第10話 治安は維持してくれないと
領都の風には冬でも花の香りが混じる。
北方の産物は何も馬に限らず、“雪白花”もまた香水の材料として利用されるからだ。軍馬のそれに比べれば市場規模も知れているし、南方の花々からなる香水に比べても華やかさや奥行きに欠ける香りだ。しかし慎ましさの中には強かな艶が宿っていて、それがその男には好ましく思える。
ところが、現在彼の鼻梁に後から後からこびり付いてくる香りは“雪白花”のそれではない。良く言えば百花繚乱の香りなのだろうが、その不躾な程の強烈さは熟れた果物をぶちまけられたかのように感じられてならない。
(隠し秘め、仄めかすことにこそ趣深さがあるのだ。あからさまであることは浅ましさの表れよ。馬鹿馬鹿しいことだ)
絢爛豪華な舞踏会にあっても特に際立つその貴公子は、絵画のような美しい佇まいを周囲に見せつけつつも、じっとりと不快を抱えていた。
ダニエル・ハッキネン男爵。
無役の身である彼自身は無名でも、アスリア王国においてハッキネンの家名は爵位を超えた意味を持っている。僻地に引き籠っている身でも、一度社交の世界へ現れてみれば貴婦人に囲まれるのだ。
かつて勇者の配下にあって武名を馳せた3人の騎士……その筆頭こそハッキネン“子爵”であり、残る2人の内の1人はその長子であった。勇者を題材とした絵画において勇者の側に騎士の姿があったならば、最も年配に描かれているのが子爵、最も年若く書かれているのが長子と見て間違いない。
勇者落命の悲劇は数多くの戯曲や詩歌に歌われているが、そのいずれにおいてもハッキネン親子の挺身は欠かせない名場面の1つだ。雲霞の如く押し迫るエベリア帝国軍へと吶喊し、勇者の退路を切り開こうとして討ち死にしたハッキネン子爵。長子も最後の瞬間まで勇者と肩を並べて剣を振るい、勇者を庇って討たれた。勇者は彼らの死に泣く。
しかし、それらは事実と全く異なる。
王国と教会とが政治的に創作した物語に過ぎないのだ。
父と兄とを失い、若くしてハッキネン家の当主となったダニエルが最初に行った仕事とは、子爵位の返上である。「勇者を護りきれなかったことを父も兄も死してなお恥じておりましょう。私も同様にございます」と殊勝にも王へと願い出た……公にはそう記録されているが。
実際は懲罰だったのだ。死地に混乱して手勢と共に逃亡を図った父と、腰を抜かして足手まといの末に雑兵に殺された兄の、その無様の罪科を負わされたのだ。
お涙頂戴の名目のもとに領地を没収され、役職を奪われ、北東辺境にも近い町に自主謹慎という名の僻地流しだ。“その殊勝に慈悲をもって応えた”とされる王が与えてくれたのは、男爵位と捨て扶持のみ。ダニエルの前途は全き闇に包まれていて、高値で取引される輝かしい絵画には父と兄とが美麗に描かれている。
(見ることのできぬものを、よくも見事に描くものよ。人は見たいものを見るものだが、そんな空虚な幻想が実の力をもって世に影響するのだからな。馬鹿馬鹿しくも恐ろしいことよ)
この大広間の壁にも1枚の油絵が掛かっている。苦境の勇者へ天から一条の光芒が降りかかり、その足元には力尽きた1人の騎士……父亡き後はハッキネン子爵家の当主となるはずだった男が仰向けに倒れているのだ。その顔には涙も涎もない。さぞかし粘り気があったろうとダニエルは思うのだが。
「ほう、やはりあの絵が気にかかるかね?」
その声の持ち主が誰かを承知しているだけに、ダニエルは己の失敗を噛みしめざるを得なかった。油断した一瞬をよくも厭らしく衝いてきたものだと思う。色とりどりのドレスが分かれて姿を見せたのは、この舞踏会の主催者であり領都の主でもあるところの、マティアス・ヘルレヴィ伯爵であった。
「卿にとっては思うところもあろうが、勇者様の苦難を忘れて飲食することは慎むべきだからな。容れて貰うよりないのだ」
「……兄の無念を想い、己の不甲斐なきを悲しむばかりです」
「ふむ、そうか。そういうものであろうな」
マティアスの反っ歯顔に侮蔑の笑みを認めても、ダニエルはただ神妙に振る舞うのみである。この四十がらみの男は勇者伝説の裏側を知る。ダニエルへの悪意をもってこの絵を飾っていることは明らかだ。その陥穽にむざむざとつまづいた自分に苛立つ。
「ところで、卿を招いたのは用あってのことなのだ。来るがいい」
言うなり、マティアスは振り返りもせずに会場脇の小部屋の方へと歩いていく。ダニエルにはそれを追う他の選択肢が許されていない。婦人たちが引きとめることもない。視線だけがチラチラと背や肩を突いていて、ダニエルは殊更に優雅な歩みをしてみせるのだ。
(好きにその目に映しているといい、幻想の中で踊る者たちよ)
