第13話 剣を避けても手と手と水
「お前さんも大概、器用なやつだよなぁ」
オイヴァは汗ばむ手で顎を摩りつつ、目の前の10歳児に声をかけた。
「竹束剣だからですよ。本物の剣ならああも振れません」
他の男たちに混じり井戸の脇で手拭を使っているが、周りが打ち身を冷やしているのに対して、この黒髪の少年は汗を拭うきりである。半裸になったその体をしげしげと観察してみるに、なるほど未だ子供の肉付きだ。鉄の武具を振るうには足りない。
出会った頃の小ささを思うと何かしら感慨深いものがあるオイヴァだ。あの薄ら寒い夜の道場でも竹束剣について話していた。一見して帰り道を危惧するような幼さだった者が、4年も経つと、それなりに一丁前な見た目になってくるのだから面白い。
ましてや、ハッキネン護衛団第四部隊長という肩書きを持つオイヴァにとって、この碧眼の少年は団長以上の上司とも言えるのだ。それは組織図に名前はなくとも幹部皆が知るところである。
キコ村のマルコ。
アスリア王国に知らぬ者とていない名薬「白透練」の製造責任者である。最近のものは効果によって等級があって、高価で上等なものは貴族の御用達であり、安価で下等なものは中小の村々にまで普及している。常備薬と認識されつつあるのだ。ヘルレヴィ伯爵も日夜頭に塗りつけていると噂される。
そして、今や登録傭兵数が千人に迫る勢いの「ハッキネン護衛団」の影の団長だ。領主が認め、あのハッキネン家が旗頭となり、多数の商家が協賛する戦闘集団である。堅実な仕事ぶりもあって信頼度は絶大だ。ヘルレヴィ領内の物流に関して団が関わらないことはなく、半ば公の戦力として機能している。
また、ベルトランを頭とする「不法組織」を眼差し1つで使役する立場にもある。一時期はすっかり鳴りを潜めていたベルトランだが、突如として武力抗争を開始、この2年ほどで裏社会に一大勢力を築き上げるに至った。その影響力は領内のみならず他領へも及ぶ。組織員には腕利きも多い。
それらを総合すると、ヘルレヴィ伯爵領におけるマルコの存在の大きさが見えてくる。
巨人だ。
しかしそれは見えない巨人なのだ。どれ1つとしてマルコの名は公にされていない。不法組織については無論のこと、ハッキネン護衛団についても看板通りにダニエル・ハッキネン男爵がいるきりだ。白透練について調べたとしても、聞こえてくる名前はラウリが精々で、その先の秘密を越えたとしてもキコ村の村長ヘルマンの名が上がって終わりだろう。
マルコの肩書は未だもって「村長の息子」でしかないのだ。オイヴァにしてみれば「そんなのもあったっけ」という程度の認識だが、それはマルコ本人にしても同じなのかもしれない。
実際、マルコはキコ村の村長職を継がないと明言している。アスリア王国の法において村長職の世襲は推奨されているに過ぎず、村民の同意があれば誰であれ村長職に就くことができる。その方法を取ることは父子の間で了解されていたのだろう。母は最後まで知らなかったようだが。
昨年の春、マルコの母は亡くなった。直接の原因は肺病で、10年来の病臥の末の最後としては安らかなものであったそうだ。葬儀に参列したラウリからの話だが、どうもその長患いの原因はマルコの出産にあるらしい。言われて気付く奇妙がある。多産多死が農村の現実であろうに、マルコは1人っ子で、父親ほどではないにしろ母親も歳がいっていた。
親になる心境というものを、オイヴァはふと夢想してみた。子を望み、なかなか得られず、遅くにようやく念願の息子を授かったとしたら……己の職や立場を譲りたいのではないか、と。
しかし、その息子がマルコであれば話も違うと思うオイヴァである。そろそろ痛みの引いてきた顎から手をのけた。1対1で対決した時に打たれたのだ。10歳でこんなことをやってのける息子など、どう足掻いても己の手の中に置いておけるはずがない。
「……まぁ、それにしたって大したもんだぜ。5人掛かりの囲みを無傷で抜け出すなんざ、俺でも簡単にゃできねえ。槍がありゃあ話は別だがな」
「流石ですね。オイヴァさんも加わっていたなら、やられていたでしょう」
「はっは、そりゃわかんねえぞ? 股をくぐられちゃ敵わん」
