第18話 新聞を読む暇は楽しいもの
灯明がジリジリと音を立てて燃えている。ラウリは何とはなしにその音を耳に味わいながら、書類仕事に疲れた手を揉んでいた。背もたれが背のうまいところに当たっていて心地よい。
ふと、脇の巻物籠に入れっ放しにしておいた新聞を手に取った。紐を解いて羊皮紙の丸みを上下に伸ばす。大きく報じられているのはハッキネン護衛団による馬賊討伐である。領軍からの援兵もあったものだから、いつもよりも大々的に筆が踊っているようだ。検閲が緩めということだ。
「『ハッキネン男爵の知謀と勇敢』か……ふむふむ……やあ、今回はアーネル中尉の名前もあるや。2人とも見栄えがいいものなぁ……ヤルッコ軍曹とオイヴァは……まぁ、うん、知る人ぞ知るってことで」
クスクスと笑いを漏らすラウリである。地方向けにしろ都会向けにしろ、新聞紙面でのダニエル・ハッキネン男爵の取り上げられ方には熱狂的なものがあった。もともと家名と容姿とで人気のある人物だったのだ。長く屋敷に引き篭もるような生活をしていたが、護衛団の設立と共に広く世間に活躍の姿を見せつけている。衆望が増すのも当然のことだった。
そしてそれは彼にとっての追い風となる……ラウリは目を細めて髭を扱いた。思い出されるのは馬賊討伐直後の深夜、あの狭い会議室での夜明かしだ。マルコへの説得はいつしか不思議な宣誓へと移り変わり、ラウリに次いで誓いを立てたダニエルに対してマルコは言ったものである。
「王都の社交界に復帰し、“開戦派”に接近してください。軍事的な信頼を得る必要もあります。今から言う名を覚えておいてください。きっと貴方の力になってくれるでしょう」
挙げられたのは主に前線に詰める諸将の名で、聞けば護衛団発足の契機となった領都訪問時に手紙を送ったのだという。どうやってそれらの人間を知り、どうしてその後も交友関係を続けられたのかはわからないが、何とも心強い話であった。ラウリはサルマント伯爵領とペテリウス伯爵領における闇塩の調査を思った。詳細に情報が集まった理由はそれであったか、と。
開戦派についての言及も幹部らを驚かせたが、ただ1人、ラウリにとってだけはすんなりと耳に入ることだった。いずれ再びの戦乱がやってくる……それはマルコが万事における大前提としていることで、ラウリは前線歌謡と共に語られたものだ。
“聖炎の祝祭”以降、アスリア王国とエベリア帝国とは行禍原を挟んで睨み合うばかりで戦闘は発生していない。休戦協定が結ばれているからだ。しかし前線へと運ばれる軍需物資の量を鑑みれば、軍部が現状維持を目的としていないことは明白である。
その動きを推進していると思われるのが開戦派の貴族たちだ。アスリア王国の権力の中枢と言えば王と四侯六伯であるが、それ以外の貴族たちも派閥を作ることによって大きな発言力を有している。ラウリは詳しく知るところではないが、勇者との悲恋で知られる第一王女エレオノーラを中心とした派閥が開戦派の最大であるとのことだ。
「開戦か……風だね、それは」
眺めていた字が生き物のように動いた気がしたラウリである。照明の火が揺らめいているのだ。風はないから油が悪いのだろう。様子を見たところ、単に燃料切れになりかけていた。消えぬうちにと油壷から継ぎ足す。途端に安定した火は、先程までよりも強く広く部屋を照らしだした。
ラウリはマルコと馬賊の里のことを思った。
1人と百人が北へと旅立って幾日が経ったことか。捕虜を逃がす偽装方法としては「怪我で領都への移送に耐えられない者ゆえ処分した」というのが名分で、「衛生的な理由から板張りにした荷車によって死体を運ぶ」というのが実行方法である。マルコ1人はただ町から出ればいい。
捕虜たちが自らで選んだ百人は、それはもう見事としか表現のしようがない百人だった。ラウリは彼らの在り様を思い出すと今でも何かしら胸に来るものがある。
二百余人からの百人……つまり、それぞれが誰か1人を犠牲にしてその場に立っていた。仲間割れがあったわけではない。彼らが話し合いの結果に選んだ代表である。誰かが誰かに何かを託し、一緒に在った運命をそれぞれに分岐させたのだ。百人は早くも百人以上の何かに見えた。
ラウリはそれをさせたマルコを酷薄だとは思わない。もとより捕虜の全員を解放することなど不可能だからだ。彼らの数はそのまま護衛団の戦果であり、領軍の把握するところである。彼らを裁く権利は領主マティアス・ヘルレヴィ伯爵のものなのだ。馬賊討伐それ自体は領政の一環なのだから。
残され移送された百余人の内、十人が公開処刑にされたと聞く。見せしめであり、領主の威と領政の安定とを広く知らしめるための儀式だ。残る者は犯罪奴隷としての過酷を生きているだろう。
