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火刑戦旗を掲げよ!  作者: かすがまる
第7幕

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第131話 命啜らるる魔の森の最底に

 草叢の混然を踏み分けて強暴に。


 灌木の雑然を跳び越えて猛烈に。


 喬木の傲然を選び避けて迅速に。


 奔る。ベルトランは奔る。大小二振りの剣を腰に帯び、影色の外套を翻して先を急ぐ。


 塵夢森である。


 ここでは大気すらも障害だ。生温く、重い。薄闇に沈む森はまるで汚れた水底のようだ。植生の鬱蒼がどんよりと熱を食み水気を吐き出しているからだろうか。あるいは濃密なる生命の気配がねっとりとした質量感をすら伴って漂っているものか。それともあるいは呪詛の一種ということもありうる。


 魔女の住まう呪われた大森林である。何があろうとも不思議はない。


 悪意に満ちているのだ、この森は。内に妖気を孕んでいるのだ。まだ場所によっては開けた地も透かし見ることのできる外縁部であるというのに、既にして動植物に怪異が見受けられる。魔境と呼ばれる所以だ。危険で冒涜的な場所だ。命を蝕む呪いが形を成した世界だ。


 やはり、おぞましい。されど、退かぬ。もはや、駆け抜けるのみ。


 急がねばならない。


 ベルトランは知る。時代が今、一つの終わりを迎えるべくその速度をいや増しに増していることを。結実するものがある一方で振り落とされ死滅していくものもまたあることを。


 人間が篩にかけられているのだ。社会が焼き清められているのだ。世界が創造し直されているのだ。


 誰に?


 無論のこと、彼によってである。


 彼は勇者を討って眠りについた。そのことが激動の世界を更に加速させた。かつてない戦争を招来した。教会とアスリア王国とは明確に敵対したのだ。これは言わば旧世界と新世界との対決である。


 だから、来る。


 彼の認めざる者共が、彼が居らぬからと大挙して、彼の創りし風景へと襲い来る。


 初め、南より発して王都へと迫る軍は三つあった。エテラマキ領西部より旗騎士ニナウルスラ率いる聖杯騎士団がおよそ五千、同領東部より旗騎士トピアス率いる聖杯騎士団およびエテラマキ領軍の混成軍がおよそ一万、テルヴァハル領よりマルヤランタ侯アドルフ率いる護国連盟軍およそ八千である。


 カリサルミ領を守備していたサルマント領軍は一部後退し、一部敗走した。それはまだいい。アハマニエミ領軍は護国連盟軍の渡河を防ぐどころか、夜襲を受けて大きな被害を出した。それでもまだ最悪ではない。


 三つの戦場の中央において最悪は生じた。弓張原にてはユリハルシラ侯クラウスが旗騎士トピアス率いる混成軍に敗れ、残存兵をもって遅滞戦術を採るという事態になったが……その最中に凶事が起こった。ユリハルシラ侯クラウス、死す。護国の御大将とまで呼ばれた王国筆頭貴族が暗殺されたのである。


 その死は隠された。影響を思えば当然だ。しかし別口にも危機が生じた。王都における反乱分子の武装蜂起と、王城への襲撃である。新たに築きつつあったものの中枢が狙われた形だ。


 これまでの勝利と優勢とが逆転するかのような敗北と劣勢……それは強き変革に対する強き反動だ。世界とは急変を嫌い極端を厭うようだ。細剣のしなりが逆のしなりへと振れに振れてやがては均衡の静止を迎えるが如く、急激なるものには逆の側の急激が用意される。知られざる理だ。


 帝国軍による空前の速度をもってしての侵攻は、そら、未曾有の大火計で打ち消された。


 龍将軍という特別な英雄の登場は、そら、直系王族よりの特別な勇者を聖定させた。


 そして今、熱く新世界を迎えんとする王国は、冷たい旧世界からの攻勢に晒されたというわけだ。


 しかし……ああ……それすらも彼のもたらしたものなのだ。彼は世界を熟知した上で行動している。巨大にとっては些事たる事象のことは知らず、時代の潮流とでも言うべき大なる流れは彼の想定の内側にある。


 ベルトランは確信している。これは試練であると。彼という火炎の洗礼であると。速度に削がれ熱量に焼かれて、世界は禊を体験しているのだと。彼に対しては敵対するも味方するも本質的な違いはなく、どちらにしろ試されるのだと。


