第28話 行禍原は今日も赤色か?
「前方、弓歩兵、五百! その奥に槍歩兵、千! 軽騎兵は両翼にそれぞれ二百五十!」
斥候した者の報告に聞き入る。ルーカスの脳裏では数字が足し算と引き算とを繰り返していた。敵は合計二千。こちらは三千。数の優位は明らかで、特に騎兵が圧倒的だ。こちらは騎士と軽騎兵とで六百騎ずつ、合計すれば千二百騎いる。
騎士団長が重々しく応答している。周囲も聞き入っている。それはそうだろうとルーカスは思う。敵だ。敵がこの先にいる。しかもその配置が意味するところが重要だ。
「気付かれたか?」
「いえ、その様子はありません。東への前進を続けております」
「周囲は?」
「他部隊の姿は見えません。しかし敵左方北側については様子がわかりません」
ルーカスは意識して唾を呑み込んだ。不意打ちだ。これは不意打ちの好機というものだ。敵の後背から一気に襲い掛かったならば大きな戦果を望めるのではないだろうか。身体がブルリと震えた。
「……よし、隊伍を組み直すぞ」
騎士団長のきびきびとした命令の下、三千人が役割ごとにまとめられていく。中央には徒歩兵千八百が槍を前に、弓を後ろにして整列した。両翼には軽騎兵が三百騎ずつに分かれ、騎士はその後ろにつく形で同じく三百騎ずつとなった。
「若様とダニエル卿は私の側に。努々ご油断召されるな」
「わかった」
言葉少なに返答するルーカスである。剣帯の長剣を確認し、馬上槍を持つ手の汗を拭った。配置からいって相手は軽騎兵だ。槍と槍とで打ち刺し合うことになる。身の丈二つ分ほどの長さの一槍で命のやり取りをするのだ。槍の穂を見る。短く細身で、突くより他に術のない刃だ。豪傑が持つ肉厚で反りのあるそれと比べれば貧弱極まりない。しかし彼の腕力ではこれが精一杯だ。馬術の練度からいっても片手で振るう時間が多くなる。両手離しで長く馬を操ることができないからだ。
「刺されたら、それを捨てることです」
ギョッとした。ダニエルだ。彼自身は自らの馬上槍を興味もなさそうに持つきりで、しかもルーカスに槍を捨てろと言う。思いも寄らない発言だった。
「先生、それはどういうことか」
「落馬しないためです。すれば死にます」
「それは……そうかもしれないが」
ルーカスは頷き難く思った。槍は武器であるだけでなく誇りでもある。戦いに来たのだ。それを捨てることは義務を放棄することではないのか……ルーカスは己の責務のために戸惑った。
「いざとなれば身を沈めて鞍角にしがみ付き、馬が駆けるのに任せて逃げる……僅かでも命を存えれば、たとえ殺されて終わるにしろ敵をひきつけておける。馬賊に見た技法です」
静かに語られる内容は名誉などどこにも感じられない話だった。ルーカスの周りのどんな軍人も話さない種類のこと……負け方、死に方、終わり方の話だ。弱々しいはずのそんな話が、しかし他のどんな話よりも凄みをもってルーカスの耳を打っていた。
「命を拾えれば重畳。それが望めないのなら使わなければ。一欠けらでも一絞りでも……名を捨ててでも身を捨てでも……全てを使い切らなければ」
脅しつけているのではなかった。暗い雰囲気すら感じられない。ただただ静かに言葉が紡がれていく。話すダニエルからは何の気負いも感じられない。騎士たちが見せる戦気のようなものもない。それでも、ルーカスにはダニエルが恐ろしいものに映っていた。
(そうか……これが先生の芯にあるものか!)
ルーカスは目を見開いていた。ダニエル・ハッキネン男爵という男が秘める何か……揺るがず動ぜずの強さの源が、今目の前に覗けていると気付いたからだ。共に過ごした三年間を通じて常に正体不明であったものは、今垣間見えるそれは、しかし何という覚悟であることか!
道理で他の貴族とは異なるはずだ、とルーカスは納得した。父兄が勇者を護れなかったことを恥じて領地を全て返上したことは聞いていた。爵位をも一度は返上し、改めて王から爵位を賜ったもののそれは降爵処置でしかない。王都からも遠ざかり、北の地に引き篭もっていたことも知っている。
それがどうしてこの覚悟に繋がるというのか……ルーカスは呆然とした。新たに生じた疑問が以前よりも大きいからだ。宝箱の蓋を開けてみたならば、それが迷宮の入り口であったような気分だった。そんな絵物語をルーカスは読んだことがある。
(捨て身とは違うのだろうな。先生の言動には荒みがない。投げやっているわけではないのだ。貴族としての多くを投げやっているというのに……どういうことなのだろう?)
