第25話 あの男は決して侮れません
「まったく、王女殿下らには困ったものだ。どなたも揃って無茶をする」
盛大に吐かれた息には、微かな酒気と大貴族の自負とが香っている。座椅子に深々と身を任せた様子からはだらしなさなど微塵も感じられず、その身に大きな責任を負っている者の威風があるばかりだ。ダニエルは即答せず、ただ己の杯を舐めた。目の前の男に軽はずみな発言は許されない。
クラウス・ユリハルシラ。
アスリア王国において貴族の頂点に立つ侯爵家当主である。四侯六伯の筆頭として伝統と格式を尊び、武をもって王室に仕えることを重んじる男だ。家門から幾人もの国軍将校を輩出しており、王都の西に広がる自領には王国最強の呼び声高い領軍を養っている。傘下にある騎士団も併せれば王国で最も戦力を保有する個人と言えよう。
しかし一方では内治の人としても知られている。エベリア帝国との休戦協定が締結したことを見届けるや国軍元帥の位を返上し、自領のみならず王国全体の復興に尽力してきたからだ。王の恃むところも厚く、国家の重鎮として誰よりも王への精勤に励んでいた男だ。その彼が、酒杯を手にして、ぼやく。
「エレオノーラ様は教会と近しくあり過ぎ、マルガレータ様は贅に凝り過ぎる。この上パウリーナ様までが奇行に過ぎるでは治まるものも治まらんようになる」
「奇行……ですか」
「卿も聞いていよう。親衛団のことよ。その設立は王族の権利であるが、時期が悪いにもほどがある。今は国内が一致団結して在らねばならんところだ。行禍原の緊張も高まりに高まっているというのに、どうして親衛団など……あれは内乱の呼び水となる軍ぞ!」
忌々しげに言い放つ様は獣が唸り威嚇するかのようだ。王国の藩屏たるを自負する男にとって、王が臥せってからのこの半年余りは悪夢だったのだろうとダニエルは想像する。
王に代わり政権を担うことになった第1王女は祭政の距離を密接にして強硬な政策を推し進めており、その強引さの前には四侯六伯も半ば分裂しているかのような状態だ。ユリハルシラ侯が敢えて第1王女の派閥に属したままでいるのは、実のところ国内の分裂を恐れてのことに他ならない。自らを重石とすることで政治的混乱を抑止しようと必死なのだ。
そんな彼を嘲笑うかのように発生したのが、第3王女暗殺未遂事件である。直接の犯人はヘルレヴィ領軍の領都歩兵隊隊長だが、計画を企てた者が他にいることは明白だ。エベリア帝国か、それとも国内の誰かか……ユリハルシラ侯が恐れているのは後者の方だろうとダニエルは見ている。
悲しいかな、ユリハルシラ侯爵家は貴族の最大であり軍事の最強でありながら、こと宮廷闘争においては小動物に翻弄される大熊に等しいところがある。その人脈にしろ影響力にしろ軍部に偏りすぎているのだ。前線にあっては王と比肩する存在であろうユリハルシラ侯も、王都に身を置く今は不器用なまでに事態への対処能力に欠けている。暗躍に不向きなのだ。
かつては王国の守護者として国軍の最高司令官をも務めた男だ。王にとって戦友と言えばまさにクラウス・ユリハルシラであり、勇者やサロモンの攻撃的な活躍も彼の守備的な支援があって初めて成し得たことだ。その彼が酒杯を片手に王女らへの批判を口にする。客分に過ぎないダニエルに、だ。
(皮肉なものだ。戦場でこそ最も輝く男が、そこから最も遠い所で慣れない仕事の愚痴をこぼす。しかもその相手が……)
口元に浮かびかけた苦笑を噛み殺すダニエルである。ユリハルシラ家の嫡子の相談衆として、王都の屋敷に部屋を与えられている立場ではある。しかし彼の主君はあくまでもマルコなのだ。彼は今この瞬間にも王都の情報を吸い上げており、知り得たことの全てをマルコへと伝達する。ハッキネン護衛団の長としてヘルレヴィ領へと送付する巻物は多く、それら全てが偽装に過ぎないと知るものは受け取るラウリだけだ。
