↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火刑戦旗を掲げよ!  作者: かすがまる
第7幕

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
138/148

第129話 我は征く、後顧の憂いもなく

 日の差して明るい部屋で窓の方へと顔を向けているから、それはもう眩かった。


 目をしぱしぱとさせて視線を脇へやる。そこには鏡があって、己の背後に所狭しと並ぶ絵画や綴織が映っている。暗がりで見れば迫力のあるそれらも、こう光に照らされていてはことごとく白んでいて何とも弱々しい。埃の舞う様も見える。


 光とは乱暴なのだ。それは透明さから水に似るが、晒されたものを摩耗させ朽ちさせる働きについても同じで容赦というものがない。時の流れは常に光や水の側に味方していて、影に固着する全てを怯えさせている。


 髪を櫛づけられ化粧を施されながら、パウリーナはそんなことを考えていた。


「どうせ何も変わらない。今までもこれからも、ずっと同じことの繰り返し」


 窓を背に座る灰色髪の少女が話している。青色の瞳が空とは異なる水の色を表わしている。


「大人たちはいつも忙しそう。それしかないって顔をして、同じことばかりをする。何度も何度もする。でも、見分けのつかない毎日に意味なんてない。そういうものだと思い込んでいるから、そうするだけ。そうしたいのかどうかもわからないまま、いつもそうするだけ。それをしないではいられなくなっただけ」


 話しかけているようでもあり、ただ呟いているようでもある。彼女の名はビルギッタ・テルヴァハルという。もうすぐ十歳になる。言葉が泡玉のように部屋を流れて、舞うでもなく床に落ちては消えていく。


「何をしたって、何をしなくたって、どうせ世界はこんな風なまま。魚がどう群れてどう泳いでも川は流れを変えない。鳥の空も、獣の森も、人の国も、皆そう。いつものようでしかない。今までもこれからも」


 それは侮蔑のようでいて冷たくない。憤怒のようでいて勢いがない。言葉はそれが歌でもない限り、誰かに聞いてほしくて発せられるに違いないが……誰かに届くはずもないと諦め果てているかのように、彼女の言葉は枯れ萎んでしまっている。


 パウリーナは小首を傾げることでビルギッタに先を促したが、優しくも逞しい手によってすぐに首の傾きを直された。身支度はまだ終わっていない。


「パウリーナも、そうやって国王をしているけれど……きっと何も変えられない」


 水の音が聞こえた気がして、パウリーナは耳を澄ませてみた。聞こえない。ビルギッタの声をくぐもらせたものは何であったかと思う。声が鈍く反響し、濁ったようにも感じたのだが。


「国王になる前と、なった後とで、何が変わったわけでもない貴女は……そんな貴女でしかないなら……この世界にとっては一尾の魚。一羽の鳥。一名の人。何もできない。何も。何も変わらない」


 髪留めを作業していた手が止まっている。パウリーナは鏡を手掛かりにして戸惑いの手に触れ、続けることを促した。強張りはすぐに解れたようだ。丁寧な手つきが再開された。


「そうかな。変わらないものなんて、あるのかな」


 女王としての体裁を整えることは任せきりにして、思うままに言葉を発した。


「魚も鳥も人も、皆、食べて寝て、起きて食べて、寝て起きて、また食べる。そういう風にしていると、皆、大きくなっていくよ。小さいままではいないの。貴女はもう幼いビルギッタじゃないし、私も小さいパウリーナじゃない。鏡を見なくてもわかることよ」


 返ってくる言葉はなく、立ち去る音もしなかったから、パウリーナは続けた。


「繰り返すことはたくさんあるけれど、皆、少しずつ変わっていくよ。木も草もそう。畑は同じように世話しても同じだけ収獲できるわけじゃないし、山菜は年ごとに採れる場所が移動するよ。石もまろむよ。山も彩りを変えるよ。風はいつも新しいし、空だってこれまでに一度も同じ空なんてなかったよ。世界は変化するの。今も変わっている。ゆっくりと目を凝らして、耳を澄ませば、わかるよ」


 パウリーナは窓の方を見やったから、少女が上目づかいに己を見ていることに気付いた。その二つ瞳は影の中にも青く揺らめいている。井戸の底を見下ろした時のような、何かしら妖しい深さがパウリーナを見据えている。