人間とは書物である、と言ったのは誰だったろう。ルーカスは思い出そうとして、苦戦しそうな記憶の戦いを途中で放棄した。出典などどうでもいい。誰の研いだ剣だろうと切れるものは切れる。そしてダニエルのことを思った。この人物に深奥を知りたいと思ったのだ。
「流石はハッキネン男爵、と言うべきなのでしょうが……」
それは騎士団長だった。面覆いに手を添えつつ、どこか困ったような顔だ。
「我々は若様に騎士の勇猛なるをお見せするためにいるのです。少々と言わず、例えが極端すぎますな」
「これは失礼を」
微笑むダニエルには、もう先までの雰囲気はない。剥き出しにされていた鋼鉄は柔からな織物に包まれていて、ただ不動の気配だけをルーカスに伝えている。
「では、若様」
「うん」
「我が騎士団はこれより帝国軍部隊を攻めます。決して無理せず、孤立せぬよう」
「わかった。四剣方形旗の武勇を体感できること、光栄に思う」
騎士団長の号令が発せられた。
兵列を密にして槍の空を刺す様子も整然と、剣角騎士団の徒歩兵たちが地を踏み踏み進みゆく。翻る軍旗には武をもって四方を制する四剣方形の印章が雄々しい。軍の軍たる在り様は歩兵の戦陣にこそ見ることができる……自らは右翼後方の騎士三百の中に在って、ルーカスは徒歩兵の歩調を頼もしく感じた。
両翼の騎兵は徐々に徒歩兵の列から離れつつある。騎兵同士の戦いには空間が不可欠だからだ。特に軽騎兵の戦闘においてはそれが顕著で、ルーカスはその機動力を疾風のように感じたものである。今は重騎兵たる騎士たちと速度を同じくしているが、間合いに入らば軽快に敵へと襲い掛かるだろう。
二つほど地形の起伏を越えると、ルーカスの目にも敵の姿が見えてきた。翻る軍旗には翼竜の意匠。エベリア帝国の主力たる国軍の旗だ。それは遠目にも慌ただしく揺れている。この接敵は予想よりも早かった。遅まきながら騎士団の接近を察知し、軍を停止して兵列を改めていたのだろう。しかしそれはまだ途上にあるから、これはやはり好機だ。
騎士団の軽騎兵が先手をとった。
騎士を置き去りにして弧を描くようにして駆けたのだ。敵騎兵がそれに応じるように駆ける。両者は外側に回られることを嫌い合って、原野にその軌道を膨らませていく。こちらの積極性に対してあちらの動きには躊躇いがあるようにルーカスには思えた。軽騎兵同士の数の違いはさほどではないから、これはやはり騎士の存在が圧となっているのだろうと判断する。重騎兵の突撃は何をも砕くものと聞く。
「よし、我らはこのまま前進し、敵歩兵と敵騎兵との連絡を断つ。速歩、進め!」
三百騎が動き出し、ルーカスの初陣が始まった。
ザクザクと地を削りつつ重装の騎兵の群れが進む。ルーカスは右前方に軽騎兵同士の位置の奪い合いを、左前方に歩兵同士の槍衾が近づきつつある様子を見る。歩兵間には矢も飛び交っている。弦が鳴り矢が風切る応酬は、音といい見た目といいどこかルーカスには間が抜けて感じられた。それは横目に見る余裕というものか。しかし遠目にも兵が倒れ蹲る様子を確認して、一気に込み上げるものがあった。頬と耳とが熱い。
ついに槍襖がぶつかり合った。
騎士団の従騎士たち……盾持ちと槍持ちの二兵種が雄叫びを上げて突く。突きまくる。至近になっても互いに矢は止まらない。放物線を描いて後方を狙い撃つ。地は無数の足音に埋め尽くされ、天は怒号に満たされた。敵の兵列はいかにも弱腰だ。それもそのはず、ルーカスら騎士隊が横撃に近い形で迫らんとしている。敵歩兵部隊は半包囲されつつあった。
「各々! 騎士の誇りを示せ! 突撃!!」
全てを塗り替えて喊声が轟いた。騎士による騎馬突撃が行われるのだ!
