第8話:追放された護衛騎士
閉まった扉の向こうで、荷車の音がした。
いつもなら、そろそろ朝の仕込みを始める時間だ。
鍋を火にかけて、パンを切って。私がティアを可愛いと言って、ティアが先に手を洗ってくださいと言う。
今朝は、三人とも椅子に座っていた。
エスメラルダの脇に置かれた煙管には、火がついていない。
彼女はそれを指先で少し転がしてから、私を見た。
「まず、姫の具合だ」
私は、うなずいた。
最後に会ったときのことから、順番に話した。
寝台に腰掛けていたこと。こちらが入っていくと、ちゃんと顔を上げたこと。
最初に会ったときより、受け答えはしっかりしていた。ただ、首輪の下にはまた傷ができていた。
そこまで話したところで、ティアが両手を膝にそろえた。
「傷の手当ては、できました。ですが……首輪を外す許可は、いただけませんでしたので」
「次に引かれりゃ、また同じか」
ティアが、小さくうなずく。
エスメラルダは、怒鳴らなかった。
テーブルを叩くこともなかった。
ただ、煙管から指を離した。
「飯は」
「食べてるとは言ってました。どのくらいかは、見られなくて」
「眠れてるか」
「そこまでは……ごめんなさい。聞けませんでした」
確かめていないことが、こんなにある。
会えた。話せた。傷を治せた。
それで、前より少しは良くなったと思いたかった。
でも、この人が知りたいのは、会っていない時間のあの子だった。
一人になったあと、ちゃんと食べているのか。夜、眠れているのか。
私たちが扉を出たあとも、あの部屋には姫が残っている。
「分からねえなら、それでいい。適当なことは言うな」
「……はい」
責められた感じは、しなかった。
だから、余計に、次はちゃんと聞こうと思った。
謁見の間で見たことも話した。
魔術師が持っていた鎖。王の言葉。姫を連れていった、大きな騎士。
あの子が、私の腕に噛みついたことも。
「それでも、次には話してくれたんだね」
「うん。私たちの話も、聞いてくれた」
エスメラルダの肩が、ほんのわずかに下がった。
私は、あの金色の瞳を思い出す。
「あと、怒られました」
「何をした」
どうして、私が何かした前提なんですかね。
したんですけども。
「いきなり触るのは、淑女に対して失礼だって」
エスメラルダの口元が、少しだけ動いた。
「……言いそうだね」
「噛んだことは、ちゃんと謝ってくれたよ。そのあとで叱られた」
「そりゃ、別の話だからね」
そこで初めて、彼女は笑った。
店でお客さんへ向ける、明るい笑顔とは違った。
目の前にいない誰かを見つけたような、短い笑みだった。
ああ。
こういう顔も、するんだ。
胸の奥が、きゅっとした。
女の子の知らない顔を見つけると、私はすぐ、もう一度見たいと思ってしまう。
こんなときまで、と思う。でも、こんなときにしか見えなかった顔なのも、確かだった。
「エスメラルダ」
「何だい」
「姫のこと、ずっと前から知ってるんだね」
彼女は、少し黙った。
それから、背もたれに預けていた体を起こした。
「あーしは、あの国で騎士をやってた」
白い髪が、肩から滑る。
「王国騎士団の副団長。持ち回りの仕事もあったが、姫の直属の護衛も任されてたよ」
思わず、姿勢を正した。
副団長。
お姫様の、護衛。
強い人だとは思っていた。
酔っ払いが声を荒らげても、眉ひとつ動かさない人だし。大きな樽を動かすときも、私とは力の使い方が違った。
でも、そういう強さに、ちゃんと名前があったのだ。
私は、その人を、棚の前で抱き上げた。
……よく両腕がついたまま、今ここに座れているな。
「どうした」
「いえ。あの日の自分を、ちょっと振り返ってました」
「振り返る心当たりが多そうだね」
否定は、できなかった。
*
「追い出されたのは、戦争が始まるより前だ」
エスメラルダは、淡々と話し始めた。
冬の長かった年。