先ほどまでの試合を思い出して、オイヴァは笑い声を上げた。
5人の男がそれぞれに竹束剣を構えるのに対して、マルコは両手に1本ずつと腰の左右に1本ずつ、計4本の竹束剣を身に帯びて対峙した。その異様を警戒した5人はマルコを包囲したが、一斉に掛かろうとしたその矢先、マルコは手に持った竹束剣をそれぞれ斜め前へと投げつけた。
投げつけられた2人が慌てて叩き落とす間に、マルコは転がるようにして正面の1人の足元へと走った。振り下ろされる一撃を左手に抜いた竹束剣で防ぐと同時に、右手の抜き打ちで足を薙ぐ。そしてその低い体勢のままにスルスルと人の足元を巡っていって、結局、全員の足や手に一撃を当てたのだ。
男たちの敗因は幾つもある。最初に竹束剣を投げつけられたために次の投擲を警戒してしまったこと。足元に低く入られたために剣筋が単調にならざるを得なかったこと。足元に入られた者が覆いかぶさるように戦おうとするので他が剣を振るいにくかったこと。そして何より、マルコが己にとっての勝因を理解していたことだ。男たちの実力を発揮させないように動いていた。
だからといって、マルコが正面戦法で弱いというわけでもない。オイヴァはそれを顎で体感した。1対5の後に1対1で対決したのだが、疲れているだろうと軽く手を狙い打ったところを最小限の動きですり上げられたばかりか、そのまま顎を打たれた。痛かった。
「逃げ回るだけなら今でも何とか……いや、甘えたことを言っていますね」
「まあ、体力があるならどうにかなるんじゃねえか?」
「それこそオイヴァさんの足元にも及びません」
「10歳だからな。でも馬には乗れるんだろ? 騎射はどうだ?」
「弓を選びます。射程も威力も知れていますが、すれ違い様ならば」
「なら、やれんこともないだろうよ。長柄を振り回すのは周りに任せりゃいいんだ」
オイヴァの言葉に周囲の男たちもウムウムと頷いている。新兵は連れてきていない。誰もが戦場を知る男たちだ。ハッキネン護衛団第四部隊所属の隊員たちである。つまりはオイヴァの部下だ。今日この時のキコ村には、第四部隊総勢228人の内の100人が駐屯している。全員分の軍馬も村の牧で管理されている。集結についても4度に分けて偽装した。
その任務はたった1つ。
馬賊の撃滅である。
どこからともなく現れてはヘルレヴィ伯爵領を荒らす軽騎兵の賊。ハッキネン護衛団の発足理由でもあり、この2年の間に何度となく小競り合いを重ねてきた宿敵だ。ただの賊とも思われない錬度と作戦能力を有するも、長くその正体は謎に包まれていたが。
マルコという透明の巨人がそれを捉えた。切っ掛けとなったのは塩の相場である。
王国における塩の売買は国が全てを管轄しており、その相場は国の事情によって恣意的に上下するものと認知されている。塩の値段で国庫の様子が透けて見えるのだ。国土回復後の復興事業が盛んな頃は、国も民も共に疲弊していたのだから、まず常識的な価格で推移していた。そして力の入れどころが国軍再編に傾いたのならば高値となる……誰しもがそう予想したし、実際に一時的にはそうなったのだが、ある時期から価格が緩和され始める。マルコの違和感の発端だ。
領都に赴いて相場を調べたマルコは……その折に護衛団の設立が企画されたのだが……その時点で“闇塩”の存在を確信していたという。国の管轄品とは異なる塩が大量に定期的に出回っているに違いない。その出所には莫大な資金が流れ込んでいる、と。
領内の物流を把握し、馬賊の襲撃範囲と部隊規模を把握し、裏社会における諸情報を把握したマルコが下した結論は衝撃的なものだった。
天境山脈のいずこかに馬賊の隠れ里があり、牧場と岩塩鉱山とを保有している。闇塩の卸し先は王国北西部の二領、即ち前線のサルマント伯爵領とペテリウス伯爵領だ。維持している騎兵の総数は五百騎から千騎を少し超えた辺り。1人の強力な指揮官の下に軍事組織として運営されている。
そして恐らくは……旧サロモン軍に関係がある。