「……閣下は未だ国内に内乱の恐れがあるとお思いなのですか?」
「無論だ。あの亡国の危機にあってすらそれはあった。今にしてないと思う理由がないわ」
「なればこそ、親衛団は王都から遠ざけねばならない……」
「うむ。当然のことだ。あれは本質的に国内の貴族と戦うための軍だからな」
親衛団を僻地の砦に押し込めたのはユリハルシラ侯である。正確には、団の解散を命じようとした第1王女に「王族の権利を王族が侵すなど己が身を食う獅子のようなものでありましょう」と進言し、捨て砦への駐屯という形へ命令を変更させたのだ。
それは第1王女にとっては溜飲の降りる案であったし、曲がりなりにも拠点を与えることで第3王女の顔を立てている。落とし所としてはそんな所だろうと思われたが、最後に第1王女が兵数制限を言い出して再び揉めた。それが通ってしまうところが教会の影響力というものか……ダニエルは警戒感を強めるとともに、最終的には同意したユリハルシラ侯の思惑を察してもいた。
「それに、目に見える所に置いたなら、再びエレオノーラ様が無茶を言い出しかねん」
「聖杯騎士団の受け入れ、ですね」
「その通りだ。あんなものを認めるわけにはいかん」
聖杯騎士団とは教会が聖杯島に保有する独自の戦闘集団だ。聖騎士とその従者によって編成されており、目的のためならば徹底的な手段で事に当たるとして畏怖される軍だ。聖地とされた池から特定の魚のみを駆除することも、聖定の勇者に付き従うことも、異端とされた村を老人から赤子にいたるまで殺め火を放つことも、何もかもを迷いなく行うという。
王国に勇者在りし時、聖杯騎士団は頼もしい味方として戦場を駆けた。しかしそれはあくまでも教会の命に従っているだけであって、王国側の要請を受けるも断るも教会の都合によって決まる。場合によっては帝国側につき、王国へ槍を向けることも躊躇わないのだ。
第1王女はかねてよりその聖杯騎士団を招聘することを希望している。それは彼女を支持する開戦派貴族ですら二の足を踏む考えだ。戦線が行禍原にある現状はかつての窮状とは大いに異なる。確かに強力かもしれないが、これ以上教会の意思決定に左右される王国であっていいものか……いいわけがない、というのがユリハルシラ侯の思惑なのだろう。
「畏れ多いことだが……王族とはいえ女子供だ。意地や見栄といった下らないものを理由に火種を抱え込むわけにはいかん。困ったものだ、つくづくな」
言葉尻に何かしらの侮りが見えたのは彼の女性観によるものか。アスリア王国は男女に権利に差異はほどんどない。例えば、第1王女はいずれ王位を継承して女王になる。その際に夫は王配という立場になるだけだ。エベリア帝国のように皇帝は必ず男でなければならないといったことはない。
しかし軍事に関しては両国のそれは逆転する。エベリア帝国においては女性の士官や騎士が存在するのに対して、アスリア王国には剣を帯びる女性など侍女武官ぐらいしか存在しない。そしてユリハルシラ侯は本質的には軍人である。彼の女性観を形作ったのはその辺りの事情だろうとダニエルは考えている。
「時に、ハッキネン男爵。卿はヘルレヴィ伯をどう見る?」
「は……畏れながら評しますに、実直にして王国への忠誠心に厚い人物ではないかと」
「ふむ、そうだな。私もそう思う。伯は時や状況よりもを理や規則を尊ぶところがあって、それは敵を作ることも往々にしてあるものだ。それが今回は様々に仇為すことになったようだが……」
声音に混じる切なさは、己と同じ不器用さを認めたがためのものか。
マティアス・ヘルレヴィ伯爵は第3王女暗殺未遂事件を領内に発生させた罪をもって当面の謹慎を申し付けられている。もとより領城に篭って政務に励む男であったから、実質的には無罪放免ということだ。しかし名目的には名誉を損なわれたことは確かで、ユリハルシラ侯はそれを憂いていた。