 それが当然なのだ。


 彼は救世主などではないのだから。


 言うなれば審判者だ。そして先導者だ。または開拓者だ。あるいは断罪者だ。しかも復讐者だ。そして、何にもまして……彼こそは支配者なのだ。


 誰一人として、彼の摩訶不思議な眼光から逃れることなどできはしない。この時代を生きるということは彼という巨大を仰ぎ見ることと同義であり、それは同時に彼によって見られ続けることを意味するのだ。


 だから、奔る。


 彼の認めたる者共が、彼が居らぬでもと勇躍して、彼の望みし風景へと猛り奔る。


 まずはダニエル・ハッキネンが彼の眠りを真っ先に引き受けて北地の動揺を制御してみせた。勇者撃滅の地を封鎖し、疑惑のマルヤランタ侯爵領を牽制し、彼の御身を速やかにチトガ大町へと送ったのだ。世をひねて奇妙な色事に手を染めていた男の姿は既になく、不動の精神を備えた為政者の姿がそこにはあった。


 次いでラウリが智謀をもって後の反攻のための準備を整えた。東龍河の水上を自在に動く補給船団を編制したのである。同時にマルヤランタ領内の商家と結んで情報戦を展開し、彼と火撃の騎兵団とを諸共に隠してものけた。背負える荷のみで商っていた男は、今や国家の命運をも担うばかりと相成ったのである。


 そして南よりの三軍に王国は押し込まれて……王城襲撃の夜にも立ち上がった者が一人。


 ヤルッコだ。老いて弱り前線から退いた古兵は、しかし彼より最も重要な護りを任されていたのだ。そしてその任務を全うする。隠し通路より黒色の頭巾を揃えて侵入してきた凶手を一人残らず討ち果たしたのだ。それはベルトランをして瞠目させたほどの働きである。


 埃舞う地下道で無残に塗れても、ヤルッコの死に顔は笑んでいたという。気難しい不平屋で通してきた老人は笑顔で逝ったのだ。


 その最期を看取ったオイヴァ・オタラにしてもその戦いぶりは凄まじい。内通貴族に手引きされて王城へ入った襲撃兵は二個小隊規模であった。百人前後からの兵力だ。それを僅か十名ほどの兵を率いるのみで鎮圧してのけた。過去には酒場で昼間から管を巻いていたこともある大男だが、戦乱の中で稀有の武才を開花させたようだ。


 かくして流れは変わった。攻められ、押し込まれつつあった勢いを止めたのだ。そして流れは逆転する。反撃が始まる。それは一挙にして徹底的な反転攻勢であった。


 アクセリ・アーネルがその万能の才を遺憾なく発揮した。王都内の反乱分子を一挙に捕縛したばかりか、近衛兵団五千をもって東龍河東岸より迫る護国連盟軍八千を鎧袖一触し、何とその中から志願兵を募りさえして大河を西へと渡った。遊撃戦を展開するユリハルシラ領軍を援け聖杯騎士団と戦うためだ。大喝采を浴びたことは想像に難くない。辺境で不遇をかこっていた昔とは隔絶した働きである。


 そして、王都王城において一つの意思が示された。


 教会の神聖を象徴する古き旗が焼かれ、王国の新生を誇示するが如くに新しき旗が掲げられたのだ。それは火刑だ。女王手ずからの火刑をもってする宣戦布告だ。


 国軍は解体され、王国防衛軍として再組織された。各領軍や中小の騎士団、義勇兵もそれへと合流した。十万にまでは届かずとも大軍だ。王と貴族とが兵権を合わせる非常の軍団だ。


 国家の総意かつ総力にして、人間の尊厳を声も高らかに謳う戦士たちの疾走……まるで建国のための軍勢ではないか。


 さしもの聖杯騎士団も事の重大さに慄いたかに見えた。ユリハルシラ領の東西に分かれていた二軍は合流し、カリサルミ領にまで後退したのだから。それだけで歴史的な出来事であり衝撃的な事件だ。神の旗を掲げる軍が目的を果たさずして退いたのである。


 それをまたある種の反動と見ることもできる。大いに北上したが故の南下であると。


 しかし、ベルトランは知る。その後退を判断させたもう一つの理由を。


 その理由こそが聖杯騎士団を躊躇わせ、聖杯島よりの増援を決定させたのだということを。


 返す返すも時代を推し進める奔流の如きものは彼の支配するところであり、誰も彼もがその激しさに巻き込まれ、何人もその烈しさに心動かさずにはいられない。聖杯島の高き所で澄ましているだろう者とて例外ではないのだ。


