第21話 とある獣の話をしましょう
その香りは鍋から漂うものか、己の胃の腑から昇るものか。
天幕の中は暖気と湿気とが程よく対流していていかにも心地よい。職業軍人として筋金入りであるところのアクセリをして眠気を誘われるほどだ。布幕を隔てた外側では血油が地をまだらに染め上げ、死体が荷車に積まれ、捕縛された者が絶望の夜を過ごしているというのに……内側は長閑に緩んでいる。
(家は住まう者を表すというが、なかなかどうして……)
アクセリは白湯をすすり、その湯気の先に座る少女を眺めやった。何かをやり遂げた者の顔をしている。心からの満足と充実が微笑みの形に滲み出ているのだ。素晴らしいことだとアクセリは思う。それは職人が一意専心した先に浮かべるものと同じだからだ。
しかしそれ故にある種の人間にとっては許し難いのだろう……アクセリは心中に嗤った。彼女は飾らず隠さず驕らない。虚飾と隠匿と驕慢を生きる人間にとっては恐怖だろう。彼女は己の栄光を独立した形で保持している。他者や権威や世評に依存して生きる人間にとっては脅威だろう。
アスリア王国第3王女パウリーナ。
彼女を取り巻く人間模様は醜悪な極彩色に散らかっている。第1王女エレオノーラを筆頭として、数多の貴族たちが彼女への悪意を表出して隠さない。それは国王が病に臥せったことにより歯止めを失ったかのようだ。失笑するどころか正気を疑いたくなるような逸話が聞こえてきていた。
情報源はダニエルである。ハッキネン護衛団を組織し、馬賊討伐を成し遂げたところの貴公子は、今や宮中に知らぬ者とていない存在になっている。ユリハルシラ侯爵家が彼を重用しているからだ。
ユリハルシラ家は建国の昔より王室の藩屏として在り続ける大貴族である。現在も四侯六伯の筆頭であるだけでなく、国軍の上級将校を幾人も輩出している。自領は王都に隣接し、前線から遠く離れながらも領軍の精強さはエベリア帝国にも謳われるほどだ。王を護る最強の盾こそユリハルシラ、と。
ダニエルはその侯爵家に招かれて嫡子の相談衆の1人を務めているが、嫡子からも侯爵からも信任が厚いようだ。手紙にしたためられていた「未婚のままに来るのではなかった」という一文は、アクセリらを大いに笑わせたものだ。「結婚するなら今の内かもしれませんよ」というマルコの言葉には武者震いを覚えたものだが。
王都におけるダニエルの活動場所は多岐に及ぶ。ユリハルシラ家が第1王女の派閥に属することから開戦派貴族との交流が盛んで、特に血気盛んな貴族たちに近しい。また、その家名を縁として教会との親交も深い。更には容貌と振る舞いを武器として社交界においても華々しい。
そんな彼から「宮中に第3王女の暗殺計画がある」という情報がもたらされたのは、王女らの王国北方領歴訪が発表されるよりも前のことだ。
首謀者は定かでない。第1王女か教会か……あるいはその双方の協力による密謀か。行禍原へパウリーナを連れ出して殺害、それをエベリア帝国軍によるものとして発表する暗殺計画だ。アクセリに言わせればどこから追及していいか分からないほどの粗雑な計画だが、常のパウリーナの扱われ方と計画の目的とを鑑みると笑えない。
エベリア帝国への宣戦布告及び帝国領への大規模侵攻。
“聖炎の祝祭”以降というもの溜めに溜めた軍事力を、引き絞りに引き絞った戦闘意欲を、1人の名ばかりの王女を犠牲に焼べて大爆発させようという計画なのだ。その目的を前には冷静な判断や客観的事実など考慮に値しない。大衆は熱狂するだろう。「第3王女の悲劇」を大歓迎でもって涙するだろう。喜び勇んで大軍を後押しするだろう。アクセリはそう断言できる。そういう国なのだ、ここは。
マルコはその計画を笑殺した。そして策を講じる。
ダニエルが王都における策の実行者だ。まずは王女らの行禍原視察という予定をユリハルシラ侯爵に知らせた。侯爵は暗殺計画に関わっておらず、また、突飛や奇抜を嫌う人物である。その予定を知るや即座に反対を表明した。それは病苦の王の心情を慮っての熱弁だった。御心にご負担を増して何とする、と。
