第9話 お客さん、いい薬ありますよ
「へぇ、こいつが噂の秘薬“白透練”か。万能の効果があるって聞くが」
渡した手の平大の小壺を物珍しげに覗きこみ、理髪師だとかいう男は気軽な調子で言った。さも他人事といった風を装っているが目の色が変わっている。行商人ラウリは髭を撫で付けるようにして笑みを憚った。乗合馬車がガタリと揺れても落とす気配がないのだから、その執着心は相当だ。
「私は魔女の弟子ではないからね。それは万能ってわけじゃあないさ。ただし色々な薬効があるのは間違いないよ」
敢えて教会の禁忌であるところの魔女を口にし、それを否定する。胡散臭い霊薬や妙薬は決まって魔女との関わりを匂わせるものだ。真逆をすることで返って信憑性を増す狙いである。
「食べても害はないが、塗り薬でね。基本的には皮膚に効く。火傷に霜焼け、化膿にかゆみ、切り傷にも効果があるよ。それほどのもんだから女性特有の悩みにも驚くほど効果的さ。水仕事で荒れた手はたちどころに治るし、お肌のしみや皺にもバッチリと効くんだ」
慣れた口上である。歌うように言ってのけて、ラウリは理髪師の手を取った。小壺の中にほの柔らかくある白いものを指ですくい、男の手の甲に塗りつける。やはり塗ってみたかったのだろう。抵抗はない。初め白かったものはすぐに透明に広がっていった。
「おお、凄いもんだな。俺の手がやたらスベスベになったじゃないか」
自分の手を撫でたり抓ったりして、理髪師はもう自らの興味関心を隠していない。さもあらん、とラウリは小さく頷いた。理髪師という職業ならば個人利用だけでなく仕事にも使える薬だ。上手く活用すれば評判となるに違いない。
だが、まだまだ……もっと欲しがってほしいとラウリは思う。商品に自信があるからばかりではない。これはもう商売人の醍醐味というものだ。必要もないのに耳打ちするようにして、言う。
「通な使い方としては、背中に塗るって手もある。これは寝冷えを和らげる」
ふんふん、と少々の期待外れを顔に浮かべたところへ、止めを用意だ。
「更なる通の使い方としては、頭に塗るって手まである。こいつぁ何と……」
「……何だ。何に効くっていうんだ?」
ニヤリと笑って、ズバリと告げた。
「何とだよ……抜け毛を減らすんだ」
「買った! 売ってくれ!!」
仕事のためか己のためか……しがみ付く勢いの客に対して気持ちよく商売をするラウリであった。代金を受け取り、商品を幾つか渡して、最後にガッチリと握手をした。いい商売とは互いに幸せを味わうものだ。満足の鼻息を髭に浴びせつつ振り返ったならば、黒髪碧眼の少年もまたウンウンと頷いている。
「お見事でした」
「ははは、幸先がいいってものだね」
毛皮仕立ての帽子も可愛らしく、キコ村の村長の息子たるマルコは微笑んでいる。ただしその肩書きは現在隠蔽している。彼は今、行商人ラウリの丁稚として馬車に乗っているのだ。実際は商人として教えることなど1つもなく、それどころか大人気商品「白透練」の製造元責任者でもあるわけだが、そんな本当の方がよっぽど嘘に聞こえる。
ラウリは揺れる車中をものともせずに今の取引を帳面をつけ終え、荷物の中の在庫数も再確認した。まだまだ充分な数がある。小さいから数を運べる上に単価が高いので行商向きだ。しかも客に笑顔の花を咲かせるのだからたまらない。思わず拝みたくなる。
(素敵な物だ。これを扱える私は幸せ者だよ、本当に)
まだ売り出して1年余りだが、各地に愛好家を産んでいる以上、そろそろ人手を増やして販路を確立させたいというのがラウリの本音だ。しかしマルコから止められている。増産体制が整っていないし、キコ村を取り巻く状況が投資を難しくしているからだ。
白透練……その主成分は矮馬の脂肪である。
瘴気に強く痩せ地をものともしない根菜クワンプは、その葉に独特の成分を含有している。熱湯にさらすことで抜くこともできるが、生のまま葉を食する矮馬にはソレが蓄積していって、やがて薬効の強い油へと結実するのだ。そう語ったマルコは最後に付け加えたものだ。これは北の少数民族の知識です、と。
無論のこと、販売はラウリが引き受けた。効能確かな白透練は売れに売れ、キコ村の貴重な現金収入手段となったわけだが、その人気が逆に仇ともなるのが商売だ。流通量を増大させたなら注目度の上昇に拍車がかかる。小商いの今だからこそ製法も製造元も秘匿できているが、それらが商家や貴族の知るところとなったなら、今のキコ村では豊かさを根こそぎに収奪されるだけ……というのがマルコの判断だ。