 ヒンと鋭く風を突く音の一つ。


 身を伏せて回避した。


 細い短矢だ。しかし一槍に勝る殺傷力があろう。あれは毒矢だからだ。かすり傷でも負ったのならば血が壊される。四肢ならば腐り落ち、腹に受けたならば悶死すること請け合いだ。既に二人やられている。


 四ツ目鎖蛇の致死毒……紫雲海に浮かぶ島で特別に飼育される蛇の毒腺から分泌される毒物だ。それを所持する敵と、それを躊躇なく使用される状況で戦っている。


 再び走り出す。飛来音。身を捻るのみで避け得た。射手は一人で場所も知れた。加速する。


 左手で鞘を握っている。その人差し指を鍔に絡めている。その一方で親指は鍔を押し出すべくたわんでいる。間合いを見極める。蔦草の繁茂する辺りに敵を視認している。この場にあっては青色の頭巾など目印のようなものだ。さりとてそれを外さない事情をもベルトランは承知している。


 見えた。華奢な体躯。扱える得物の種類も知れる。一気に踏み込んだ。白刃を森に晒した。無呼吸で一薙ぎ、短剣ごと肘から先を斬り飛ばした。目を見開いた顔。若い女。ならば角度はこんなものであろうと、返す刀でもう一薙ぎ。細い首を切断した。


 たちまちに広がる血臭がある。それを身にまとうわけにはいかない。確認は束の間、刃を拭った布きれもその場に捨てた。そしてすぐにも走り出す。頭上高くに物音。地の下に蠢く気配。それは……それらは死体の方へと向かうに違いない。


 それが道理だ。ここは魔の森なのだから。

 

 急ぐ。倒木を越える際には跳ねあがるようにして襲い掛かって来た大百足を手刀で断ち切った。吹き飛ぶより先に断ち切れてしまうほどの重みがある毒虫ということだ。手に残る感触も硬質である。


 それも道理だ。返す返すも、ここは魔の森なのだから。


 森の外では戦争が激化していて、今こうしている間にも王国の軍勢と聖杯騎士団とが剣槍を交えて世界の行く末を巡り相争っていようとも、そんなことなどは関係なしに魔物が跳梁跋扈している。森全体が妖しく拍動するかのようにして異形異様の魔界を世に表している。


 人間? ここにおいては皆等しく比較的弱き側の肉である。


 戦争? ここにおいては主義主張などは死なずにいる者共の夢幻に過ぎない。


 感覚を研ぎ澄まし矢の如く疾走しつつ、ベルトランはつくづくと実感する。再びに立ち入った魔境は相も変わらず呪わしく汚らわしい。戦場とは似て非なる生死の濃密には息が詰まる。ここを走ることを思えば国という枠組みの中で暗躍することなどはいかにも清潔だ。卑怯も残忍も凄惨も、魔境における生の欲深さや死の露骨さに比べれば礼儀正しくすら感じられるからだ。


 ベルトランは思い至っているのだ。


 この世界は病んでいる、と。


 健常の世界を毒する魔の領域が存在している。王国の南、塵夢森。王国の北東、死灰砂漠。帝国の北西から王国の北西にかけて、幻魔森。それらは内に人の敵わぬ化け物を住まわせつつ拡大している。大変な脅威である。


 さりとて逃れる術もない。紫雲海の一部こそ渡れるものの、大なる海へと船出する手段などはなく、北に連なる天境山脈を越えたところで生けるものなき大氷原があるばかりだ。しかもそこからは瘴気の風が吹きつけてきて大陸の北の半分を侵している。


 恐るべきこの状況に対して、人間は何をしている? 怯えて膝を抱えているか? それとも歯噛みして抗っているか? 緩慢ながら絶対的に滅びつつある世界にあって、人間社会はどうしている?