「違う。見える形や聞こえる音が変わっても、それはパウリーナにとって新しいだけで、きっといつかどこかであったものに決まってる。それに、そんな小さな、どうでもいいことは世界を動かさない」

「ううん、世界は動くよ。小さな種の一粒が豊かな食卓と元気な毎日に繋がるように、そんな一日一日がいつか歴史になるように、大きな変化は小さな変化から始まるの。世界はそんなきざしで満ちているのよ」


 寂しく水を湛えた青色へ、思うところのものを投じる。そうしたいからではない。求められるままにだ。必要とされるままにだ。パウリーナはただ反応しているに過ぎない。


「……私の周りには、そんなの、ない。見当たらない。何にもないわ」

「あるよ。遠くを探さなくてもいいの。今、いっぱい話してるでしょう? それもきざし」


 指差したなら、ビルギッタは慌てたように口元を両手で隠した。青い眼差しが強まった。今にも何かが零れそうだ。若葉の先に集まる朝露のように。


「無理よ。関係ないわ。私と世界を一緒くたにしないで」

「一緒よ。同じだもの。貴女も世界の一片だよ。私もそう。皆、そうなの」


 誰に向けてというわけでもなく、パウリーナは頷いた。そして告げる。


「世界は生きているの。だから変わるの。貴女も生きているよ。だから変わるのね」


 それは確認だった。予兆として知らされたものを言葉にしただけのことだ。だから、声もなく涙を流したビルギッタを見ても、パウリーナは小首を傾げるのみである。


「どうすれば……変われるの?」

「どうしても変わるよ。変わるのは嫌だって頑張らなければ、すぐにも変わるよ。十数えるくらいで」


 唇に朱が引かれた。首には赤い宝石の首飾りが巻かれた。耳に飾ったものにも紅が光る。己が身には予め備わっていない色だ。パウリーナはそれらが熱を帯びていると感じた。火だ。そうであって当然だ。


 立ち上がる。女王としての正装に身を包んでいる。クウィン織物の衣は白色にして草花の刺繍が豪華なれど、開いた胸元にも、それに繋がる肩にも、手袋の縁にも、やはり火の色の宝石が輝いている。一つ一つが強い。どの一つも何かを宿して熱を発しているかのようだ。


 どれ一つのみでも燃え上がるには足らないが、合わさって風を受けたならば、パウリーナの身を包み赤色を吹き上げるのだろう火炎の申し子たち……まさにその熱量こそが変化の力だ。パウリーナはそんな人々を知る。赤熱として燻る者たちを。大なる炎に炙られて、自らも燃え出さずにはいられなくなった者たちを。


「陛下、お支度が整いましてございます。後はこちらを」


 全ての作業を終えたヴィルマがそっとパウリーナに示したものがある。他の宝飾とは別にされて在るもの……王たる者のための冠だ。戴冠式用の重厚なものではない。パウリーナが日々に用いるのため作られた小冠だ。これにもやはり燃えるような火色の宝石があしらわれている。


 これを手に取り頭上に持ち上げることは、今やパウリーナ以外の誰にも許されていない。身につける以前から特別があるのだ。埃を払うにも定められた形式がある。幾重もの約束事がその小さな冠を包み込んでいる。


 この冠で頭上を飾る者こそがアスリア王国の国王であるからだ。


 王とは人間でありながら人間を統べるという至上の大権を有する。それがどのような根拠を、意味を、影響力を持つものか……いかに恐るべき重責であるのかを、パウリーナは承知している。王たる者の学ぶべきこととして教授された知識によってばかりではない。実体験として理解したものがあった。


 今より六年前、十二歳の春のことだ。場所は王国北東の辺境、小さな村だ。そこでパウリーナは運命と出会い、二つの覚悟を決め、一つの物語を見届けるための人生を始めたのである。


 運命は不思議な少年の形をしていた。名をマルコと言う。


 パウリーナの生き死にを試したと明言して悪びれるところもなかった黒髪碧眼の彼は、淡々と大陸の未来を予言した。戦乱を言い当てていた。人間の歴史が避け難くそこへ至ることを確信する静かな眼差しは、しかし、その流れを破壊せんとする膨大な熱量を秘めていた。