最後の結論を口にしたときのマルコの顔を、オイヴァは鮮明に思い出すことができる。場所は領都の護衛団本部。団長と第一部隊隊長を兼任するダニエル、非戦闘部門の総責任者たるラウリ、第二部隊隊長のアクセリ、第三部隊隊長のヤルッコ、そして第四部隊隊長のオイヴァという幹部揃い踏みの中でのことだ。
形としては笑みに近かった。
目は細められ、口は上弦に弧を描き、やや伏し目がちではあったが肩は脱力もしていなければ力みもしていなかった。声色も清澄な鈴の音のような響きをもっていた。いつも通りの美しい少年がいた。
しかし、そうであったにも関わらず……誰もが息を呑んだのだ。
オイヴァの感覚でアレを表現するのなら、“天魔刃”だ。教会の神話にも絵物語にも共通して登場する数少ないものの1つ。それを振るう者も振るわれる者も区別なく呪われ殺されるという恐ろしの一振り。悪魔王が持っていた大剣とも、悪魔王を討った者の槍とも言われる、刃の形をした破滅。
そんな物があるわけはない。仮に神話の時代にあったとしても、そんな物は失われて残っているはずもない。しかし、もしもそれが今この世界に実在したのだとしたら……こんな鬼気を発しているのではないか。オイヴァはそう感じたのだ。
一瞬のことではあった。旧サロモン軍と関係があるとして特にコレといった秘策があるでなし、議題はすぐに馬賊討伐のための具体策の立案へと移っていった。しかし脳裏に焼き付き、魂に一撃されたような衝撃が消えることはない。その時の己の情動をいかなる言葉で表現すべきかも分かぬまま、ただ凄まじい体験であったと、忘れ難い体験であったとだけ振り返るのだ。
そして、オイヴァは目の前を見る。少年の表情は陰っている。
怯懦からの逡巡ではない。少年は己の肉体の貧弱なるを憂いているのだ。団員たちとの手合わせで感じた多くが、彼にとっては不充分かつ不本意なものだったのだろう。どれほどを基準としてるのかは知れないし、どの程度を自らに期待していたのかも分からないが。
しかし、気付いているだろうか。その両手両足にはこうしている間も常ならぬ力が漲り、やるぞやるぞと戦意を露にしていることを。
「……では、本当にいいのですか?」
それはマルコにしては珍しい声色であったから、オイヴァは少しはにかんでしまった。恐縮と遠慮からこちらを窺う色なのだ。これだから堪らない。あの日の護衛団本部で見せた鬼気と、今と、どちらのマルコをも知る身となっては放っておけない。
「いいさ! 勿論、いいともさ!」
サラサラの柔らかい黒髪をワシャワシャと乱してやって、オイヴァは言い放った。
「一緒に馬賊をやっつけにいこうじゃねえか! なあ、お前ら!」
男たちが喝采をもって答えた。次々に逞しい手の平がマルコに迫るや、背や肩をバシバシと叩き、命を預け合うことになった喜びを音にしていた。彼らにとってはただの少年に過ぎなかったマルコは、竹束剣での試合とオイヴァとの問答でもって、1人の勇敢な戦士として迎えられたのだ。
むさ苦しくも荒々しい風景だ。茶番といえば茶番だろう。団の規律をもってすれば、大上段に「マルコを同道させる」と命令してしまえば済む話なのだ。しかしオイヴァはこれでいいと考える。こういう方が好きなのだ。情の通わない関係など血の通わない生物と同じように思えるのだ。戦は敵の死を作るために味方の死をも勘定に数えなければならないが、だからこそ、常には人間らしい人間でありたい。
「ありがとうございます。痛いです。よろしくお願いします。肩は凝っていません」
揉みくちゃにされながらも、マルコは笑っている。周りも笑っている。気付いているだろうか。誰もが既にマルコを“兵”としてではなく“将”として捉えていることを。
戦士たちを惹きつけ、奮い立たせる魅力をもった一個の人間……それが将なのではないか。オイヴァはそう信じている。自分にその才があるかどうかはわからないが、マルコには間違いなくそれがある。しかも並大抵の将才ではあるまい。あるいはもっと上の……オイヴァには判別もできない何かなのかもしれない。軍事にあっても巨人なのかもしれない。
分からないが、この上なく面白い。
オイヴァは再び顎を摩りつつ、何を悪乗りしたか間もなく水の掛け合いに発展しそうなむくつけき集団を眺めていた。