国境に近い村へ送るはずの食料が、雪で届かなくなった。
近くには騎士団の備蓄倉があったけれど、そこを開けるには許可が要った。
「若い部下がいてね。腹を空かせた村の連中を見ちまった」
まだ、騎士になって間もない娘だったという。
倉庫の鍵を預かっていた彼女は、許可を待たずに食料を持ち出した。
村の人たちに配ったあとで、エスメラルダのところへ来た。
「泣きながら、全部話したよ。戻せって言われたって、もう食っちまったあとだ」
「……助けたかったんだね」
「ああ。ただ、その飯を食う予定だった連中もいた」
私は、口を閉じた。
「国境の詰め所へ回す分だった。何日分だの、次がいつ届くだの、あの子は知らなかった。足りなくなった分は、あーしが金を出して、別のところからかき集めた」
助けたいと思った。
動いた。
そこで話が終わらなかったのだ。
膝の上で、指を組み直す。
私も、姫に全員で帰ろうと言ったとき、何人いるのかさえ知らなかった。
「それで、エスメラルダさんが、責任を……?」
ティアの問いに、彼女は首を横に振った。
「監督が足りなかった、で済ませる道もあっただろうさ。でも、あーしは、その子が独断でやったことにはしなかった」
副団長である自分が、持ち出せと命じた。
そういう書類を、あとから作った。
部下が盗んだ食料は、命令を受けて運び出した食料になった。
その代わり、無断で軍の物資を流し、書類まで偽った責任者が、一人できた。
「騎士が、都合のいい命令書を好きに作っていいわけがない。肩書きも、仕事も、なくなった。国の外で暮らせ、とさ」
彼女は、テーブルに目を落とした。
「あの子には、補填した分を返させる約束をしたよ。泣いて終わりにするな、次に誰かの腹を満たすなら、最後まで考えろってね」
「その人は、今も……?」
「戦争が始まってから、便りは途切れた」
答えは、短かった。
私は、その先を聞けなかった。
エスメラルダは、置いたままの煙管を持ち上げた。
けれど、やっぱり火はつけない。
「……何だい。その顔」
「ううん」
慌てて、首を振った。
いい人ですね、と言いそうになって、飲み込んだのだ。
きっと、いい人だ。
でも、その一言を言って終わりにしたら、追い出されたあとの日々も、返ってこなくなった手紙も、全部きれいに片づいてしまいそうだった。
私は、この人がどんな気持ちで国を出たのか、まだ知らない。
「姫は、そのことを知ってるの?」
エスメラルダの目が、少し細くなった。
「詳しいことは、話してない。あーしがやったことだって、それだけ言った」
「どうして」
「あの方なら、何とかしようとするだろ。自分の護衛を戻せだの、処分が重いだの。そうやって庇わせりゃ、今度は、あの方まで揉め事の真ん中だ」
姫を守るのが、仕事だったからね。
そう付け足して、彼女は少しだけ、口を曲げた。
「……ってのは、こっちの言い分だ。説明もしねえで決めたんだから、ずいぶん腹も立っただろうよ」
私は、あの子の怒った顔を思い浮かべた。
自分が逃げたあと、民がどんな目に遭うかを考えていた子。
自分の首に傷ができているのに、この人が食事をしているかを気にしていた子。
きっと、引き止めたかったと思う。
「最後に会ったとき、何か言われた?」
「いろいろね。ろくに目も合わせちゃもらえなかった」
少し間が空いた。
「それでも、出立する朝には、食い物を持ってきた」
私は、顔を上げた。
「旅の荷物はあるって言ったんだけどね。これは自分の目で確認した分だから持っていけ、って。パンと、肉と……ああ、干した果物も入ってたか」
エスメラルダの指が、何もないテーブルの上で、包みの大きさを示した。
「人に分けて、自分の分をなくすんじゃないのだわ、だとさ」
あの声で、聞こえた気がした。
私は少し笑ってしまって、でも、笑ったまま息を吸うのは、難しかった。
「……同じこと、心配されてる」