次に暗殺計画に関わっている貴族の内の、国軍に関わりの深い者たちを選んで接触した。そして将の無念を説く。およそ軍人たるものの死には名誉と不名誉の2種類しかなく、後者の内でも責任問題による刑死が最たる恥辱だと。そしてそれは特に前線将官の間で忌まれるもので、万が一にもそんなことになれば軍全体の士気低下は避けられない。そうならぬよう差配することが卿らの徳望を高めよう、と。
そして、開戦派の中でも過激な者たちに囁いた。馬賊とは害虫のごときしぶとさの奴原にて、山河があれば何匹も潜んでいると見てまず間違いはない。自分が戦った中にはエベリア帝国の人間も混じっていたから、あれは山を通じて西にも繋がっているのだろう。金を放ってやったなら、あるいは帝国領への嫌がらせくらいには使えるのかもしれない。無論それは向こうにとっても同じことだが、と。
最後には噂をばら撒いた。ヘルレヴィ伯爵とは吝嗇の人にして、常から国軍と王都とを金食い虫の類と見なして嫌うこと甚だしい。先の戦乱においても一度として戦場に立ったことはなく、金勘定と蓄財こそが正義と嘯く勘違い者である。それが開戦派に属さない理由であり、先頃まで前線への軍事物資の輸送計画が滞っていたことは証左である、と。
付け加えて、パウリーナの侍女武官であるヴィルマに偶然を装いつつ言って聞かせたものである。北方は瘴気も強く歳若い王女の健康が気がかりだ。端から体調不良を訴えておけば無理のない行程ともなろう。また、ヘルレヴィ領へ訪れた際には領軍大尉のアクセリ・アーネルに宜しく。彼は優秀である、と。
所々に垂らした色水は、巡り巡って一つ所へと流れ込む。もとより杜撰だった暗殺計画は、その成果に目が眩む者たちの酔いをも助けとして、マルコの思い描いた柄へと変化していく。
王女らの歴訪計画は変更された。行禍原視察は全て中止され、パウリーナは体調不良を理由に除け者とされることになった。第1王女と第2王女はそれぞれ前線2領の将兵を激励し、士気を鼓舞して、そして合図を待つことになった。独り北東ヘルレヴィ領へと向かった第3王女……その訃報を。
ヘルレヴィ伯爵領における策の実行者はアクセリである。領内における暗殺計画の参画者は歩兵部隊長と判明していたから、後は彼がやりやすいよう誘導していっただけだ。ベルトランの組織を利用できたことも大きい。領内の闇は全てが味方であり、耳目であり、手足である。そしてその影響力は領軍内部にすら及んでいる。
馬車の周りに隊伍を組み、キコ村へと出発したならば……あとはもう楽なものだ。何しろ暗殺現場として予定されたその場所にはマルコがいる。全てを見通して笑む彼が待っているのだ。
大きく始まった策謀が小さく結実していく。
天幕を張る位置を案内したマルコは、同時に3つの「相応しさ」を図っていたのだ。1つに王女が快適に過ごしやすいか。1つの暗殺を実行しやすいか。そして最後に、伏兵を配しやすいか。村の農夫の中に緑色の頭巾をした男が混じっていたならば、もう、あとは機会を待つばかりである。
卵を取りに行って戻る。
ただそれだけの間に暗殺計画は失敗することと相成ったのだ。
(卵かけ練麺か……あれはいいものだ。主食に足る)
アクセリは2杯、3杯と平らげた練麺の味を思い返していた。喉越しもまた気持ちよく思い出される。パウリーナの妙技は足技に留まるものではなかった。木の棒と白粉をもって生地を伸ばしていく様子には刀鍛冶の玄妙があり、四角い料理刀で生地を細く切り分けていく速度と精度には見入ったほどだ。
そして大鍋に張られた湯で茹で上げられたならば、天幕の内にもう言葉は要らなかった。時に唸り、時に感嘆の溜息を漏らして、麺という麺を食べに食べた。美味い料理には食べ時というものがあり、それは全てにおいて優先される……のかもしれない、とアクセリは思った。
穏やかな時間が流れている。
アクセリはただその流れに身を任せていた。マルコの策は未だ途上にあって、夜が明ければ次の行動へ、次の次の行動へと連なっていって絶え間がない。しかしこの夜においてはアクセリは待つことが仕事である。1つの判断を待たなければならない。
マルコは判断するのだ。
ダニエルが発見しアクセリが連れてきた、1人の少女を。