 一つ目の覚悟とは、マルコという名の炎を受容することだった。二つ目の覚悟とは、その壮絶なる力を世界へと解放することだった。それらどちらをも、パウリーナは微笑みをもって覚悟した。


 すぐさま世界は姿を変えた。真新しく大きくなった。思いがけず力強くなった。加熱と膨張、加速と躍動……世界はマルコという炎によって大変化の時代を迎えたのだ。


 パウリーナはそれを素敵なことだと思い、全てを抱き締めるようにして見届けた。健やかに、大らかに、世界の動揺を受け止める日々を過ごした。肉体としては小さな庭に生きていたに過ぎないが、精神は世界へ向けて広がっていたのだ。人間を包む大自然を思い、人間の作る小自然を思っていた。寿いでいた。


 つまりは、あの日からだ。


 彼がパウリーナを奉戴すると約束したあの日から、パウリーナは王として生きることを始めたのである。


 言わば、神の祝福を受けるよりも先にマルコという運命に祝福されたのだ。それがパウリーナを王にした。炎に洗われるような感覚があった。当然だ。彼を受け容れた以上、その治世は凄まじいものとなる。彼は世界を変革する。王たる身には他人事どころの騒ぎではない。まさに己が身を焼かれるに等しい。


 マルコと共に在るとは、そういうことだ。


 彼に奉戴される王とは、常に己を焼き清めながら遥かな道程を見据えていなければならない。


 そして、パウリーナは今も一つの物語の結末へと思いを馳せている。名もなきその物語は、背に毒の瘤を持つ獣を主人公としている。惨めで、悲哀に満ちていて、救いようもなく終わってしまいそうな、血塗れの獣の物語だ。特別な意味を持つ物語だとパウリーナは承知している。


 生き長らえるために己を傷つけ、上手に血を流す獣……それは、この世界そのもののことではないだろうか。


 マルコはあの冬の表彰式典において言っていた。


「炎の中に世界が呪われた獣であることを嘆いた私は、図らずも再び獣と相対した今、もはやその嘆かわしさを焼いてしまわずにはいられません」


 彼の言葉は意味深長に過ぎて、パウリーナにはその全てを理解することができない。しかし世界を呪われた獣と表現していた。そして嘆いていた。焼いてしまいたいと漏らしていた。


 彼はこうも言っていた。


「死を経ぬ何者にも私を止めることあたわず。王女殿下の寿ぐ世界に気高き強さの在らんことを」


 最初の半分は意味が分からない。しかし後の半分は明白だ。パウリーナを奉戴する彼がそれを言ったならば、即ちこの時代に気高き強さを希求するという意思表明に他なるまい。


 彼の目には惨めと映るこの世界……血塗れの獣に比喩されたこの大陸をば、彼は火炎と化して変革しようとしている。その手段が戦争だ。


 戦って、戦って、戦い抜いた先に、何か新しい世界の形を思い描いているに違いない。


 パウリーナはそれが見たい。


 血塗れの獣の結末を……彼の征く果てを。


 だから王冠を手に取り、頭上へと持ち上げるのだ。人の身から王たる者へと変ずるのだ。彼に熱せられた世界がどのように変わりゆくかを見届けるために。美しい火炎の、火の粉の一つとてつぶさに見極めるために。


「貴女も来る? ビルギッタ」

「……仰せのままに、女王陛下」


 女王として王城を歩く。侍女武官ヴィルマとテルヴァハル女伯爵ビルギッタを傍らに、四名の女官を後方にして、王者の在り様をもって厳かに進む。急ぎはしない。時の流るるようにして行くのだ。衣擦れの音すらも密やかにして。


 角を曲がったならば、廊下の先に跪いて待つ者がいた。


 若い男だ。格式を備えた重厚なる外套を羽織っている。表地は真黒色で裏地は貴血色というそれは、この国に四着しか存在しない宝物だ。その左の胸元へ由緒正しき家紋を飾る者とは即ち侯爵家の当主である。


「ユリハルシラ侯」

「は。臣ルーカス、陛下の仰せによりここに罷り越してございます」


 立ち上がらせ、同伴させる。パウリーナは更に進む。何代か前の王の名を冠した部屋へ入り、その豪華なる調度に一切目もくれないで、窓辺へ。壁面から外へと張り出した場所へと数歩進み、手摺に遮られて立ち止まった。