「うるさいよ」
エスメラルダも、短く笑った。
そのあとで、笑みが消えた。
「こっちで店を持って、ようやく食うに困らなくなった頃だった。国が攻められたって、聞いたのは」
壁の向こうで、誰かが朝の挨拶を交わしていた。
荷車の音が遠ざかり、別の足音が近づいて、また通りすぎていく。
この人は、どこで、その知らせを聞いたのだろう。
同じように朝の仕込みをしている最中だったのかもしれない。
その前の日まで、故郷に帰れなくても、姫は城にいると思っていたのかもしれない。
「あーしが守ってた相手が、すぐそこにいる。なのに、会うこともできない」
白い髪が、伏せた頬を隠した。
「あの方のために、城から離れたつもりだったのにね」
ティアの指が、膝の上で動いた。
伸ばしかけて、止まる。
私も、何か言いたかった。
あなたのせいじゃない、と。
きっと、そうだ。
でも、その言葉をこの人が自分に言えなかった時間を、私は知らない。
ただ、黙って続きを待った。
*
「貴様らが、初めてここへ来た晩な」
エスメラルダが、顔を上げた。
「姫に頼まれたって、言っただろ」
「うん」
「……嬉しかったんだよ」
私は、瞬きをした。
あの夜の、冷たい目を思い出す。
人間の私たちを見て、何をしに来たと聞いた声も。
「まだ、あーしの名前を出してくれるのかって。あの方は、あーしを忘れてなかったのかってな」
煙管を持つ手が、止まっていた。
「それに……二人も来た。城に入れて、姫に会えるやつが。傷まで治せるって言う」
彼女の視線が、ティアへ移る。
「あーしには、こっちの暮らしを支えるので精いっぱいだった。食い物を買う。寝るところを探す。仕事を回す。そりゃ手を貸してくれる連中もいる。でも、誰にでも、城へ刃物を持って乗り込んでくれとは頼めない」
前に連れていってもらった家を、思い出した。
鍋の前に立つ女性。壊れたテーブルを直していた人。
あの人たちにも、やっと手に入れた一日がある。
「一人で姫のところへ行ったら、こっちが空く。働かされてる連中のところへ行けば、姫に手が届かない。考えたって、毎度、そこで止まった」
テーブルの上に、指が一本置かれた。
少し離れた場所に、もう一本。
「そこへ、貴様らが来た」
今なら、私でも考える。
できるかもしれない、と。
ずっとできなかったことが、目の前の二人となら。
「嬉しくなったあとで、怖くなった」
エスメラルダは、こちらを見た。
「王に呼ばれた人間だ。何を握らされてるかも分からない。姫の名前を使って、こっちの腹を探りに来たのかもしれない」
「……うん」
「たとえ本気でも、可哀想だってだけで踏み込んできて、危なくなったら逃げるかもしれない。そのあとに残るのは、こっちなんだよ」
膝の上の手を、少し強く握った。
私は、この国を出ていける。
あの身分証を見せて、勇者です、と言って。
この人たちは、そうはいかない。
「なのに、信じたいと思っちまった。馬鹿だね。会ったばかりの相手に、もう、期待してたんだよ」
胸の奥が、痛かった。
期待しないで済むなら、そのほうが楽だ。
嬉しくなったぶんだけ、違ったときには痛い。
私も、一度好きだと言えなくなってから、何度もそうやって口を閉じた。
もちろん、同じだなんて思わない。
この人が抱えていたのは、自分の気持ちだけではなかった。
「だから追い返したのに、また来やがるし」
あ。
その件については。
「すみません。あれは、本当に泊まるところがなくて」
「分かってるよ。あんな情けない顔で床に頭を擦りつけられりゃ、分かる」
「そんなに、情けなかった?」
「だいぶね」
隣を見た。
ティアは、急にテーブルの木目を見つめた。
そこで否定してくれない女神さまも、正直で好きです。
今、私の尊厳は、どのくらい床に残っているんでしょうか。
「泊めて、飯を食わせて、一日働かせりゃ、気が済んで出ていくかと思ってた」