 何もしていない。


 何もしていないのだ。


 何もかもを知らないふりをして……あるいは本当に知らないで、知ろうともしないで、知ったとしても忘れ呆けて、気付きもしないで、気付いたとしても曖昧に流して……そして、えへらえへらと笑顔さえ浮かべるのだ。それがこの世界の人間の一般的な在り様だ。


 まったくもって重篤なことである。


 過去から学ぶところがない。未来を図るところもない。慣習に流されるばかりでまるで自立していない。放っておけば今と同じ明日が来るものと確信していて疑うこともない。予断と油断の常日頃、誤認と曲解を常識として、怠惰と愚鈍の常態を晒していて微塵も恥じるところがない。


 それが正しい道理とされているからだ。それに染まらぬ者は忌まれるからだ。


 教会の仕事の成果である。


 神聖なる教えの賜物である。


 虚ろながらも甘く優しい文言でもって理性を蕩けさせ、人間を阿呆にしている。貴重な霊薬を使うまでもない。赤子が鳴くようにして無意味な祈りを唱えるよう教え、揺り籠に憩うようにして滅亡への時を過ごすよう導けばいい。子守唄を歌うのだ。優しく揺するのだ。そうやって人間社会を教導し監督するのだ。


 つまり教会の仕事とは安楽なる死を演出することに他ならない。いずれ避け難く滅び去るのならば、無知による安逸の中にまどろんでいればいいという発想である。理性を弱めることも道理だ。


 ベルトランは教会の理を解する。


 なぜならば、彼はかつて教会の側の人間であった。


 母親はエベリア人貴族の娘で、父親は流しの吟遊詩人だ。産まれた場所は娼館で、育った場所は孤児院だ。経営者は教会である。物心つく前から神の家で養育され、神に敬虔たるべく学び、神の敵を討つべく鍛えられた。聖職者への道も開かれていたが、武の才により教会の暗器たる道へと進むこととなった。


 頭を包む緑巾はその証である。


 教会の陰の兵力、“刃の団”にて一人前の戦力と認められた際に授与されたものだ。


「なるほど緑巾だ。しかもお前か」


 その声が聞こえるや否や、ベルトランは脚力の限りを尽くして横へと跳んだ。天地の逆転する高速の視界の中でも最速をもって抜剣する。土と草とに汚れながら転がる。膝立ちに止まる。両の肘が触れ合うほどに身を縮め、剣に身を隠すが如くに構えて……目と耳とをこれ以上なく働かせた。


「過敏な反応だ。己の死でも錯覚したか?」


 上だ。


 ベルトランは声の位置を確信するも確認することなしに再び跳んだ。身を投げ出すような低い跳躍だ。腕の力で無理矢理に身をひねって視界を確保する。大木の枝葉の内か。違う。既に降りた音がした。ささくれ立つような茶褐色の円柱の陰にいる。


「教会の宝を盗み、身を隠したまでは見事。しかし光輝とは自ずから在り所を知らせるものだ。そして闇を払う。歪みを暴く。誤りを正す。その正しさをもってして」


 やはり、大木の幹を挟んで裏側だ。ベルトランは剣の握りを確かめつつ慎重に身を起こした。いつでも跳べるよう重心は落としたままだ。靴の裏で土を擦るようにして移動する。剣の切っ先は敵のいるだろう方向から絶対に外さない。


「火撃を野に走らせて攪乱したつもりなのだろうが……それは悪足掻きだったな。盗人の必死などは所詮その程度ということだ。憐れみを覚える」


 一人だ。鈍色の外套の端が見えた。背の高い男が木に背を預けて佇んでいる。


「“魔眼”が指揮していたようだが、それも悪手だ。あれならば私の位置も知れたろうに」


 教訓を垂れるような口調にも、声音にも、どちらにもベルトランは聞き覚えがある。


 そして見た目にも見覚えがあるのだ。


 腰から伸びる黒革の柄、その白銀の柄頭。外套の下には暗色の服。そこから覗く浅黒の首筋。頭には青灰色の頭巾。そこから零れる銀色の髪。ベルトランへと向けられている瞳の色は、血のような赤色。


「どうした? 怖くて口もきけないのか? もういい歳になったろうに」

「……貴様が直々にとは」

「団長と呼べ。その緑巾を外さずにいるのならば」  


 正面から向き合う。ただのそれだけで警戒感が増す。


 抗老長寿の少数民族に出自を持つ男だから、見た目こそ若者のようだが、実際の年齢は知れたものではない。少なくともベルトランよりは年上だ。五十代、あるいは六十代にもなるのかもしれない。立ち居振る舞いからも年の頃を察せない。卓越の武芸者の静寂があるばかりだ。