 そこには世界が広がっていた。


 遥かな地平には天地定かならぬ横一線が左右見えぬまでに引かれ、上を向けば蒼穹が白雲を装飾してどこまでも清く澄み渡り、下を向けば大地の雄大が万緑に彩られて海原の如く迫り王都の繁華へと繋がる。大いなる自然に抱かれてアスリア王国が在る。


 王城の中枢を背に眼下を見たならば、大庭には敷石の色も見えないほどに男たちが集っている。誰もが武装し、兜を小脇に抱えている。揃いの作りの鎧上衣は色が数種類あって、それはその者がいずれの師団に所属しているかを示している。手前ほどに装備は上等で、奥へ行くにつれて簡素になっていくものか。


 国軍だ。アスリア王国の最大兵力たる国軍が集結しているのだ。


 数万という顔が、それぞれに二つの瞳をパウリーナへと向けている。甲冑の鋼があちらこちらで陽光を照り返す様は水面にも似るが、寄せられる意思の力というものがあって、間違いようもなく彼らが戦士の集団であることを教えている。パウリーナは女王として彼ら全員と相対している。


「聞け。我が民、我が勇敢なる兵士たちよ」


 咳一つなく迫力だけを放射する軍集団へと語りかけた。一歩とて退かない。可能であれば空中へと歩み出したろう。


「この暑き季節に、南から瘴気が吹き寄せている。国難である」


 眼下に音のうねりが生じた。人体と衣服と甲冑とが擦れ合う音が無数に縒り合わさったものか。声はない。数万の将兵が同時に息を呑んだのだ。それが武器持つ国民の率直な反応ということだ。


 今、パウリーナは聖杯騎士団を忌むべき敵であると断じた。国を滅ぼしかねない脅威であるとも明言した。アスリア王国国王として、である。

 

「されど、どうして冷気に凍え怯える必要があろうか。我らは熱き時代を生きている」


 無数の明滅が連続して眼下は無音の騒めきに満ちた。水の細かな煌めきにも似たそれらは人の目蓋の瞬きだ。この場に集った男たちは揃って目が眩んだらしい。


 応ずるようにしてパウリーナもまた一度目を閉じた。視界に薄い皮膚の幕を下ろしたところで、万を超える男たちの熱気は僅かにも圧迫感を減じない。むしろ増した。王城の外からも届くものがあると知覚したからだ。


 民だ。民に違いない。どのような不思議が作用してか、王都の民もまた意識を向けてきている。パウリーナはそれを確信することによって、己の立つ場所の意味を悟るに至った。


 天地の狭間にして、人の営みを睥睨する無二の頂き……ここだ。


 ここが王座だ。ここが真の王座なのだ。


 謁見の間の最奥において贅を極めた椅子が再現せんとする空間が、今、一切の調度品を必要とせずに現出している。ここは王でなければ立つことの叶わない場だ。天を背にして人間を見渡す者のみが在れる高所だ。まさにパウリーナの居場所である。


「貴方はここに立たないのね」


 孤高のパウリーナは、心の中でマルコへと語りかけた。今ここに居らずとも、いつも誰よりも近くに居るような彼のことを想う。今も戦い続けているに違いない彼のことを。


「貴方は人間の抜群。未踏を駆ける炎の騎士。世界を燃やして……そして、病み毒へも挑むのね。きっと」


 返事などは必要ない。己も彼も独りきりで、誰に寄りかかることもなく己の宿命を全うすべき立場にあるとパウリーナは知る。挨拶のように届けばいい。互いの存在を寿ぎ合って、互いの健闘を期待し合えばそれでいいのだ。


 彼は征く。己は残る。


 いずれ来るその時のために、今は為すべきことを為す。彼に奉戴される王として、パウリーナにしかできない仕事を遂行するのだ。老若男女の区別なく誰もが試されているかのような……生にしろ死にしろ烈しいものとなること必至の、この火刑の時代を生きるために。