親衛団の発足を奇行と断じたユリハルシラ侯であるが、それを援助したヘルレヴィ伯の心情については共感するところが大きくもあったのだろう。王族を軍でもって護ることはユリハルシラ侯爵家の正義だ。
だから、ダニエルは頷いて見せるのだ。そして口を開いた。
「心無い者は何処にもいます。口さがない者もまた然り。噂など直に消えましょう」
ヘルレヴィ伯を噂をもって追い込んだ男がかくも言ってのけたものである。しかし真実の言葉でもあった。何故ならダニエルは思うからだ。貴族たちは酔夢に生きており、それは1つの夢にすがるというよりは泡沫のような無数の夢に囲まれていたいのではないかと。ただ1つに思い切ってそれを持続する力など、彼ら彼女らには持ち得ないのだと。
「うむ……そうだな。そうあって欲しいものだ」
ユリハルシラ侯の頷きはどこか悲しげだ。やはり心労が嵩んでいるのだろうとダニエルは見る。それを表に出す人物ではないが、人は常に心強く在れるほど単純な生き物でもない。だから夢を見る。心踊る夢を見続けられたならば、人は強く在り続けられる……そう考えるから、ダニエルはユリハルシラ侯に一抹の憐憫を覚えるのだ。
ユリハルシラ侯の夢はもうすぐ終わる……国王の余命はもう幾ばくもないのだ。
王宮の奥に王を見舞うユリハルシラ侯は、その度に顔色を悪くしていく。段々と、徐々に、不可逆的に迫る終わりを前にして為す術もない。彼が1つきりと思い定めた夢が、戦乱を越えて護り続けてきた夢が、遠くない未来に失われるのだ。落日を見据え唇を噛む者こそユリハルシラ侯だ。
「帝国との開戦が秒読み段階に入っておりますが……」
ダニエルの言葉にピクリと肩が反応した。
「閣下は、前線へ騎士団を送りましょうか?」
国軍を退いた身のユリハルシラ侯にとって、開戦の行禍原に関わるとなれば傘下の騎士団を派遣するしか方法はない。領軍は王都を護る盾として位置づけられているからだ。
「……ルーカスか」
「はい。初陣を経験するのならば、大規模な会戦よりもむしろ今が好機かと」
ルーカスとはユリハルシラ侯の息子であり侯爵家の嫡子であるところの、13歳の少年のことである。ダニエルが相談衆を務める相手だ。奇しくもマルコと同年齢であり、それはダニエルにとって興味深いことでもあった。己の主の“特別”がハッキリと分かるからだ。
素直で優秀な子ではある。才気もあり、行く行くはユリハルシラ家の当主として立派な風格を備えていくだろうことも予想できる。そうでなくてはマルコの選ぶ選択肢の内の1つとして挙げはしない。しかし……それだけだ。13歳の尋常は年相応のものでしかない。
だからこその進言であった。
現在の行禍原は両軍の小規模部隊がギリギリの駆け引きを行っている。何度も遭遇し、しかし戦うことだけはしないで離れる。そんなことが繰り返されているのだ。開戦の使者を立てていない以上、先に手を出した方が大義を失う……いや、相手に分かりやすい大義を与えてしまうのだ。
また、開戦したとしても、即座に大規模な会戦が行われるということはない。先ずはお互いの戦力を測るための小規模戦闘が頻発することになるだろう。小競り合いでしかないが、だからこその生々しい経験がそこにある。ダニエルはそこにルーカスを出陣させることを提案しているのだ。
「考えないでもなかったことだが……ふむ……卿から言ってくるとは意外な気がするな。どちらかといえば内治の人間であると思っていたが」
その印象はダニエルが意図して見せていたものである。ユリハルシラ侯の周囲には武断的な人間が多く、彼自身は開戦派貴族らの暴走を抑える立場にある。そんな彼の歓心を買うためには馬賊討伐の武勇よりもむしろ物流についての経験や民の暮らしに関する知識を前面に出した方がいい……そういう判断だ。