エスメラルダは、小さく息を吐いた。
「……出ていかないでくれりゃいいとも、思ってた」
私は、何も言えなかった。
叩き起こされた朝も。
皿を運べと怒鳴られた昼も。
あの人の中には、そんな気持ちがあったのだ。
「見てたよ。店でも、街でも」
エスメラルダは、ティアを見た。
「手が割れた相手を見りゃ、先に断って、膝をつく。自分の仕事で頭がいっぱいでも、痛がってるやつは放っとけない」
ティアが、戸惑ったように目を伏せた。
「わたくしは……できることが、少ないので」
「少なくたって、できることをやったろ」
私は、ティアの横顔を見た。
耳の上の銀髪が、頬へ落ちている。
その下が、少し赤い。
そうでしょう。
うちの女神さま、すごくいいでしょう。
なぜ私が得意になっているのかは、分からない。
でも、私の大好きなところを他の人にも見つけてもらえると、嬉しかった。
できれば、もう少し褒めてほしい。この人、いつも自分のできなかったことばかり数えるから。
「それから、あんた」
こちらへ、視線が戻った。
「口を開けば、誰かを口説いてる」
評価の落差。
「いや、その、仕事は」
「してるよ。それで、道も覚えてきた。あの酷い絵を描いて、分からねえことを埋めようともしてる」
「絵については、地図って呼んでもらえると」
「地図なら、他人にも道が分かるように描きな」
返す言葉が、ございません。
「……姫のところにも、また行ったね」
私は、うなずいた。
「一度断られて、終わりにしなかった。連れ出せなくても、傷を治しに行った。戻ってきて、あーしに飯を食えって言った」
エスメラルダの声が、少しだけ柔らかくなった。
「この数日で、何もかも分かったとは言わない。それでも……最初の晩より、貴様らの顔は知ってる」
火のついていない煙管が、静かにテーブルへ戻された。
「だから、もう一度聞く。何で、姫を助けたい」
私は、息を吸った。
ちゃんと答えたいと思った。
そう思うほど、立派な答えを探してしまいそうだった。
平等とか。正義とか。
それが間違いだとは思わない。
でも、私が袋を外して見たのは、そういう言葉ではなかった。
「……可愛かったから」
エスメラルダの眉が、動いた。
ティアは、驚かなかった。
「あの子を見て、可愛いって思った。もっと普通に話したかったし、笑った顔も見てみたかった。私に噛みつかなくてもいいところで、会いたかった」
目をそらさずに、続けた。
「鎖をつけられて、苦しんでるのが嫌だった。あの子が、あれを仕方ないって我慢しなきゃいけないのも、私は嫌」
言葉にすると、つくづく自分の話ばかりだった。
「助けたら、好きになってくれないかなって気持ちも、あるよ」
エスメラルダが、片方の眉を上げた。
「それで、好かれなかったら?」
「めちゃくちゃ落ち込む」
即答してしまった。
「でも、助けるのをやめたりはしない。あの子が私を好きかどうか、分かるまで待ってたら、その間ずっと痛いままじゃん」
姫に嫌われたくはない。
できれば好かれたいし、あわよくば一緒にお出かけをして、可愛いお洋服を選び合ったりもしたい。
それは、それとして。
「断るときには、好きに断れるところにいてほしい」
自分で言って、少しだけ胸が痛んだ。
断られる場面を想像するのは、今でも苦手だ。
でも、そこまで私の都合にしたくなかった。
エスメラルダは、しばらく黙っていた。
それから、鼻で小さく笑った。
「変な女だね」
「それは、否定できないです」
隣で、ティアが息を漏らした。
笑いをこらえるみたいな音だった。
見れば、口元に指を添えて、こちらを見ている。
その目が、すごく優しかった。
……今、そんな顔をしないでほしい。
ちゃんと真面目に、最後まで話し終えたところなのに。
もう一回くらい格好よく何か言おうかな、なんて、いらないことを考えてしまう。