 この男こそは刃の団の団長である。


 教会の陰の戦力の頂点に立つ男である。


 強者だ。音もなく触れるでもなく、それでいて感じられる風圧の如き力がある。剣風あるいは剣圧とでも言うべきものか。ベルトランは暗器や格闘といった選択肢を捨てて一剣に意識を集中している。たまさかにも奇策で翻弄できる相手ではない。気を散らせば即座の死が見舞われるだろう。


「ほう……よくぞ練ったものだ。気が触れても剣の申し子か」

「……抜け」

「お願いしますと言え。再び稽古をつけてもらいたいのならば」

 

 青灰色の頭巾の位置が下がった。鈍色の外套の下で体勢が傾いた。来る。いや来た。十数歩はあった間合いが一息に侵略された。その速さを思うより先に剣は動いて数合を済ませていた。気付けば鍔競っている。目の前に血色の双眸がある。


 敵においては抜く手も見せぬ不可視の早業であった。


 対するベルトランは無念無想の剣をもって応じたのである。


「見事だ。それ故に許す。団に戻れ。駒が不足している」

「笑止……千万」

「ならば笑ってみせろ。表情に悲壮感があるぞ?」


 どちらの鍔打ちが拮抗を崩したものか、互いに両の拳を眼前にして必殺の刃を浮遊させたその刹那、十を超える数の陽動動作が大小様々に行き交って……ベルトランは右の手の指を三本失った。親指、人差し指、中指だ。それぞれに先の半分ほどを刈られたのだ。離れ際の攻防の結末である。


「剣を捨て、指を拾え。団に戻れば霊薬で繋いでやる」


 そう提案する男の構えは片手下段。これ見よがしに刀身の鋭さと長さとを示している。軽い剣ではない。それを細やかに高速に操り、切っ先で指を狙う技量の高さを思う。己の技量と比較する。


 そして、ベルトランは跳んだ。


 刺突だ。


 最小の動作で最短に近い距離を最速に侵す。狙うは眉間だ。剣を点に見せる角度だ。会話を求める隙をば距離感を狂わせて衝くのだ。殺すために。この男を殺すために。


 届かない。下がられたか。逃すものかと腕を伸ばす。血を零す右の手を離して左手のみで剣を操作する。身をひねって左腕を伸ばす。左片手突きだ。届く。これは届く。致命の一撃となる。


 打ち払われた。


 洗練も何もない、横合いからの無造作な剣捌きだ。


 即座に重心を工夫した。地に膝をつくようにして勢いを殺し、剣を右手の側に戻しつつも返す刀の含みを持たせて視線と肩とで牽制した。指が健在であれば暗器を飛ばしたかもしれない。しかし右の手に必要な指はなく、そもそもベルトランは剣技にのみ集中している。


 するりと滑り来る閃きがあった。白刃だ。頭。いや、顔か。違う、咽だ。首だ。硬く鋭利な光が首の血管を薙ごうとしている。見える。ベルトランはその刀身に己が顔をすら見た。


「ほう……凌いだか。器用なことだ」


 今一度開いた間合いに立ち上がり、ベルトランは血臭を嗅いでいる。顎だ。深く裂かれて出血している。咄嗟に口を開いて顎を下げた結果だ。首を断ちにきた斬撃であれば意味もなかったろうが。


「やはり殺すには惜しい。戻れ。既にして盗人の企みは破れているのだ。目を覚ますには頃合いであろう」


 剣を鞘に納めさえして、その男は……少年の日のベルトランにとっては剣の師である以上に兄でも、あるいは父ですらもあった男は語る。語り掛けてくる。


「宝も、あの男も、もはや総大司教猊下の御手の内にある。光は光と合一し、闇は音もなく砕かれる。それが世界の真理なのだ。魔女の住処にまで届いていたところで同じこと。古き闇が遂に終わるだけのことだ。お前とてわからぬでもあるまいに」

「……言葉で時を稼ぐのか」

「強がるな。お前は拠り所なしに生きていける男ではない。敬虔なるベルトランよ」


 ベルトランは血塗れの顎に左手を添えた。痛みと引き攣りにより笑おうにも笑えなかった。外套を手繰り寄せて少し拭く。血塗れの右手で剣を鞘に納めた。指の不足で少々手間取った。止血はしない。