それが功を奏した結果、ダニエルの今がある。嫡子の相談衆という枠を超えてユリハルシラ侯に重用されているのだ。しかしここは一歩を踏み出す場面である。
「会戦に際しては騎士団は退けません。しかし瀬踏みであれば異なります」
「それは道理だな。初陣の者の混じる騎士団なぞ、会戦の決定力としては頼りないことこの上ない。個々の遭遇戦であればそれぞれの戦闘であるから、どのように戦おうとも大勢には影響もないか」
俄然、生き生きと語るユリハルシラ侯である。無意識に左の二の腕を摩っているのがわかる。戦乱の中に深手を受け、それでも退かず戦い続けたがために引き攣りを残しているのだとダニエルは聞いていた。それが疼くのだろうか。
「ふむ……あれも13歳か。少々早いが、初陣を経験するには良き機会かもしれん」
13歳という言葉に、ふと3年前の夏を思い出すダニエルである。夜の丘陵地帯に馬賊と戦った緊張と興奮……そして最後に馬賊の頭領を射た者のことを思う。当時10歳だったマルコを。
「いいだろう。騎士団を出そう。しかしそれをさせた卿には頼みたいことができたな。ルーカスの身命にかくも関わったのだから、もう無縁ということもあるまい」
「は……非才のこの身を盾にしてでも、ルーカス様の御身を御護りいたします」
当然の回答をそう口上したダニエルであるが、返事は哄笑であった。
「閣下……?」
「馬鹿を言うな、ハッキネン男爵。卿の父兄の創り物語ではあるまいし、誰であろうと戦場に立てば各々が戦場に試されるのだ。死ぬ時は死ぬ。ルーカスでも、卿でも、誰でも等しくな。護りたければ戦場に出してはならん。出さぬように護るのだ。出すからには共に戦う者と見よ。そうでなければ卿が死ぬのみ」
それまでにはなかった圧が、ユリハルシラ侯から放たれてダニエルを押していた。溜息と愚痴とを漏らしていた男はすでになく、今ここには万軍を統率する将がいるのみだ。
(これが護国の大将軍というものか……!)
ダニエルはこの圧を初めて浴びた。ユリハルシラ侯の真価を見る思いだった。しかし圧倒されることはない。将器で対抗できるわけではない。たった1つの優勢でもって耐えられるのだ。その1つの強さゆえに。その1つに心躍るゆえに。
夢だ。マルコという名の大いなる夢。
ダニエルの思い定めた夢は、今まさに天に昇らんとしている。昇日が落日に負けるものか!
「ご教授を頂きました。盲を開かれた思いです。感謝申し上げます」
丁重に礼をしてみせるダニエルである。自然と笑みが漏れた。ユリハルシラ侯もまた笑んでいる。ダニエルは心中にマルコへと呼びかけた。この男は強いと。敵に回せば最大の障害になることは間違いないと。
「……すると、私に命ずるものとは?」
「卿には早合点の性質があるのだな。命令ではなく頼みだったのだが……今の様子を見て少し気が変わった。やはり卿にはルーカスと共に出陣してもらいたい。頼みは戻ってからでもよかろう」
どこか読めない笑みを見せるユリハルシラ侯に、ダニエルは再び礼を示すよりなかった。やはりこの男は侮り難し、今回の策は白刃の上を渡るような危うさがあった……そう思い、ダニエルは音もなく唾を飲み込む。
後日、ダニエルは首を捻ることになった。
それまで頻繁に舞い込んでいた縁談話が、それはもう見事なほどに来なくなったのである。華やいだ舞踏会の誘いも減った。その一方でユリハルシラ家に所縁のある軍人たちとの会食が増した。出陣に向けて準備する日々にあっては、それも当然の事かと思い直したが。
彼は失念していた。ユリハルシラ侯には子が2人いる。1人は嫡子であるルーカスであり、もう1人は彼の姉のアマリアである。アスリア王国では男女の差異なく長子が嫡子にされることが慣例だが、ユリハルシラ侯の意思により長子アマリアは他家に嫁すものとして嫡子から外されたという。
ダニエルへのある種の包囲網が完成されつつあった。




