北の地に兵站を
アスリア王国北東ヘルレヴィ伯爵領を治めるところのマティアス・ヘルレヴィは、官吏の誰もが寝静まったであろう刻限になってもなお、揺らがぬ信念でもって政務に取り組んでいた。
背筋を伸ばして筆記する。湯を飲み軽食を口にし、灯明の油を注ぎ足したばかりである。今夜の内にあとひと籠分の書類を片付けてしまわなければならない。己に課した今日一日分の仕事を完遂せずしてどうして寝ることなどできようか。
「年貢の減免願い? 義務を果たさぬ者をどうして優遇せねばならん。馬鹿なことを。結果が出る前にならばいざ知らず、失敗してからごねるなど……いい加減にも程があるわ!」
独り言は日常だ。村の名を別な一枚に記し、書状自体は同種のものをまとめた籠へと放った。
「領軍の増員? 軍というものがいかに維持費のかかるものか理解しておらん。馬鹿めが。我が領は前線を支える要だぞ! それが平時に前線並みの兵力など保持してどうするのだ! 阿呆が!」
上申してきた者を叱りつけるつもりで却下の意思を書きつける。筆圧をやや強めてである。
「わかっておらん……何もわかっておらん! 忌々しい!」
憤懣を舌に乗せて吐き捨てる。聞く者がいようがいまいが関係ない。腹に溜めこみ手が震えるなどしては書き損じる。仕事が減らず、より忌々しいことになる。
「まったく、どいつもこいつも……定められた仕事を定められた分だけこなせばいいものを! 半人前も二人前も、どちらも一人前でないという意味では同じだ! 馬鹿者どもめ!」
唾を飛ばした上で睨みつける一枚がある。それはとある組織にまつわる報告書である。
組織の名はハッキネン護衛団。偽りの名声を持つ家名を看板とし、薄汚れた傭兵たちを束ねて暴力を保有する私兵集団である。
発足から一年足らずであるにもかかわらず、領内には護衛団の存在を知らぬ者とていない。多数の商家と結託することで分不相応な存在感を発揮しており、何を勘違いしたものか街道の守護者のような顔をして領軍に対抗している。しかも市井はそれを考えなしに歓迎しているのだから堪らない。
「ダニエル・ハッキネンめ……!!」
口にすれば呪わしく響くその名は、私兵集団を立ち上げた王国貴族のものである。その者は爵位こそ男爵ではあるものの領地も役職も持たない。しかし王国においては特別な名声を持つ家の当主だ。
ハッキネン“子爵”とその長子……先の戦争において、ハッキネン親子は勇者のために命を投げ打ち壮絶な戦死を遂げたという。熱狂的な賛美を受ける勇者伝説の中でも特に注目される場面の一つだ。
それは教会によって創作された偽りの物語だ。国王は無論のこと、マティアスを含む王国の四侯六伯はその真実を知る。実際は恥ずべき逃亡と戦意喪失の末に惨めな死を迎えただけであると。
死んだ二人とマティアスは面識があった。爵位を持つ貴族であればそれが当然である。そしてその印象は悪いものではなかった。
親子揃って何事につけ消極的で目立たなかったものの、それは王権に忠実で慎ましやかな人柄であったためであり、軍を率いて前線に行くにしろ後方で補給を司るにしろ誠実な態度で職務を果たしていた。声の大きな者たちの陰に回され割りを食うことも多かったようだが、見ているものは見ている。
つまりは信頼するに足る者たちであったということだ。それだけに醜態を知って慨嘆したものだ。命の瀬戸際になって現れたものこそが本音であり本質でもあるのかと。
戦場に出なかったことでもって生き残り、家督を継いだ次男がダニエル・ハッキネンである。
父と兄との罪に恐懼して爵位を返上したまではよかった。王はその殊勝に免じて家を取り潰さず男爵位を授けた。王国の威信を護るためであり、教会へ配慮する意味合いもあってのことだが、そこには確かに王の温情がこめられていた。