「その通りだ。どうして寸時でも神を崇めることなしに生きられよう。俺は敬虔な男なのでな」


 声を出して笑った。笑い声の度に血が散った。散った傍から血が湧き出でる。それは咽にも胸にも伝っていくから、いよいよもって鉄の錆びたような臭いが強くなる。


「聖なる信仰の道に立ち返るか、ベルトランよ。歓迎するぞ」

「それには及ばん。もとより神の下僕として生きている」


 答えつつ左手を腰にやった。


「ただし……天地二神の如き惰弱の神々になどは用もなし」

 

 小剣を逆手に抜いた。手首をひねってそれを投じる。命中を待たずして走る。ベルトランは走る。鞘に納めたままの長剣に両の手を添えている。抜き打ちの構えである。必殺を期しての疾走だ。


「愚かな」


 小剣は当たらなかった。わけもなく回避された。身を屈めて避けた銀髪赤眼の男は、その姿勢を僅かに整えてベルトランを待ち構えた。やはり抜き打つつもりだ。


 互いに相手を左に見ての接近となる。剣の間合いは死の間合い……速さ比べだ。


 ベルトランは駆けつつも左へ半身をひねっており、右肩を前にしている。そうやって溜めを作り一気に剣を抜く剣技がある。あちらは教えた側でこちらは教わった側だ。姿勢は鏡に映したかのようだ。頭巾と外套という装いも似る。必殺の信念もまた同じだろう。


 しかし、違う。


 抜き打つための手……その指の数ばかりではない。何かもが異なっている。


 人間とはそれぞれに違ってしか在れないからだ。


 心を重ね身を重ねたところでどうにもならない。そこには善も悪もありはしない。様々な幻想が互いに共通のものを見出させようとして生みだされてはいるものの、それはどこまでいっても幻でしかなくて、見たいように見るよりない限られた世界の中には、実のところ己以外の何者も存在しないのだ。


 そう考えるベルトランだから、敬虔になる。


 孤独に耐えられないからだ。穏やかで平和な世界ならばいざ知らず、ここは緩やかに死につつある呪われた世界である。無知蒙昧に生きるのならばよし、一度それと気付いてしまったならば堪らない。人知を超えた存在に救いを求めることは自然なことだ。


 神よ、救い給え。我を導き給え。


 しかし天の女神も地の男神もご免こうむる。どんなにか教会が人間を組織立てて二神を崇め奉ろうとも、ベルトランはそこに救いを見出せなかった。理由は単純にして簡潔である。


 二神は既にして敗北しているからだ。


 それ故にこそ世界は死んでいく。教会は死の運命を受け容れて、死に仕えるが如くに教義を説いている。


 そしてベルトランは悟ったのだ。真なる神聖は天の女神にも地の男神にもないと。それらは二位であり三位なのだ。では一位とは何か。筆頭とは何か。この世界で最も尊い神とは何を司る者か。


 死だ。


 死しかあるまい。


 この世界は死の神に統べられている。望んでその御手に身命を捧げている。生きることをもって生物であるのならばそれは病だが、それはただし神聖なる病であったということだ。避けがたく死にゆく世界にあって死ぬために生きる者たち……死を呼吸し死を泳ぐ者たち……そんな死者の群れを導く者がいる。


 彼だ。


 かつてはサロモンという人間の形をしていて、人間の熱狂の火炎に焼けて消え、再び現れた今はマルコという形に受肉しているところの彼だ。彼こそが死の神である。この世界で第一位の強大なる神である。


 拠り所はあるのだ。敬虔なるベルトランは今この瞬間にも聖なる信仰の道を邁進しているのだ。


 ああ……幸いかな。


 我こそは真なる神の使徒なり。


「馬鹿、な……こんな……!!」


 その男が驚き苦しむ声を聞くのは初めてであったから、ベルトランは少しの得意げを味わって口の端を歪めていた。名も知らぬ雑草に頬と背とを預けている。それらの生命力が奇妙に瑞々しく感じられる。


 ベルトランは斬られた。


 神速の一撃を腹に受けて、もはや上の半身と下の半身とは分かたれたようだった。


 眼球を動かしそちらを見たならば、一応は共に横たわっている。しかし感覚は皆無だ。恐らくは筋や皮、あるいは衣服の端によって申し訳程度に繋がっているに過ぎないのだろう。ベルトランはそこにも一つの達成感を得た。完全に断ち切れる男がそれをし損なう……こちらの技の威力によるものと理解するからだ。


