第17話 戦の旗を掲げんとすれば
「確かに預かりました。間違いなく届けることを約束します」
護衛団の団員から手紙の束を受け取ったマルコが、それを絹織物の布で包んでいく。その所作は丁寧で嫌味がなく、受け取ったものの重さへの敬意が伝わってくる。ヤルッコはただ頷くことだけをして見守った。
「領都への身柄の移送は3日後になります。何かありましたら外へ呼びかけてください」
返事はないが、声をかけられた男たちの視線は強い熱を帯びてマルコへと注がれている。それを些かも動じずに受け止めきる辺りがいかにもこの少年なのだろう、とヤルッコはこれにも頷く。腹の据わり方が尋常ではないのだ。長く戦場に生きてきた彼をして下っ腹に力を込めている状況である。
手足を繋がれて座す男たちは馬賊だ。先の戦いで捕らわれた者たちである。この天幕には三十余名が押し込められていて、内にも外にも護衛団の監視が立っている。そんな天幕が他にも幾つか設けられた。町の中には彼らを収容する適切な施設がなかったからだ。
最後に監視の団員に頷いてみせて、マルコは天幕を出ていく。ヤルッコはそれに追従しながらもふと振り返ってみた。目という目がそれ自体光を帯びるようにして、ただ一点、マルコの背を追っていた。外へと出る際に、ヤルッコは出入り口の布を長く開けておいた。少年の背は去らずにそこにあった。
空はのどかな色をしていて今日もまた暑い。熱は命の証のようにヤルッコには思える。これを発して世界を生きて、これが冷えきって人は死ぬのだ。
「……僕1人でも大丈夫ですよ?」
ヤルッコは知らず溜息を吐いたらしかった。包みを抱え覗き込むようにするマルコへ、顰め面でもって返答する。
「年寄り扱いするでないわ。誰だって嫌いな季節くらいあるじゃろ。儂、夏。それだけそれだけ」
そう捲くし立てたなら、小さくマルコの笑みが咲いた。更に顔を顰めてみせるヤルッコである。この少年の察しの良さは恐るべきものがあり、己のつまらない気使いなど通じるものではない。わかってはいたことだが。
「僕は……冬かな。動けなくなるから」
声の響きに何かしら遥かなものがあった。ヤルッコは応じない。彼はたくさんの人間を見てきたし、話もしてきたから、言葉が向かう先というのをわきまえている。今、マルコのそれは遠い。人は時空を超えて心を飛ばせる生き物だ。
「僕を残酷だと思いますか?」
碧眼には揺らぐものなどない。やはりヤルッコは顔を顰める。
「戦を働くもんに、そうでないもんがおるかよ」
「いますよ。例えば貴方です」
静かな声だった。責めるでも褒めるでもなく、ただ淡々と事実を指摘しているような響きだ。しかしその裏には仄かに滲むものがあるから、ヤルッコは下唇を突き出すようにして渋面を更に顰める。
「優しい人間は多く傷つきます。他人の痛みを引き受けてしまうからです。それで酔えるのならばまだいいのでしょうが、貴方は酒の力を借りてもそれができません」
事実だった。
馬賊との戦いは護衛団の勝利に終わり、ヤルッコはまた1つの戦場を生き残った。騎兵が乗り手を失った軍馬を集めている間に、歩兵には歩兵の仕事があった。死した敵にはその死を認め、重傷の敵には止めを刺し、そこそこの傷の敵には適宜対応して、軽傷の敵は縛り上げた。隠れてチロリと酒を舐めた。
その後、マルコへの徹夜の説得はいつの間にやら気恥ずかしい誓いの席となり、ヤルッコも自らの意思でそれを為した。少し寝て、翌日は死んだ団員を弔った。酒をガブリとやった。
戦とは死の生産だ。数知れずそこに生き、数知れない終わりを見てきたヤルッコである。慣れはする。目で見たものも耳で聞いたものもやがては有象無象の中に忘れていける。鼻で嗅いだものなどはそもそも覚えることもできやしない。それはヤルッコが味覚音痴であることに関係しているのかもしれない。
しかし、感触だけは駄目なのだ。
人を掴み、人を斬り、人を刺し、人を叩いた。たくさんをだ。それらの1つ1つが己の命を震わせて、魂に蓄積していくようにヤルッコには感じられた。最も深く響くのは熱だ。触れて暖かったものが冷えてしまう体験はやりきれない。確かにさっきまでは熱をもっていたのに、一度その熱が失われたならば、もはや決して戻ることはない。触れていた手だけが寒々しく残るのだ。
酒は身体を温める。そして心をも温めてくれる。この人生になくてはならない友だ。しかしその友との仲が深まるにつれて酒量は増え、老いた胃がその量に耐えられなくなってきた昨今、酔いきれない薄ら寒さがヤルッコにこびりつく。
