名の禍々しさもあって実しやかに噂されていたことだ。


 だから、勇者が戦没した戦場にも黒蛇はいなかった。まるで関係のない場所で王国軍の補給線を攻撃していた。彼の軍はしばしば単独で輸送部隊を襲うことでも知られていた。


「生きていたのですね……」

「黒蛇討伐の噂も聞いておらんからな。そして相変わらず恐ろしい男であるようだ」

「はい。対陣していた際に感じた圧力には凄まじいものがありました。倍する兵力でありながら私は動くことができなかった……正面に敵を見ながら、どうしてか四方に危険を感じたのです」

「ふむ。あながち間違いではなかったのかもしれんぞ? 右翼が逃した軽騎兵二百五十……碌に削れなかったようだが……それが何処かに伏せていた可能性もある」

「なるほど……正に恐るべき男です」


 そう、恐るべき用兵家だ。他部隊からの報告も総合すると、クラウスには事のあらましが見えてくる。どうやら“黒蛇”の千騎は連隊指揮官の命を受けて北へ援軍に出ていたようだ。剣角騎士団と帝国軍第五十七連隊とがぶつかるより以前に、同様の遭遇戦が発生していたからだ。王国軍二個大隊二千と帝国軍一個増強大隊千五百との対決は、初めこそ王国軍が優勢に戦いを進めたものの、疾風のように来援した千騎によって散々に打ち崩されたという。王国軍大隊はどちらも壊滅し、それぞれの指揮官も討ち取られた。


 そんな戦いを行った後、原隊へ帰還するところで軽騎兵同士の戦いに加わったのだろう。いや、あるいは……とクラウスは思い直した。もとよりそれを見越して誘引されたのではあるまいか、と。


「今一度問おう。我が騎士団はアレを討てるか?」


 その問いかけに対し、返答は口よりも先に目で為されていた。


「はい。四剣方形の軍旗に賭けまして」


 気炎が上がっていた。音に聞こえた武将を、騎士団の仲間を討った仇を、騎士の名誉と誇りに賭けて討伐するという宣言だ。もう出処進退どころの話ではない。剣角騎士団はここに“黒蛇”を宿敵と認定し、以後総力をもって戦場に追い求めていくのだから。


 靴音も高らかに部屋を出ていった騎士団長の、その音が遠ざかる様に耳を澄ませるクラウスである。それは懐かしい音だった。己を鼓舞して戦場へと向かう騎士の音だ。名誉と屈辱とが一刹那に交差する闘争の世界へと旅立つ者の、その決意のみが鳴らせられる音だ。


 自分もかつては鳴らしたものか。それとも、かつても聴いていただけか。


 クラウスは昔を思った。戦場に勇躍した頃の己を思った。身体に力が漲る。そう、この身命を死地に晒して戦い抜いてきたからこそ今がある。どんな苦難をも越えてきた。己の人生とは軍の栄光と共にあったのだ。全てを費やして王に忠節を尽くしてきたのだ。


 しかし脳裏に一片の炎が閃いて、クラウスは息を呑んだ。


 背もたれがギイと鳴った。身中に膨れ上がった闘志は長い吐息として吐き捨てられていって、感じていた熱も冷めていった。身体が酷く重い。若返った途端に老いさらばえたような、そんな急転を味わっていた。


 全ては過去のことだった。


 彼は国軍元帥の位を返上してしまった。領軍や騎士団を運営こそすれ、もう自ら剣を握ることもない。闘争の誇りは既に失われているのだ。クラウスはそれを自覚しているから、先の己の興奮を冷笑する。


「私はお前を死なせた。死ぬために行かせてしまった」


 自分以外に誰もいないその書斎で、クラウス・ユリハルシラは言葉を紡ぎ出していた。


「死地などと笑止よな。お前はそれを支配していた。苦難など笑止よな。お前は黙って死んでくれた。軍の栄光など笑止千万よな。お前は今もその名を辱められている」


 哀悼だった。懺悔だった。しかし後悔ではなかった。


 水滴を伴わない涙が、その乾いた頬を伝っているようだった。


「お前がくれた平和は、もう破れてしまったよ……サロモン」


 クラウスの耳には、かつて聴いた足音が遠く響いていた。決然として死へと歩み去っていった男の、その鋭利で心抉る音が……氷原に釘を打つようなその音が、単調に絶え間なく響いていた。

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