ダニエルの目には、会場に踊る全ての色とりどりが小鳥に映る。自らが砂糖菓子の檻に閉じ込められているとも知らずに囀るだけの、飛べぬ虚弱の鳥たちに。華燭の宴など酔夢だ。
休憩室の1つらしい小部屋に入ると、マティアスはすぐに扉の施錠を命じてきた。棚の酒を手に取ることもしない。実務家らしい性急さだと思う一方で、ダニエルにはその余裕のなさが滑稽だった。
「一昨日、領都近郊で賊の襲撃があった。知っていよう?」
「はい」
「昨日今日と捜索に当たらせているのだが、賊が件の馬賊であると知れただけだ。やはり根城はわからん。被害はどうということもないのだが……市中で少し面白くない動きがあってな」
苦々しげに語る様子を直立不動で聞いてみせつつ、ダニエルは嫌な予感を覚えていた。このマティアスという男はとにかく帳面通りに物事が運ぶことを尊ぶ。実直な男ではあるのだが、何事につけても四角四面に事を行うため柔軟な対応というものを知らない。そんな男が、今、非公式な場を作ってまで領政の綻びとも言える内容を話している。
「動き……とは?」
「何を勘違いしたものか、傭兵どもが護衛団などと称して徒党を組み、あまつさえ城に資金援助を要請してきたのだ。本来ならば相手にせんのだが、連中め、商家からの嘆願書など持参しおった」
「嘆願書……ですか。それはまた、何とも……」
「しかも複数枚だぞ。賊を討伐するか、街道沿いの警備を厳にするならよし。それが成らぬなら領内の物流を保護するために金を出せという要求だ。法度の条文すら引用する手の込みようでな……少々扱いに困っておる」
そこでチラと視線を寄越されたのだから、ダニエルには堪らない。厄介ごとを押しつけられることを確信する。マティアスの顔つきのいちいちが獣じみて見えた。獲物を罠に絡み取った猟師のほくそ笑みこそこれだ。眉間が皺寄っていくのを止められない。
「卿の父兄は貴族の誇り、騎士の鑑と持て囃されておるな?」
愉悦を舌に乗せたその声を敗北感と共に聞く。
「あの見事な絵画を見ただろう。あれが偽りであることは、私を含む四侯六伯に知らぬ者はおらん。無論、王もな。実に嘆かわしいことではないか。血の貴きを誇るべきにも関わらず、それが内実を伴わない虚飾であるとは」
聞こえない言葉が聞こえる。卑怯者の子め、臆病者の弟めと罵る声がダニエルの耳に木霊していた。もう長らく聞き続けているものだから、今更心がざわめくことはない。ただ視界から全ての色が褪せて消えていくだけだ。遠くから声は続いている。
「私は卿の境遇に同情もしているのだ、ダニエル・ハッキネン男爵。まだ若い卿には汚名を雪ぐ機会があってしかるべきだとな。そこで……どうだろうか。かかる困難を卿の才覚でもって解決してみないかね?」
手札の中で役を作るに適さない1枚があったとして、とりあえず何かを場へ切る必要に迫られたならば、その1枚は躊躇いもなく捨てられるのだ。その1枚こそ自分であり、今まさに切って捨てられたのだろう……ダニエルは淡々とその事実を受け入れていた。
話は簡単だ。私財をもって護衛団とやらを雇い入れ、それを率い、領政の与り知らぬ行動として賊を討つべし。事が成った暁にはハッキネン家は実を伴う名声を得るだろう……そんな詐術だ。
ダニエルには筋書きが見えている。これは成功しようが失敗しようが構わないものなのだ。ダニエルが行動を起こした時点で、既にマティアスは市中の面倒事を退けたことになる。元より賊を些事と捉えているのだ。賊が討てたならよし、討てずとも領軍の消耗でも敗北でないのだからどうでもよしということだろう。軍事物資の護衛以外には領軍を動かす気がないのだ。
(ふん……領地と子爵位の次は財産と命を支払えということか)
その徹底ぶりに腹の冷える思いを抱きつつも、それを最悪とは思えないダニエルである。彼はもっと最悪の結末があることを知っていた。相対的に見て、この程度は上げ底の不幸なのだ。
城下の宿へ向かう馬車に揺られながら、ダニエルは皮肉げな笑みを浮かべていた。
彼が思い描いたのは炎の柱だ。ダニエルにとっての最悪とはソレだ。父や兄とは真逆の人生を生きた男が、あの日のあの炎の中に死んだ。軍を率いて敵を恐怖のどん底へと叩き落とし、自らも馬上に武器を振るって勇猛であったというあの男……サロモンは狂気の空想に殺されたのではあるまいか。
そうに違いない、とダニエルは断じている。酷薄な戦場の現実を支配していた人間……それをすら、この国の幻想は殺してしまえるのだ。理屈も道理もあったものではない。誰かがそうしようと思い、誰かたちが賛同したならば、それは抗えない死の夢を形作る。正に悪夢だ。
(ああ……夢が現実を侵す馬鹿馬鹿しきを生きる、この虚しさよ)