「おおぉっ!!」
ルーカスもまた吠えた。槍をしごき、嵐のような流れに身を任せた。不思議と外の音は聞こえにくい。ただ己の内側から発する音だけが耳を埋める。三百騎の中央に近い場所だから、槍にかけるべき敵は見えず周囲は味方の戦外套ばかりだ。しかしその外側には確かに敵の群れがいて、それらは軋み血を吹き、喰い破られようとしている。
「あっ!?」
馬が僅かに体勢を崩したため、ルーカスはヒヤリとする浮遊感を味わった。慌てずに手綱を操る。行軍中ならいざしらず、この突撃の最中に馬を止めては敵中に孤立してしまう。沈着を心がけて周囲の波に合わせた。だから、初めてそれに気が付いた。己が駆けている地面の有り様に。
人体のなれの果てだった。
丈のある雑草に覆われていた原野は、今この場限りにおいて、平たく微塵に踏み潰された肉の原だった。それがかつては人の形をしていたことなど、まるで想像もつかないような血油の絨毯だ。突撃の戦果を足場にしつつ進むこと……それが騎馬突撃だったのだ。
耳を打っていたものが悲鳴だと分かった。それは戦う者の勇ましさなどとは無縁の声音で、絶望に満ちた悲響だった。ルーカスが顔を上げたならば、もう周囲に歩兵の長槍が見当たらない。抜けたのだ。槍歩兵の兵列を突破してなお前進しているのだ。ならば、今の声は矢を射ていた者たちが叫んだのだろうと判断する。ルーカスはそんな分析をする自分を他人事のように捉えていた。
叫び声は1つきりではない。進めば進むほどにそれは上がる。
ルーカスは聞き続けた。それら全てが今はハッキリと聞こえていて、遂には意味のある単語をすら拾った。誰かの名前のようだった。それで確信してしまった。なぜならそれは女性の名前だったから。知ってもいたし分かってもいた。帝国では女性でも兵や騎士になれる。踏みしめてきたのは男の死体ばかりではない。どうしてかルーカスの脳裏には今最も思い浮かべたくない顔が浮かんでいた。悲しげな微笑みだった。
とうとう全てを突破して、視界に原野の風景が戻ってきた。幾つもの背が見えた。帝国兵たちが散り散りに逃げているのだ。その距離から鑑みて、突破後に駆け出した者など少数であると知れた。多くは騎馬突撃がぶつかった時にもう駆けていたのだろう。敵陣は崩れていたのだろう。ルーカスは特に意味もなく背の1つ1つを確認していた。髪の長い者については視線が長く止まった。
「合流せよ!」
騎士団長の号令が聞こえていた。反対側から突入した騎士たちが少し遅れつつも合流し、素早く被害報告がなされた。剣角騎士団所属の騎士六百騎、誰1人欠けることなく揃っていた。横列に隊伍を組んでいくが、ルーカスにはもう騎馬突撃があるとは思えなかった。敵の歩兵隊は崩壊していた。
徒歩兵たちもまた合流してくる。それはしかし報告を受けるまでもなく数を減らしていた。ルーカスにはそれが分かる。どんなにか整然と戦列を組んで来ようと、その列の向こうには別個の小隊が組まれていて、彼らが負傷兵を運んでいることが見て取れたから。更にその向こうには、見慣れた戦外套が幾つも倒れ伏していてもう動かない。
軽騎兵同士の戦いはどうなったのだろうか……ルーカスは視線を方々へと向けて、そして目を見開いた。西へ面しているから、右手のそれは北側だ。遥か遠くに天境山脈が望めていて。
帝国軍の軍旗がはためいていた。
やや高く盛り上がった地形に、横に広く展開するそれらは軽騎兵だ。物見の誰かが「千を超えます」と口にし、それをルーカスは酷い冷たさを覚えながら聞いた。千を超える新手が威風堂々とこちらを見据えている。あちらこちらに散っていた背中たちが、吸い寄せられるようにそちらへ向かっているのが分かる。味方の旗の下へ安全を求めて走っているのだ。
それは、つまり、そちらへ駆けていった従騎士たちが……左翼軽騎兵三百が無力化されたことを意味する。二百五十騎の敵と駆け引きをしつつ離れていった者たちが、ここに誰一人として戻っていない。あの敵騎兵の列の向こうにまだ生きているのだろうか。それとも、もう生きていないのだろうか。右翼の三百騎もまだ戻らない。槍が重いとルーカスは感じた。いや、全身が重いようだ。咽が渇いていて、鼻の奥がいがらっぽく引き攣っていた。
翼竜の旗の下には帝国軍の歩兵たちが、四剣方形の旗の下には騎士団の負傷兵たちが、それぞれに吸収されていく。それを終えてもなお共に動かない。睨み合いになった。
どれほどの対陣が続いただろうか……ルーカスはその客観的で正確なところが分からない。とても長かったようにも思えるし、僅かの間であった気もしていた。
結局、その敵とぶつかることはなかった。
馬首を返す様も鋭く、千を超える帝国軍軽騎兵たちは北西へと去っていった。それからすぐに、南に向かっていた右翼軽騎兵が南東より帰還した。どうやら敵軽騎兵と戦いつつ思わぬ遠くにまで駆けてしまったらしい。当たり方は浅かったようだが、それでも二十騎を減じていた。左翼軽騎兵は一騎として戻らなかった。
諸々の処理も早々に切り上げ、騎士団は転進した。軍の行く先は東だ。前線の砦へと帰還するのだ。周囲への警戒は僅かも怠らない。神経質なほどに斥候が行き来した。
道中、ルーカスは戦果と被害とを計算しようとして、中々数字を操ることができず、途中でその戦いを放棄した。ただ両手で手綱を握ることだけをして、騎士たちの中に己の身を委ねていた。槍はダニエルが持ってくれていた。返される段になって初めて、ルーカスは己の相談衆が無事だったことを認識した。
剣角騎士団三千と2人による行禍原哨戒は、大きな戦果と、総数の二割に近い被害とを出して完了した。
このようにして……ルーカス・ユリハルシラの初陣は終わった。