事実、半年ほど前に巡察官がキコ村へと派遣されてきた。ここのところ寒害と不作とが続いているにも関わらず年貢をキチンと納めたことが、返って不審を買ったらしい。白透練について調べるものではなかったようだが、しかし村が忽せにならなかった理由は白透練の売却益なのだから、危ういところであったと言えよう。マルコは平然と語ったが、聞いたラウリは冷や汗を拭ったものだ。
(ヘルレヴィ伯爵領は窮屈で知られているからなぁ。辺境に開拓村を多く抱えているし、兵站を担っているしで、仕方ないといえば仕方ないのだけど……情に欠ける気風なのは、伯爵様のお人柄によるところが大きいのかもしれないや)
毛布を肩からかぶり直し、ラウリは冬枯れの田園風景を見渡した。物寂しいものだ。片付けられないままに放置された麦稈巻きが方々で雨に崩れ果てている。家畜を維持できていないのだ。冬蒔きのシエラ麦が濃い緑色をまばらに見せているのがせめてもの救いか。
この地における税は量において少々厳しく、取り立てにおいて極めて融通が利かないことで知られている。酷に過ぎるわけではないが、不作を考慮して減免されるということがないのだ。その結果がこの風景である。わずか2年で幾つの村が貧困と刑罰とに打ち据えられたことだろう。幾人の農民が奴隷へと身をやつしたことだろう。
(まさかとは思うけど、わざとじゃないよねぇ……復興ももうじき10年の節目だ。軍馬の需要も落ちてきているし、産業の形態を変える頃合ではあるんだ。元手があるなら労働力を囲い込んで大きな事業を起こす好機だよ。それこそ矮馬専用の牧場をもっと増やすとか)
白い油が見せてくれる夢に思いを馳せてみて、しかしラウリは首を振った。ため息も1つ。
(いかんいかん、私は白透練に魅せられすぎだ。これさえあれば国中のお母さん方が助かるものなぁ……キコ村のご婦人方は本当に健康的だもの。何とかして中小の村々にも普及させたくなっちゃうよ。でもそれができる状況じゃないんだ。無理はできない。私の狭い了見でマルコくんを邪魔するわけにはいかないよ)
チラと横を向いたなら、マルコは静かに遠くを見据えている。ラウリがこの不思議な少年と出会ってから2年あまりが経った。今年で8歳となった幼竜は未だ天高く昇り上がる機を得ていない。新たなる戦乱がその機だとするならば、あと数年は今のままでいいとラウリは考えている。
知っているからだ。
どんな宿命を持つ者であれ、思いがけず落命するのが現実であると。
人の命は案外と安い。領主が「今年は徴税がうまくないな」と一考したのなら、その背景にはたくさんの人生の終焉や悲嘆が在る。何の気ない施策が生まれてくるはずの命を未然に断つこともあろう。戦場であれば尚更だ。1つの勝敗は無数の命が散った結果なのだから。誰であれ死ぬ時は死ぬ……ラウリは寒気を覚えて毛布を掻き抱いた。
「今年の冬も厳しいものになりそうですね。どうぞ」
マルコが自分の毛布を寄こしてきた。荷物に結わいつけたままにしていたものを、わざわざ広げてくれたらしい。ありがたいが、同時に情けなくもあるラウリである。
「暑がりなのです。この服も厚手に過ぎるくらいなのですが」
そう言ってマルコは己の帽子と服とをつまんだ。これにはラウリも苦笑いだ。
着脹れているのだ。用意したのはラウリなのだから居たたまれない。村長、その妻、そしてハンナという3人に強く望まれてのことである。出会った頃に比べると格段に大人の扱いをされているマルコであるが、それは行動や判断といったものに限った話で、こと健康面についてはむしろ干渉が増したようだ。
今回の領都までの旅路は、確かにマルコにとっては人生最長の行程になる。しかしラウリにしてみれば日常のことだし、幼竜たる少年にも些事だろう。彼の“不思議”は領都はおろか王都をも思考の枠内に入れているのだから。いかに保護者といえど……いや保護者だからか、とラウリは思い直した。
(どんな子であれ親は親だもの。お腹一杯食べさせたいと思うし、暖めたいと思うものなんだろうな。他の心配がないなら余計にそこに力が入るのかもしれない。それは素敵なことだね)
「何です? そんなに嬉しそうにして」
「ああ、ごめんごめん、愛されてるなぁと思って」
幼くして商家へ丁稚に出された身としては、少々の羨ましさがあるラウリだ。母親は泣いていた気もするが、父親は顔も覚えていない。実家でも商家でも1年を通じて半袖素足で働いたものだ。その観点からすると、マルコの装いは些かと言わず丁稚に相応しくないのかもしれない。