ところが、どうだ。
結果として無役無領地となったダニエル・ハッキネンは、それでも王権守護の責務を背負う男爵には違いなかろうに、屋敷の奥に引き籠って世間へと背を向けたのである。許しがたい無気力無責任であった。
自主謹慎を促されたとはいえ、新たな役職に就くことを禁じられたわけではなく、財産を没収されてもいないのだ。国のために役立とうと思い立ったならばいかようにも方法はあろう。マティアスは己に何某かの嘆願が届くことも想定していたのだ。そしてその際にはしっかりと中央へ話を通す腹積もりであった。
ハッキネンの血筋とはやはりその程度のものでしかないということか……マティアスが侮蔑の念を抱き始めた頃、一つの機会が訪れた。嘆願は嘆願でも商家からの嘆願書である。馬賊対策にまつわる要求だ。
毒には毒を当てよ、とは誰の言葉であったか。
マティアスは一つの身勝手に対してもう一つの身勝手を宛がうことをもって事態の解決を図った。ダニエル・ハッキネンに嘆願書を押し付けたのである。領政の支出を増やすことなく嘆願を処理する名案だ。上手くやろうが下手をうとうが、いずれにせよ疎ましき男爵家を領政の役に立てさせられるというものだ。
それが、どうしてこんなことになったのか。
なるほど、ハッキネン護衛団は馬賊対策のための組織として発足した。確かにマティアスはそれを非公式ながら後押ししたともいえるだろう。しかし予想していたよりも規模が大きい……大きくなっていく。まるで繁殖力の旺盛な植物のように領内各所へ蔓延っていく。しかもそれを禁じることができない。種を蒔いたのは己であるとの自覚があるのだから。
「まあ、そう目くじらをたてなくともよいでしょう。無頼の輩をまとめて働かせていると思えば」
先日、そんなことを言っていたのはアクセリ・アーネルだ。
様子を探らせるべく派遣した領軍中尉で、態度の端々に鼻持ちならない不誠実さが感じられるものの、どんな任務であれ否やもなく遂行し達成する器用な軍人ではある。
「領内の物流が滞っては兵站に悪影響がありますからな。軍需には領軍を、民需には護衛団をという構図は中々の妙手。すぐには無理でも、いずれは馬賊も炙り出せましょう。傭兵が力を持つことへの閣下の懸念も理解しておりますが、何、そこら辺りの心配りはこの私にお任せあれば間違いもないというものです」
その口調はやはりマティアスの考える模範的な軍人のそれと比べると不愉快さがつきまとったが、不快感が我慢の限界を超えないところもまたこの男の小憎らしさである。
手綱は握っているし、監視も怠っていない……そう思えばこそ、マティアスはハッキネン護衛団なる私兵集団を辛うじて許容している。領内の経済にとって有益であることも認めないではないが、領政に組み込まれていない暴力が日に日に規模を増していくなど楽しいわけがない。
「心底から反省し王の威光に服するのならばともかく、不貞腐れたようにしていた分際で……!」
腹立たしくも無視できない報告書に目を通し、それを専用の籠にしまってもなお罵る。
「……こうも働けるのならば、どうしてまず公の立場を得ようとせんのだ! 貴き者が正道を軽んじて秩序が成り立つものか! 馬鹿にしおって!!」
大きに息巻いて、そしてマティアスは嘆息した。勤務中は一切触れることのない背もたれへと身を任せ、筆持つ手の火照りをさすり強張りを解しながら、天井の中央をじっと見つめる。
領の内も外も、国の端も中央も、どこもかしこも変則が常態となっていやしないだろうか。国の基が歪んでいやしないだろうか。漠然とした不安でしかないのかもしれないが……マティアスの胸には年を経るごとに焦燥感が強まっていくばかりだ。
ではどうする? どのようにして落ち着かない胸の内を鎮める?