窓から夜の街を眺めやるも、領城と高級宿舎とを結ぶ街路には望むものなど見つかるわけもない。ダニエルが欲しているのは女だ。誰でもいいというわけではない。貴婦人の絢爛さでなく、娼婦の艶やかさでもなく、飾らぬ清楚の奥に確かな“生”を秘めてさり気ない女性と……雪白花のような娘と夢が見たいのだ。
しかし、野の花とは野に咲くものだ。この城壁の内側の小世界は大自然から強固に切り取られてしまっている。灰色の世界には月明かりすらがどこか素っ気無く、あちらこちらの影ばかりが氷塊の硬質を思わせて目に障る。ダニエルは窓帷を閉めようと手で触れて、閉じず、その手で天井を二度叩いた。
不思議な色が見えたように思えたのだ。場違いな何かが在って、それは建物の中へと消えていった。
程なくして停車した馬車から石畳へと降り立つ。御者にそのまま待つように言い、外套をなびかせるようにして街路を横断した。道に面したその店からはかすかに酒の香りが漂ってきている。幾つかある領軍御用達の酒場の中でも、そこそこ上等な店の内の1つだ。躊躇いもなく入店する。
店内は閑散としていた。もっと下等の店なら安酒も出ようが、ここはそれなりに値の張る酒しか出さないらしい。ダニエルには香りでわかる。客層も兵卒の姿は見られず、尉官や下士官が中心のようだ。
それはすぐに分かった。
奥まった卓に1人の子供が座っていた。仕立てのいい毛皮の服に身を包み行儀良く膝を揃えている。椅子が高くその足は床まで届いていない。童女……いや、少年だろうか。子供とはいえ性別すら判別できない自分に、ダニエルは戸惑いと驚きとを覚えた。そして仕方ないとも思う。
その子供は異物に過ぎていた。
夢と現実とが綯い交ぜになってあやふやなこの世界にあって、その子供だけが確固たる輪郭をもっている……周囲を圧倒しているように感じられるのだ。頑なな現実としてでなく、さりとて魔性の夢としてでもなく、そのどちらの手綱をも握りしめて屈服させている塑像をダニエルは幻視した。
(何だ……これは何だというのだ? どうしてそこまで強く在ることができるのだ。この男児とも女児とも知れぬ小さき者は、本当に私と同じ人間なのか? よもや魔人や魔女の類でもあるまいが)
子供の黒髪がサラリと流れ、碧眼が2つ揃ってダニエルへと向けられている。口が開かれようとしている。どんな言葉がどんな音でもって紡がれるのか。ダニエルはジリジリとそれを待った。
「……中尉殿、この方が紹介してもらえるという軍曹殿ですか? どうも聞いていた話とは違うように思うのですが」
「いや、まあ、違うのだが……しかし見知った人物ではある。どういうことなのかな?」
ふと視線をずらしたなら、子供の向かいに座っている軍人が目に入る。ダニエルはその男を知っていた。アクセリ・アーネル領軍中尉。その階級にも関わらず雑務であちらこちらに顔を出す男だ。ダニエルの屋敷にも訪ねてきたことがある。
「アーネル中尉、か」
「ハッキネン男爵におかれましては、お久しゅうございます」
立ち上がって礼をしてみても、どこか愉快げな表情を隠さないのがこの男なのだろう。ダニエルはそれに構わず目で促した。貴族としての自尊からした行為ではない。痺れたような頭では見当がつかないのだ。この子供への接し方が。
「男爵、これなる子は名をマルコと申しまして、行商人の丁稚ということにございます。マルコくん、これなる御方はハッキネン男爵家の御当主であらせられる。君もその御家名を伺ったことくらいはあるんじゃないかな? 礼儀を正したまえ」
ダニエルは見た。床に降り、完璧な礼をしてみせるその子供の顔を。
震えた。
笑顔だ。本当に嬉しそうな笑顔だ。しかし何という笑顔であることか。
ダニエルの心に蕭々と吹いていた風は止み、寂寞として在った灰の砂漠も消えうせた。恐るべきその笑顔によって全てが焼き払われてしまったのだ。残余の炎が酒よりも余程に体を熱くする。これがあるいは狂気なのかもしれない……ダニエルは赤心から笑んだ。久しくそうしていなかったように思う。
(そうか、これが本物の……)
言葉もなく見詰め合った時間がどれほどに流れたものか。
「おらぁっ! 儂が来たぞアクセリ! 非番の日に呼びつけおってからに!」
老いた怒鳴り声がドカンと炸裂した。酔った鼻息も荒々しく、靴音も激しいものとして近寄ってきたその老兵は、アクセリへ向けて大きく口を開けて……そして急に萎んでいった。キョロキョロと様子を窺い、今更のヒソヒソ声でアクセリに問う。
「おい、アクセリ、これどうなっとるの? どういう所へ儂来たの? いや、笑ってるんでなくて……おい。儂、傭兵と商人を唆したって奴を叱りに来たんだけども……」
ダニエルは笑った。思いがけず大きな声だった。
古い何かが終わり、新しい何かが始まったことを感じていた。