 ゆっくりとゆっくりと眼を開き、そして世界へ向けて宣言した。


「生きることは神聖である」


 天に轟くように、地に響くように、そして人を貫くように。


「誇らかに立て。我が民、我が勇敢なる兵士たちよ。我らの在り様が世界を確定している。我らの営みが大陸を踏み固めている。神意は我らの日常に宿る。聖性も然り。我らは誰に恥じることもなき日々を生きている。我、アスリア王国女王パウリーナが、今ここにそれを認定する」


 熱い。眩い。パウリーナの眼前に広がる世界は俄かに熱と光の量を増大させたようだ。


 頷き、合図する。ヴィルマが恭しく差し出した物をパウリーナは受け取った。介添われつつもそれを世界へ向けて広げた。


 伝国の宝物にして大陸にただの二つきりの大旗……即ち昇龍旗である。


 それは教会により王国へ貸与されたものだ。王国最大の兵権が旗の形を成したものだ。これを掲げる者は国軍を統帥する権限を得るが、建国時の厳法により、たとえ国王といえども教会の許可なく掲げることができない。無許可に掲げたならば即座に神敵として認定される。国家解体の危機を招来する。


 通例であれば即位に際して東方教会大司教より掲げることを許可されるが、特別教区の祓魔師によって祝福され即位したパウリーナであるから、未だ一度としてこの旗に触れていなかった。


「我らの神聖と、我らの進むべき新時代とを鑑み、我はこの旗が役割を終えたことを確信する」


 軽く視線を振って促したならば、まずはビルギッタが水差しを抱えて前へ進み出てきた。次いでルーカスが炬火を手にして出てくる。事の成り行きを見て何かを察したものか、眼下から全身を撫でるようなどよめきが届き始めた。


「我が民、我が勇敢なる兵士たちよ。見届けるべし。我、アスリア王国女王パウリーナは、ユリハルシラ侯爵とテルヴァハル女伯爵の手を借り、ここに昇龍旗を神の御許へ返し奉ることとする」


 声ある叫びも声なき叫びも、いずれも全て世界の音として受け止めて……パウリーナはそれを実行する。ビルギッタが水差しより油を旗へと注いだ。ルーカスが炬火を近づけて着火した。たちまちに燃え上がるそれを、ヴィルマの腕力に援けられながら手摺の向こう側へと掲げて見せた。


 火勢が強い。火花すら散る。放熱は当然としても轟音と風圧については得体が知れない。


 火に奇怪が生じていた。天地人の注目するこの場においては不思議も起こるというものか、信じがたいほどの炎となって四方八方へと大小の舌を伸ばすではないか。あるいは一つ一つが火の龍か。意思すらあるか。そら、鎌首をもたげて威嚇したかと思えば、すぐさま噛みついてくる。


「へ、陛下! お手をお離し下さい!」


 ヴィルマの必死を聞いても首を横に振って、パウリーナは旗の棹を握り締め続けた。世界へ対して旗の燃え行く様を示し続けた。その手に絡みつかれた。熱い。痛い。しかし決して力を緩めない。断固として退かない。苦しくとも微笑みすらが浮かんだ。強がりによってではない。


 マルコの視線を感じたからだ。


 ここに居なくとも、マルコはこの炎を見守っている。それがパウリーナにはわかる。


 優しくではない。励ます意味でもない。確認すべき戦果を指差し数えるというだけの、冷徹なる戦場の眼差しでもって昇龍旗の炎上する様を見ているのだ。いかにも彼らしいとパウリーナは思うから、愉快だった。きっと旗を手放す無様をなど想像もしていないに違いない。本当に彼らしいことだ。


 やがて全てが燃え尽きた時、パウリーナは己の腕が一切の火傷もないことを発見した。それどころかクウィン織物の手袋にも焦げの一つとて見当たらない。


 ヴィルマも、ビルギッタも、ルーカスも目を見開いている。しかし数万将兵の顔には驚きはなかった。いや、昇龍旗の焼失については驚きのどよめきが沸き起こっているのだが、パウリーナの腕の不思議については誰も気づいていない風なのだ。


 そういうこともあるのかもしれない、とパウリーナは一人頷く。


 ここは真なる王座で、世界の注目を集めるところの空間である。何が起きてもおかしくはない。または、何かが起きて当たり前なのだ。火刑の時代だ。まったくもって火刑の時代なのだ。