 間合い詰まって生死の交差するその瞬く間、ベルトランが放った技は敵に先んじた。


 右の貫手だ。


 剣を抜く構えを陽動として、剣の柄を握ることすらせずに、指の欠けた右の手を突き出したのである。


 いかに剣を抜き打つ技の高速が絶妙の域に達していようとも、所詮は人間の力で鉄の重さを移動させ弧を描くものなれば、空の手を真っ直ぐに伸ばすことの最速には及ばない。ましてやベルトランは体当たりの角度でもって踏み込んだ。威力も十分に乗る。


 残された薬指と小指の先に、途中斬り捨てた青色頭巾より獲た猛毒を塗り込めて、最もこちらへと近く晒された急所であるところの首を刺す。


 狙い違わず、それは刺さった。毒は入った。それは血流に乗って全身を巡る。


「お……おお……!」


 そら、もう動けない。上手く刺さったからには致死量に達していよう。足りずとも身動きさえ制限できればそれでよかった。こうして自前の血を撒き散らしている。誘われ集まる魔の狂猛がとどめを刺してくれただろう。


 そら、早々と無数の大蟻が腹に群がっている。正面、木々の枝葉の鬱蒼も風でない何かによって揺れている。背面、地の下にも蠢くものがあるか。動物でなくとも草木の根が血液から獰猛に漉し取るものがあるのかもしれない。


 それにしても強力な毒だとベルトランは思う。右手は既に肘より上にまで熱と痛みが満ち満ちている。斬り落とされた傷口から毒が入ったようだ。


 そう思う間にも肩にまで痛みが来た。十分だ。これほどであれば敵を仕損じることはない。霞む視界でも耳鳴りの鼓膜でも成果を確認できないから、今やこの痛みだけがベルトランに安心を与えてくれる。


 我、神よりの使命を達成せり。


 我、信仰の道を全うせり。


 祈るように目蓋を閉じたならば、孤独の暗闇の中にもチカチカと明滅するものがある。毒の作用、あるいは痛みによるものだろうか。眠りに落ちることを禁ずるものだろうか。


 いや……違う。


 これは祝福だ。


 そら、今の光には色があった。そら、やはりだ。


 緑か? 青か? 紫か? いや違う……金だ。金色だ。豪壮で大いなる光輝の色だ。


「ふ……邪魔をするな、馬鹿」


 込み上げるものがあって、ベルトランは思わず舌を動かしていた。


「どうして至福のこの時に、お前の珍妙な顔を思い出さねばならん。クスター」


 童のような気分で笑った。そういう風に笑うのは初めてだった。


 気楽な気分になったからだ。ふと誇らしさも生じたが、それも童じみていて、褒めてもらいたいとも自慢したいとも思った。そして、彼に褒められた気がした。ついでに、彼に懐く野犬のような男に羨ましがられた気もした。


 まったく、楽しい気分であった。


 だから笑って、そうやって笑ったままに……ベルトランは終わったのである。





 塵夢森。


 アスリア王国の南に位置するその大森林は、瘴気淀み魔物の跳梁跋扈するおぞましの異界にて、その深奥には呪わしき魔女までが潜むという。人の子が入らばたちまちに命を奪う魔境だ。舟歌には魂が枯れる森とも歌われる。


 死の世界に聞こえようか。それとも禍々しくも生に満ちた世界に聞こえようか。


 いずれにせよそこは外界とは隔絶した世界には違いなかったから、そこに分け入って生きるなり死ぬなりした者とは、つまるところ尋常の歴史から外れた者ということになろう。


 緑色の頭巾の男は一度目こそ生きて表へと出たものの、二度目には死して魔の森の一部となった。他にも複数の人間が同時期に森へと入り、そして多くが死んでいる。歴史には明記されることのない生死の結末である。


 知れ。その生死にこそ歴史の真実があることを。


 常識を超えるとてつもなき者の隠れる場所とは、まさに尋常の外であるところの世界なのだ。


 例えば、そう……かつては表の世界に大きな存在感をもって君臨していながらも、悲劇とも喜劇とも知れない一幕を王城謁見の間に演じ、そして歴史の舞台から掻き消えていった王女がいる。


 その女は先代の勇者とも当代の勇者とも強い縁で結ばれていた。

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