「あんたは、どうなんだい」
エスメラルダが、ティアへ問いかけた。
「あの城で、あーしらのやろうとしてることが知られりゃ、ただじゃ済まない」
ティアの指が、膝の上で重なった。
「……怖いです」
声は、小さかった。
けれど、続きは、ちゃんと聞こえた。
「お二人が話していらっしゃる間も、何が起こるだろうと、考えてしまいました。わたくしは、戦えません。慌てると、簡単なことも間違えます」
私は、隣の手を見た。
朝、杯を二つ、大事に持って階段を下りていた手。
傷のある人へ触れるときには、いつもそっと伸びる手。
「それでも、姫の傷を治して、また同じところへお返しするのは……もう、つらいです」
ティアが、顔を上げた。
「お腹が空けば、食べられるところへ。眠たくなったら、安心して目を閉じられるところへ。あの方も、働かされている皆様も、お連れしたいです」
私は、テーブルの下で手を伸ばした。
ティアの指先へ、そっと触れる。
一瞬、びくりとしたその手が、私の指を握った。
「怖くなくなってからでは、いつまでも、できないと思いますから」
ああ。
大好きだな。
今すぐ言いたくなったけれど、今はティアが話している。
だから、握った手へ少しだけ力を返した。
エスメラルダは、その小さな動きにも、気づいたようだった。
視線を落として、それから、私たちの顔を順番に見る。
「……分かった」
彼女は、ゆっくり息を吐いた。
「あーしも、手を貸す」
胸の奥で、ずっと張っていたものが、緩んだ。
私は、思わず椅子から腰を浮かせた。
「ほんとに?」
「一人でできることは、さんざん考えた。それで届かなかったんだ。貴様らと考えたら、違うところへ手が届くかもしれない」
エスメラルダは、こちらを見たまま、言った。
「姫を、取り戻したい。民も帰してやりたい。そのために、あーしにも、貴様らの手を貸してくれ」
その言い方が、嬉しかった。
私たちを信用してくれたことも。
自分がそうしたいのだと、言ってくれたことも。
「うん」
私は、空いている手を、テーブルの上へ出した。
「一緒に、考えよう」
緑色の手が、少し迷ってから伸びてきた。
握ると、温かかった。
指のつけ根に、硬いところがある。
この人も、ずっと、自分の手で何とかしてきた人なのだ。
嬉しくて、頬が緩んだ。
そして、この流れで両手を使って包み込んだら、かなりいい雰囲気になるのでは、とも思った。
思っただけです。
片方は、ティアとつないでいるので。
「……あんた、その顔で何を考えてる」
「エスメラルダも、大好きだなって」
「話を聞いてたかい?」
「聞いてたから、思ったんだけど」
彼女は、少しだけ口を開けた。
それから、私の手を一度、強く握って離した。
「その口は、朝飯を食わせりゃ止まるかね」
不機嫌そうな声だった。
でも、目は、もうそらされなかった。
*
結局、三人で仕込みをして、少し遅い朝食を食べた。
ティアはパンを切りながら、人数を何度も確認していた。
私は鍋をかき混ぜつつ、仕事前に話すことはまだあるのかと聞いた。
「あるが、腹に何か入れてからだ」
エスメラルダに言われて、私はうなずく。
それから、器を三つ出した。
「エスメラルダも、座ってね」
「分かってるよ」
本人の前へ置いたパンを、彼女が私の皿へ一つ移そうとしたので、手で止めた。
「それは、自分の分」
白い眉が、少し寄った。
隣でティアが、笑ってしまった。
食べ終えると、私は地図を持ってきた。
角が少し丸まった紙を広げる。エスメラルダが、煙管を重しにした。
「城。東の採石場。それから、坑道のほうだ」
彼女は、順に指を置いた。
「どこか一つが騒ぎになれば、残りの連中を使って、止めにくる」
「姫が逃げたら、働かされてる人たちが危ない。逆でも、同じなんだね」
「ああ。姫を先に助けて、次は明日、なんてわけにはいかない」