(けど、折角の思いやりだもの。大事にしたいよね)
マルコもきっとそう考えているのだろうとラウリは思う。蒸れるのだろうか、何度も帽子をかぶり直しながらも、その毛皮のモコモコを頭から外そうとはしない。今も位置を直しただけだ。少々寸法が大きいため幼さと可愛らしさとが強調されてしまい、本人は知ってか知らずか、美幼女といった見た目である。
「む……何やらそこはかとなく不快感が」
「やあ、そんな不孝なことを言っちゃいけないよ」
「いえ、そちらではなくて……まぁ、孝行息子を自認しているわけでもありませんが」
「そうかな? 他のどんな子よりも孝行している気がするけども」
その言葉に首を振って返して、マルコはため息混じりに呟いた。
「鬼子の罪滅ぼしですよ」
伏せたその横顔はひどく儚く悲しげで、思い描いている人物が誰であるかをラウリに教えている。ラウリもまたその人物を思った。苦しさを億尾にも出さないでマルコを心配していたその人は、今も旅の安全を祈っていることだろう。
マルコの母の病はいよいよ危うい。
この冬を越えたところで、夏まではもつまい……それが誰しもの一致した見解だった。
ヘルレヴィ伯爵領、領都。
正確な数字は分からないにしろ、どんなにか少なく数えても五万人以上の人々が集まり暮らす都市である。街を囲う外城壁は高く堅牢で、それは内城壁や城も変わらない。行禍原に隣接するサルマント伯爵領やペテリウス伯爵領がエベリアに抜かれたのなら、後は大河たる東龍河があるきりで、その対岸はヘルレヴィ伯爵領なのだ。常備兵こそ少ないものの城砦としての防衛意識は高い。
正門からの入都を済ませたラウリとマルコだが、夕暮れの迫るその門前広場は時ならぬ喧騒と混乱とにごった返していた。ボロボロになった人、馬、荷車……商家の輸送団が賊に襲われたのだ。けが人の中に武装した人間が混じっているところから見て、護衛を随伴していたことは間違いない。兵士たちの取調べが続いている。
「賊が出るとは聞いていたけど、まさか、こんな領都近くでまで……」
ラウリは恐怖を感じざるをえなかった。被害にあった者たちの様子から見て、襲撃の時と場所とはラウリたちの至近であったと推察できるからだ。ただの乗合馬車など実入りが少なかろうから狙われまいが、巻き込まれたならばどうなっていたかわからない。
領都へ平穏無事に辿り着いたことはマルコの母の祈りの結果なのかもしれない。ラウリは本心からそう思い、キコ村の方角へ頭を下げた。
「……遅い」
そう声を発したのはマルコだ。その視線は門の外へと向けられている。誰もが被害者たちに注目する中で、ただ1人、そうしていたようだ。
「何が遅いんだい?」
「即応部隊の出撃がです」
ラウリの方を振り返りもしない。その眼光は鋭い。
「寸刻を惜しんで追討の戦力を出さないと、次の被害は時間の経過と共に増大していくばかりですよ。領内全体の危険度も同様です。それなのに斥候すら放たれた様子がありません」
見ている間にも兵士は集まりつつある。城壁の上には弓を携えた兵が、門の前後には槍を携えた兵が、それぞれ200名ほどにはなったろうか。
「ええと……兵隊はまだまだ集まるのだろうし、何しろこの城壁だし、賊に負けることはないと思うんだけど……」
おどおどと言うラウリである。軍事に関しては素人だ。壁と兵とが目に見えることに安心を感じていたところへ、先のマルコの発言である。少し腰が引けていた。
「あれを見てください」
マルコが指差すのは被害者たちだ。
「あの護衛、武装から見ていずこかの傭兵団でしょう。戦歴もありそうです。そんな集団戦力をこうも打ち破っておきながら、馬と荷車を逃がしています。これは襲撃の目的が掠奪ではないことを意味します」
「賊が……掠奪しないで、何をするの?」
「瀬踏みですよ。この襲撃は十中八九、領都の即応能力を試すためのものです。領内最大の戦力を有するこの都の近くで襲撃を行い、獲物をわざと逃がして、その後の様子を窺う……見切られ、侮られたならば……」
眉根は顰められ、綺麗なはずの声は重苦しい雰囲気を醸しだした。ラウリは口中に溜まっていた唾を大きく飲み下した。
「あ、侮られたならば?」
「次には大胆な襲撃でもって甚大な被害をもたらすでしょう。或いは何かしら大規模作戦を計画しているのかもしれません。まず碌なことはありませんよ」
冷たく言い切ったマルコを、ラウリはただただ見やるよりない。
結局、領都から斥候兵が出発したのは翌朝になってからであった。