風雲急を告げるこの大陸にあってマルコが必要とするものが幾つかある。その内の1つが“貴種”だ。かつてハッキネン男爵家の名を大いに活用したことと同じである。今やヘルレヴィ伯爵領の影の支配者はマルコであり、それに安住し停滞する気配など微塵も見せないまま、その影響力を更に拡大しようとしている。そうとなれば次の看板を用意しなければなるまい。候補は3人が挙げられていた。
1人は、ダニエルが相談衆を務めるところのユリハルシラ侯爵家嫡子である。その人品は涼やかで見所があり、王族以外としては他に望むべくもない権門の子だ。ダニエルに懐いてもいる。
1人は、第1王女エレオノーラの娘だ。まだ幼く上に兄もいるが、何しろ現状における王国最高権力者の子であることには違いない。未だ誰の影響力も及んでいないところが利点だ。
そして最後の1人が、第3王女パウリーナである。様々な理由によって貴族社会から孤立しており、教会勢力ですら彼女を冷遇している。状況からすると王位継承権のみが不相応に輝いている存在だ。
最初の1人はダニエルが日夜観察している。2人目は近づき難い上に年齢が幼すぎる。3人目についても離宮に篭っているため接近は難しいものと考えられていたが……そこへ今回の暗殺計画が聞こえてきたのだ。マルコは策を講じたが、それはパウリーナを護るためではない。見るためだ。選ぶに足るかどうかを見極めるために全ては行われ、今夜この時を迎えているのだ。
「とある獣がいました」
その声は一節の笛の音のように天幕内に透き通った。マルコがパウリーナを見ている。パウリーナはそれを受け止めてちょこんと座っている。
「その獣は背に病毒の瘤があります。これは血に乗って全身に毒を送り込むので、放っておけば命を失うことになります。獣は死にたくないものだから、自らを傷つけ、毒の血を流すことによって命を存えていました。しかし出血を続けなくてはなりませんから、やせ衰え、見るも無惨な体です」
マルコは語る。それはアクセリの聞いたこともない物語だった。
「傷をつけることも大変です。ある時など皮膚の裂く加減を間違えて、危うくそれのせいで死に掛けました。慌てて止血しましたが、そうすると今度は毒が回ってしまいます。工夫と努力が必要なのです。何と惨めで悲しいことでしょう。血塗れになりながら、ただ己が死なないことを喜んでいるのですから」
物語るその声が天幕の中に不思議と反響し、アクセリは己が不気味な空想の世界に包まれているかのように感じられた。暖かで和やかだった空気は質感をそのままに距離感を変じたようだ。周囲の全てがひどく遠い。自分が小さくなったのではないかとアクセリは疑い、己の体に手を触れた。
「しかも毒を完全には流しきれてはいません。少しでも存えて……いつか死ぬその時まで、ただ己の体を上手に傷つけているのです。そんな獣がいましたとさ。おしまい」
唐突に終わった物語のその先を、アクセリは聞きたいとも思わなかった。それは救いのない話に思えたからだ。しかも何かがおぞましい。年甲斐もなく背筋に怖気が走ったアクセリである。
見ればヴィルマも同じようだった。真っ青な顔に恐れを露わにして、両の手で己の身をかき抱いている。それをアクセリは笑えない。震えは己にもある。
「それで、どうなるの? 獣は死ぬの?」
パウリーナだった。物語の始まる前と何ら変わらぬままに、小さく首を傾げてマルコに問うた。アクセリはそこに不思議を見る。距離を増して広大となった天幕の内の世界で、パウリーナは何ら動じることなく雄大に座っている。呆けた空虚などではない。内の充実もまた変わらぬままだ。
「さぁ……どうでしょうね。そこから先の話は僕も知らないのです」
けれど、とマルコは微笑んだ。
「物語の続きを考えることもまた、面白いものです。何か素敵な続きを考えたなら教えてください。僕も続きを考えてみて……そして、王女殿下にお伝えしましょう」
マルコは丁寧に一礼し、パウリーナは「うん」と頷いた。
ここに1つの選択が為されたのである。
アクセリは見届けたこの瞬間の事を生涯に渡って忘れなかった。まさにこの一瞬こそが、歴史に巨大なうねりを生んでいく極小の始発点なのだ。ここから始まるのだ。その確信があった。
体が震えた。
アクセリ・アーネルのキコ村再訪は、こうしてその1日を終えたのである。