それが政治だ。人が人を管理し、人が人を運営することの本当だ。
しかしラウリは不思議をも感じるのだ。マルコはむしろ百人を救ったとも言えるが、だからといって百人が命の恩を感じていたようにも思われない。あの恐るべき演説が思い出される。日常が破れて尋常の外の何某かが覗き見えたかのような、あの物凄まじい演説を。
百人は、その全員がベルトランの相似としてラウリの瞳に映ったのだ。
マルコを神と奉ずるベルトランの在り様は、ラウリをして薄気味悪く感じるほどの忠誠心を現している。余りにも盲目的なのだ。恐らく彼は全ての条理から解放されてしまっている……ラウリはそう分析し、それを怖く思う。
(あの人、マルコくんが女装しろって言ったら、笑顔で女装を極めそうだもんなあ)
百人がマルコに従っていた姿はどこかがそれに近い。奉じようとする熱狂があったのだ。ベルトランほどではないにしろ、彼らもまた多くの条理から目を背けてマルコのみを見つめていたようにラウリは思う。特に迷いのない目をしていたのがクスターという馬賊の頭領だ。百人の内の1人としてそこにいた彼は、他の誰よりも熱狂的であった。両肩を射られ落馬させられたというのに。
マルコにとって彼ら馬賊は頼むべき手足になるだろう。
その手足が振るわれるのは、次の戦乱をおいて他にない。
心中にそう断じたラウリは、灯明の燃える様を見つめ続けたためか、目を瞬かせた。首も振り振りして椅子の上に位置を直した。以前にマルコが暖炉の炎を見据えてじっと座っている様子を見かけたことがあったが、火を見るというのは中々に才能がいることのように思えた。
(竜は空を飛び火を吹くものだ。鱗に捕まった者が見るのは、空の風景ばかりじゃない)
ラウリはこの4年余りを思った。彼は今、ハッキネン護衛団の事務方の長として、行商人をしていた頃とは比較にならない影響力を有している。領内で彼の手の及ばない場所はなく、彼が関われない物流もまた存在しない。武力を持ち街道を制する商人なのだから当たり前だ。
そしてその影響力をいや増すことこそが、ラウリがマルコから命じられた任務である。
護衛団の兵力を縮小させていく方針に変わりはないが、それでも各地の分所やそれに付随する厩舎は依然として残るし、築き上げた信頼は増しこそすれ減ることはない。販路を押さえるという意味では商家にも同等の影響力を有する者はいるが、ラウリにはラウリだけの販路があって、彼らを圧倒することができる。辺境を含む中小の村々への販路である。
現在、白透練の流通は領内の末端までも及んでいて、しかも壺売りではなく量り売りの段階となっている。生活の必需品として広まりつつあるのだ。それは等級別に分けて大量生産に踏み切った成果でもあるが、同時に、ラウリが行商人を多数雇って細かな販路を形成した成果でもある。
人体に例えるのならば、町と町とをつなぐ販路は太い血管のようなものだ。多くを運び多くの利益をもたらす。一方でラウリが私財をも投じて張り巡らせていったのは、肉体の端々へと広がる微細な血管群だ。1つ1つは微々たる利益しか生まないが、それらがなくては全体を生かすこともまたできない。護衛団の人員を使う自由もあったため、今や村々ではハッキネン護衛団といえば傭兵というよりも商家の印象が強いかもしれない。実際、ラウリの部下にはあのキコ村出身の事務員すらいるのだ。
付け加えるのなら、クワンプの栽培と調理に関する情報を村々へ教授したこともラウリの影響力を増大させている。マルコの許可を得て行ったことだ。ラウリとしては続く冷害に泣く村々を放っておけずに提案したことだったが、種や資料がすぐさま用意されたことからして、マルコもそのつもりで動いていたことがわかる。
更に、ラウリは白透練の製造方法についても開示の許可を与えられていた。そうしろという意味ではなく、供給量の確保のためにはある程度秘密が漏洩することも構わないという意味だ。安価での安定供給を重視するということだ。それもまたラウリの影響力を補強するだろう。
(生産と消費。つまるところは農村と軍だよね。私は火を吹いたりできないけど……それでも)
ぐっと身を引き締めて、ラウリは再び書類との戦いを開始した。彼にしかできない仕事は実に多く煩雑だ。大きく決めることとも激しく戦うこととも無縁だが、もしもこの羊皮紙の数枚も無くなったならば、それが起こす小さな波が大きく大きく育っていって……やがて巨大な破綻を招くだろう。
咽に渇きを覚えたその時に、控えめに扉を叩く音がした。