 だから成し遂げたことの先へと進もう。神秘の炎に洗われた腕を世界へと真っ直ぐに伸ばして。


「見ての通りである。アスリア王国国軍は軍旗を失った。それは国軍の解体を意味する。そこで我は、ここに新たな一旗を創出し、我が勇敢なる兵士たちへと与えることとする」


 その声を受けてヴィルマが掲げた旗……それは白色で、風にたなびき長く長く流れる。


 白流旗。


 かつて第三王女親衛団が掲げていたあの旗によく似るが、より大きくより長く、そして王者の装飾が施してある。金銀の宝飾の内の一つは、パウリーナを護るため戦った一人の老戦士の手による銀細工だ。そこに飾ってはいつもの不満顔で文句を言われるかもしれない。しかし今はそこから兵士たちを見守って欲しかった。


「我らの神聖により国軍は新生すべし。その願いを込め、この旗を白龍旗と名付ける」


 今やどよめきは沈着して風ばかりが鳴っている。誰もが新たなる白き旗に目を奪われ、それぞれに思いを馳せているようだ。パウリーナはその様子を広く見渡した後、小さく頷いて、ルーカスを己の隣へと立たせた。


「我はこの旗を与える初めの戦士として、ここなユリハルシラ侯爵を選ぶ。亡父の遺志を継ぐことを期待するからだ」


 囁き声も数万ともなればかくの如く聞こえるものか。湿り気を帯びた鳴動を受け止める。将兵はここに認識したのだ。既にクラウス・ユリハルシラは亡く、ルーカス・ユリハルシラが後を継いだという事実を。


「白龍旗を授ける。新たなる軍を組織し、敵を打ち払うべし」

「は! 必ずや!」


 ルーカスは棹を握り、それを眼下へ向けて大きく掲げ持った。そして瞠目するほどの声量でもって吠えた。ビルギッタなどは驚きで小さく跳ねたほどの声だった。


「諸卿! 聞いての通りである! 私、ルーカス・ユリハルシラはここに白龍旗を掲げる栄誉を賜った! 諸卿を代表してのことだ! そして諸卿を護国の戦いへと誘うものぞ!」


 あるいはこの男は手摺を越えて宙へと飛び出すのではないか。パウリーナはふとそんなことを思ったが、ヴィルマも同様であったようで、つと手が伸びている。


「白龍旗の下に参じ、南より神聖を偽って迫る脅威、聖杯騎士団と戦うべし!」


 男の腕力というものか、片手でもって白龍旗を高く掲げ、ルーカスは盛大に声を上げるのだ。


「ここに! 王国防衛軍の設立を宣言する!!」


 数万将兵へ届くばかりか、その頭上を越えて南方にまでその宣言は響き渡ったろうとパウリーナは思った。よく通る声だった。しかもその声音には邪なものが乗らない。


 静寂は一瞬にして、直後には物凄まじい大絶叫が轟いた。


 城をも都をも吹き飛ばさんばかりの音量だ。世界を一息に焼き尽くさんばかりの熱量だ。数万将兵はその気炎でもってここに大火災を巻き起こすつもりだろうか。白龍旗が上向きにすらはためいたほどだ。


 思えば対帝国戦争における敗北より数年、彼らには働きどころがなかった。それどころか先日には国軍内の反乱分子が一斉検挙される事態までが起こった。志ある者たちは鬱屈として戦意をわだかまらせていたのかもしれない。戦うべき時に戦えない焦燥をば胸に抱えていたのかもしれない。それが今、解き放たれたのだ。


 パウリーナはその全てを見届ける。


 民が、兵が、軍が、国が……世界が烈火の中に変貌していく様を見届ける。


 この在り様には生き長らえることばかりに勤しむ惨めさはない。熱狂がある。果敢がある。勇猛がある。背に病毒の瘤を抱えていたのならばそれを切り裂きむしり取るほどの勢いがあろう。


 世界という名の獣はどのような結末を迎えるのであろうか。


 マルコはどのような結末を望んでいるのだろうか。


 それを見届けたい。見届けるために生きている。


 独りきりでしか在ることのできない王座に佇み、パウリーナは遠く遠く思いを馳せていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。