「貴方は強い。それは間違いありません。古兵としてここに立つまでの間にどれほどの痛みを抱えてきたのか……どれもが誰かの痛みであるのに、それらをしっかりと悲しみ、悲しむことで温めてきた貴方は、まるで兵たちの母鳥のようだ」
せめて父鳥だろうが、と言えばよかったろうか。ヤルッコは喉まで出かかったそれを言えずに頬を赤くさせた。力んだのだ。
「そんな貴方だから……僕には必要なのです」
マルコの声に答えることもなく、ヤルッコは力みを強めた。
「僕は非情の道を行きます。しかもたくさんの人を引き連れていきますから、前にも後ろにも残酷ばかりが散らばることになります。たくさん恨まれ、たくさん恐れられるでしょう。そんな道の行く果ては想像するに難くありません」
それは自嘲でも自虐でもなく、矢筒の矢を数え上げるかのような口調だった。
「兵は僕と共に死地へと走りますが、決して僕の下に憩うことはありません。僕は死を踏みしめるからです。貴方にはそれを温めてほしい。できるだけ長く長く……もしも可能ならば……」
言葉が遠く遠くなっていき、ヤルッコには最後の方が聞き取れなかった。マルコの目は何年後の未来を見ているものか。しかし良くない単語を最後に口にした気がして、ヤルッコは大きく鼻を鳴らした。
「フン! 辛気臭いことを言いおってからに……若いもんには若いもんの役割ってもんがあるのを知らんようじゃな! 年寄りを邪魔者扱いするのも、馬鹿みたいにでっかくて明るい夢を語るのも仕事仕事!」
嫌だ嫌だ、という顔をして言ってやるヤルッコだ。
「そういえば、酒の美味さも知らんくせに酒の量を控えろとかぬかすのも仕事じゃったっけ……やれやれじゃい!」
プイと横を向くが、首を振るその僅かの間に、マルコに再びの笑みが咲いたことを見逃さなかった。顔が妙に熱くなっていることをヤルッコは感じていた。そしてそれを仕方ないと思う。こういう会話を素面でしてのけるのも若さだろうが、釣られた我が身もまた随分とこそばゆいではないか。
連れだって先へ歩いていく。やるべきことは多い。
先を歩くマルコの背は低い。鍛えてはいるようだが、肩幅も肉のつきようもまだまだだ。しかし凛として伸びた背筋と流れるような身のこなしとは俊敏さをよく現していて、もう2、3年もすれば頼もしい若武者へと成長するだろうと思われた。
この姿を見納めた後には、どんなマルコを目にすることになるのだろう?
ヤルッコは素直にそれが楽しみで、頬が綻びかけたが、すぐにそれを自制した。好々爺然として人目に映るなど堪忍できない彼である。解けぬ皺も多いその顔を体操よろしくウニウニと動かし、しっかりと顰めっ面へ固定した。
そして夜が訪れて。
ヤルッコは布の天井を見上げながら眠れずにいた。他の団員たちの鼾が聞こえている。虫の鳴き声も賑やかだ。天井がなければ星の明滅もまた繰り返されているだろう。
護衛団の面々は交代で町の寝床にありつけるが、ヤルッコやオイヴァは常に野営だ。万が一馬賊が逆襲してきた際には即座に指揮を執るためである。逆にアクセリは常に町の分所に詰めていて、それは政治向きの窓口になるためだが、少々と言わず役得だと認識されている。ダニエルとラウリは諸々の交渉のために領都へ向かっている。
眠れずに過ごす夜は心の凍えが意識されて敵わない。ヤルッコは酒を飲みたく思ったが、控えるよう促がされたばかりで杯を手に取ることも憚られた。完全な酒断ちなど思いもよらないが、せめて今夜くらいは老兵の意地を発揮してもよいように思うのだ。
だから、彼は代わりのもので酔うことにした。マルコである。
思い出すのは、団員を弔った翌日の出来事……マルコによる捕虜の選抜だ。206名全員を外に連れ出して座らせ、武装した団員たちでそれを囲った。選抜方法は誰も明かされていなかった。ただ、幹部も含めて誰も何も話さないようにと厳命されていた。
台の上に立って、マルコは名乗りもなく話し出したものである。
「今、貴方たちには何もない。貴方たちは逮捕された犯罪者であり、戦いに敗れた敗残者です。この後に待っているのは死刑か強制労働か人身売買か……まず人として生きる道は残されていません。どんな目的を胸に秘めていようとも、人の思い描いた夢は人が夢見るものです。その夢はもはや貴方たちのものではない。貴方たちには何もないのです」
言われた内容にも、言った人間の容姿年齢にも、捕虜たちは何の反感も疑問を感じていないようだった。ただ食い入るようにマルコを見つめ、聞き入っていた。ヤルッコらが休息と弔いとに当てた日をマルコは捕虜たちと共に過ごしていたから、きっとそれが影響したのだろう。そうとしか思えない。