「遅くまで精が出るな」
入って来たのはダニエルである。共にこの領都にて護衛団本部の重責を担う間柄だ。その手には1本のぶどう酒と2つの杯が持たれていて、訪問者の意図を目に見える形にしている。
「終わるまでと待っていたのだが、ラウリのことだ、いつまでも終わらない気がしてきてな。いい酒が手に入ったのだよ。休憩がてら少し付き合わないか?」
そう言って笑むダニエルの目にも疲れの色が隠せていない。護衛団の転換期であるこのところは、お互いに激務に次ぐ激務で碌に休息などとっていなかった。相手の顔を見るたびに己の疲労を類推するような日々である。
だからこの誘いも自分を慰労するばかりのものではない、とラウリはすぐに分かった。相手が休まなければ自分も休めないのだ。苦笑いのラウリである。大の大人が2人して不器用なことだと思ったのだ。
「やあ、ありがたいお誘いですよ。丁度咽が渇いていたところです」
「それは良かった。場所はここでも構わないかね?」
「散らかってますけどね。あ、何か肴になるものを見繕ってきますよ」
「ああ、それならコレがある」
ダニエルが懐から取り出したのは小壺だ。ラウリはそれを食堂の卓上の隅にて見かけた気がする。
「塩だ。我らには相応しいだろうと思ってな」
「道理ですね。私たちの主、それを掘ってるかもしれませんし」
笑い声を重ねて、執務机とは別の小卓へ腰掛けるラウリとダニエルだった。言外に互いの机上における奮闘努力を称え合い、酒杯を交わす。それは身中に染み渡るかのような美酒だった。
「あの……これ実はとんでもなく高いお酒じゃないですか?」
「そうだろうと思う。何しろユリハルシラ侯爵家よりの贈答品だからな」
サラリと言われた内容に噴き出しかけ、口の内容物を思って辛うじて堪えきったラウリである。
「ゆ、ユリハルシラって……侯爵家でも筆頭格の大貴族じゃないですか!」
「ああ。馬賊討伐における活躍を祝す、ということらしい。そしてご子息にその勇を語り聞かせろというお達しも頂戴した。確かあそこの長男はマルコと同い歳じゃなかったかな?」
世間話のように言って、ダニエルは塩を一摘み取って手の甲に乗せた。それを舐め、十分に口中で味わってから、素っ気無い風に杯を舐めた。優雅な舞踏会において百花の眼差しを集める色男が、かくも粗野な酒の飲み方もこなす。しかも酒の方は超一級品なのだから、ラウリは笑うしかない。
「行かれるのですか?」
「そうしようと思っている。ユリハルシラ侯自身は内治の人と聞くが、家門としては第一王女の派閥に属している。これは得難い機会だと思うのだが……ラウリは賛成してくれるだろうか?」
真摯な問いだった。その意味するところを全て了解して、ラウリは答えた。
「賛成します。是非にも行くべきでしょう。ユリハルシラ侯と誼を結ぶことは、男爵の今後について大きな力になること疑いようもありません」
力強く頷いてみせるラウリである。それがハッキネン護衛団に決定的な変化をもたらすことを承知の上での回答だ。
「……頼めるだろうか?」
「勿論です。私1人ならともかく、オイヴァと軍曹もいます。大丈夫ですよ」
任せてください、とラウリは薄い胸を叩いてみせた。ダニエルは王都へと去ってもう護衛団には戻るまい……戻ってしまうようでは、マルコからの任務を失敗したことになってしまう。
不安はあるが、わかっていたことだ。
ラウリは柄にもなく勢いをつけて美酒を呷った。舌を通りすぎたものを咽で飲み干す。機あらば尻込むべからず。もう戦いは始まっているのだ。不安に負けるわけにはいかない。
マルコの下に集った者たちは、マルコが去って戻るまでのこの何年かを、それぞれに勝利していかなければならない。あの不思議をまとう主は自分たちの手を取って引いてくれるわけではないのだ。各々の足で各々の全力を尽くさなければ、たちまちのうちに置き去られてしまうだろう。
竜と共に在ることを欲する者は、己の全開を発揮する責務があるのだ。
(私はもう、自分1人では見られなかったはずの風景を見ているけれど……でも、まだ、世界はマルコを知っていない。これからなんだ。この風景はまだ人の高みの風景であって、竜の風景はまだまだこの先にあるんだ)
ラウリは塩を舐めた。当たり前だが塩辛い。酒も飲む。これがまたすこぶる美味い。目の前には同じ主を戴く仲間がいて、周囲にはやってもやっても終わらないほどの仕事がある。どういうわけか体に力が湧いてくる。
「いやあ、こういう酒もいいもんですね!」
「そうだな。またやろうとも」
書類仕事が倍増する未来にはちょっぴり目隠しをして、ラウリは咽を潤したのだった。