働くよりない。己の責務をしっかりと果たしていくことの他に何ができるというのか。王国を十に分割した内の一つを任された身である。寝る間も惜しんで働き続けることが正義だ。疑問の余地もない。
だんだんと無理のきかなくなってきた身を寝台に横たえ、朝を迎えた。効率的な身支度でもって働ける己になる。そして領内の誰よりも早く筆を手に取り、領内の誰よりも遅く筆を置くべし。それが領内で最も地位の高い権力者のあるべき姿であるとマティアスは信じている。
「流行りの薬に毒が混入している? ああ、白透練か。馬鹿馬鹿しい。こんな浅はかな根拠では誹謗中傷でしかないわ。しかも民に不安を与える悪質さがある。この訴えの出所を調査し、法度の通りに対処せよ!」
報告を受け、判断し、命令を下す。日中の仕事は独りごちる暇もない。
「何、また軍事物資の追加輸送要求だと? それは損失補填か? 違うのならば従来通りに対処せよ! サルマント伯爵への書状ならば、大飯喰らいの兵を解雇せよとでも付け加えておけ! あの戦争馬鹿め! そろそろ勘弁ならんわ!」
怒鳴り散らして乾いた喉を白湯で潤す。その間にも目は文字を追い頭は情報を整理している。本来ならば領主たるマティアスにまで届かない類の案件にも自ら対処する。窮屈で非効率的だとの誹りも聞こえてくるが、知ったことではない。それがヘルレヴィ伯爵領流である。
激務であるが故に、聞きたくもない報告を聞き、考えたくないことの判断を強いられもする。今日もまたそんな案件が一つ舞い込んできて、マティアスは眉根の皺を深めるのだ。
「……アーネル中尉、もう一度報告せよ。今、卿は何と言った?」
こちらの不機嫌を意にも介さず、飄々とした風のその男は『ではもう一度』などと前置いて話し出す。
「男爵閣下は単身で辺境の村へと向かいました。護衛団の仕事とは無関係の、私的な訪問のようです」
「それはつまり……あれか。また男爵の悪癖が出たということなのか。野の花摘みなどという」
「ああ、いえ、それはどうでしょうなぁ。私の知る限り、男爵はその手の遊びをしなくなったどころか、まるで聖職者のような清い日々を送っておりますから。酒の相手も専ら男ばかりで」
「……趣味を変えたか?」
「……閣下からそのような言葉を聞くとは思いもよりませんでしたな。ご経験がおありで?」
「馬鹿を申せ! 妻も子もある私に向かって!」
「あるいはご趣味を変えられたのかと」
「貴様……っ!!」
マティアスは怒鳴りかけたが、寸でのところでそれを堪えた。目の前の軍人は震えている。笑いの発作を堪えているのだ。この男にはこれがある。こちらの反応を引き出して楽しむという悪癖が!
「……もういい! とにかく、今後も厳しく監視を続けるのだ! 男爵は無論だが、その他の者たちについても素行を調査し報告せよ!」
「は、承知仕りました」
笑顔で礼をなし肩を震わせながら退出していくその軍人を、マティアスは睨みつけつつ見送った。有能ではあるがやはり腹立たしい男だ。いや、有能であればこそ腹立たしいというべきか。
さても政治とは取り扱うところ広範にして内容は煩雑であり、権力者とは王権に基づく権威でもってそれらに果敢に対処していくことが求められる。訳のわからない案件にこだわる暇もなければ、態度の悪い配下にいちいち憤慨している暇もまたない。結果が全てだ。マティアスは結果を出し続けなければならない。
「ふむ……馬賊の問題こそあれ、全体で見ればこのところの結果は悪くない。まずまずだ。次第次第に政策の成果が実りつつあるようだな」
数字の幾つかに目をとめ、マティアスは呟いた。息を吐く。肩の力が少し抜けたように思う。
「次! いっかな価格の動かぬ塩相場について報告せよ!」
声を張り上げる。
山積みの上に更なる山が重なっていく、厄介ながらもやり応えのある仕事を片付けていくそのために。