「不思議なことはあるものです」と、しばしばそう言っていたのはラウリだ。ヤルッコよりもマルコを知る男の言葉だ。これもそんな不思議の1つなのだろうと感じた。
「そんな貴方たちに1つの道を与えましょう」
小さな手が捕虜たちに向けて伸ばされたが、それはまるで万を超える兵に軍令を発する者の姿だった。
「滅私の百人を選抜なさい。死の原野を駆けるための百人を。選抜されなかった者の末路は死体か、人の形をした道具か、どちらにしても人をやめることになりますが……選抜された者もまた人を捨てることになります。戦場に死をばら撒き、血をすすり肉をむさぼる狂いの刃こそが、その百人の化身すべき姿だからです。僕が仕立ててあげましょう」
そう言ったマルコの顔には、恐るべき碧眼が輝いていた。
「死を呼吸なさい、哀れ敗れて虜囚の辱めを受ける者たちよ。今の貴方たちには何もない。旗もなく戦場を駆けた貴方たちは惨めだ。いかに強くなろうとも、思いを1つにしようとも、事の始まりから暴力の沼に囚われてしまっていて、明日が見えていない」
示されていた手が翻り、夜風が草原をそよがせるようにして、黒髪をかき上げた。
「だから……ねぇ……僕が拾い上げてあげるよ」
浮かんだ微笑の何と凄まじいものであったか! 座る捕虜たちが、囲う団員たちが、その誰もが稲妻に打たれたかのようにビクリとしたのをヤルッコは見た。彼自身も戦慄を覚えていたが、初めてのことではないから平静を装えた。他の幹部たちも同じだったろう。
あれは領都の護衛団本部でのことだ。馬賊を分析した結論を説明し、最後に1つの予測を口にした時、マルコは同じような笑みを浮かべたのだ。切っ掛けは1人の男の名前だ。
サロモン。
現地徴用の義勇兵から身を立てて、万を超える軍を統率する将軍となった男だ。ヤルッコはその男と何度か戦場を共にしたことがある。極めて優秀な指揮官だったと記憶している。非情なまでに合理的な用兵はどこかしら恐ろしいものがあって、勇者の派手で英雄的な用兵とは好対照だった。
思い出が交錯して……ヤルッコは1つの不思議を体験した。
微笑みながら台の上で捕虜たちを誘うマルコの姿が、明確な記憶として見えていたそれが、どうしてかサロモンの姿として思い返されたのだ。魔人として火刑に処された男と、黒髪碧眼の10歳児とが、分かち難いもののように重なってしまって離れない。
「拾い上げてあげる。その沼の中から。立たせてあげるよ、武人の原に」
不思議が語り続ける。幼さの残る高い声で。大人の苦味に舌を浸した低い声で。
「旗も用意してあげるよ。僕らに相応しい戦の旗を。血よりも赤く、炎よりも煌びやかに、立ち塞がるすべてを焼き尽くして黒く殺してしまうような……そんな戦旗を持たせてあげる。掲げるのは君たちだ」
腕が伸ばされた。手の平を上にして指が開き、そしてそれが緩やかに曲がる。誘っているのだ。何かしら魔的な誘いが為されたのだ。将軍なのか、魔人なのか、大人なのか、少年なのか……何もかもが混然一体として定かでないが、その不可解さすらもが抗い難い魅力となっている魔性。
その不思議にヤルッコは酔った。だからその後に垣間見えたものも幻に違いない。
見たこともない旗を掲げて戦場を疾走する軍が在った。畏怖すべき軍だ。戦場に死という死を現出すること、まるで枯野に放たれた火炎の如し。その熱量をすらヤルッコは感じた。熱い。この軍の熱は尋常のものではない。大陸そのものを焼き払い、溶かし尽くしてしまうのかもしれない。
その軍の中心にいた騎士は……あれは……?
「むおっ!?」
声を発して、ヤルッコは天幕の中の世界に身を起こした。周囲は音に満ちている。団員たちは誰もが疲れているし、夏の虫たちは夜っぴて歌い続けても飽かない。眠っていた時間は僅かだったようだ。
ギシリと寝床で身動ぎし、ヤルッコは己の手がじんわりと汗ばんでいることに気付いた。凍えは感じられない。上手く酔えた時よりも強い熱が篭っていた。節々の痛みも和らいでいる。若返ったような気分だった。
「……フン、それでも老兵じゃよ、儂」
呟いて、ヤルッコは冷めぬ内にと眠りを求めることにした。幻の続きは来ない。それでいいとヤルッコは思う。深酒はよろしくないのと同じことだ。何事もほどほどがいいのである。長生きの秘訣があるとしたらそれだろう。
(長生きか……若いもんの一等大事な仕事はな、命の順番を守ることじゃ。儂にお前の死など見せんでくれよな、マルコ……)
眠りはすぐに訪れて、ヤルッコはスヤスヤと寝息を立て始めた。
起きている時には見られない笑みが、その厳しい顔に浮かんでいた。