ティアが、地図をのぞき込んだ。
銀の髪が落ちかけて、彼女は慌てて耳へかける。
「では、同じときに……?」
「少なくとも、向こうが人質をまとめ直す前に、全員が動き出せるようにする」
全員。
口にするのは、簡単だった。
紙の上では、指を少し動かすだけで、一つの場所から別の場所へ行ける。
でも、実際には、鎖がある。
門がある。見張りがいる。
歩けない人も、いる。
「人数と、歩けない人がどのくらいいるか。まず、そこを知りたい」
私は、紙の余白へ書いた。
「連れ出したあと、どこを通るかも。馬車が要るなら、何台か考えないと」
「荷車なら、あーしも当てがある。だが、空で借りられる日と、道は確かめなきゃならない」
エスメラルダの指が、別の場所へ移った。
「それから、こっちの店や家に残る連中だ。助けに手を貸したと知られりゃ、そいつらが代わりにつかまる。帰りたい連中を逃がして、それで終わりとはいかないよ」
私は、余白へもう一つ書き足した。
知られないようにすること。
危ない場所に、置き去りにしないこと。
考えることが、どんどん増えていく。
なのに、さっきまでより、嫌な感じはしなかった。
「……城の中のことなら、私たちが確かめられるね」
「次の治療を頼めるならね。ただし、探りを入れすぎるんじゃないよ。今は、疑われずに姫へ会えることに、値打ちがある」
私は、うなずいた。
身分証があれば何でもできるわけじゃない。門で待たされた時間を、もう知っている。
「採石場と坑道には、話を届ける口を探す。ここにいる連中の、家族や知り合いもいるからね。本人たちがどう動けるかを聞かずに、外から決めるわけにはいかない」
エスメラルダは、紙から顔を上げた。
「今日は、知ってることと、知らないことを出し切る。出したら、それぞれ確かめる。話を持っていく相手は、あーしが選ぶよ」
「分かった」
「姫にも、あーしが動くと伝えてくれ。勝手に待ってろと言うんじゃない。あの方の知ってることと、できることも聞きたい」
私は、顔を上げた。
エスメラルダは、地図を見ていた。
さっき、自分が国を出た日の話をしたときと、同じ顔ではなかった。
「うん。ちゃんと、話す」
隣で、ティアもうなずいた。
その拍子に、袖が炭の欠片へ触れた。
ころりと転がったそれを、彼女が慌ててつかむ。
「あっ……」
指先が、黒くなっていた。
「大丈夫。洗えば落ちるよ」
「紙は、汚しておりませんか?」
「うん。ちゃんと守ってくれた」
濡らした布を渡すと、ティアはほっとした顔で受け取った。
私は、笑ってしまう。
こんなふうに、指先を黒くする女神さまだ。
怖いと言いながら、それでも、ここに座ってくれている。
前にこの紙を広げたときは、二人で、分からないところを見ていた。
今は、向かいにもう一人いる。
私たちの知らない道を知っていて、同じ人を助けたいと思っている人が。
エスメラルダが、腰へ手をやった。
上着の陰から、革の鞘に収まった短いナイフがのぞく。
一本ではない。左右に、一本ずつ。
「腕っぷしの要るところは、あーしが考える。だからって、あんたが勝手に刃物の前へ出るんじゃないよ」
「まだ何も言ってないのに」
「言ってないうちに、言っとくんだ」
隣からも、青紫の目が向けられた。
分かりました。
そんな、二人そろって見なくても。
「まずは、怪我をしなくて済むやり方を考える。ね?」
私が言うと、ティアは、ようやく小さくうなずいた。
エスメラルダが、地図の城へ指を置く。
「帰るときには、姫も、連中も一緒だ」
「エスメラルダもね」
指が、止まった。
彼女は私を見て、それから、少し困ったように眉を寄せた。
「……あーしは、追い出された身だって話をしたろ」
「聞いたよ。だから、それも姫と話そう。エスメラルダだけ、最初から帰らないことにしないで」
うまくいく保証はない。
でも、あの子が、この人の食事を気にしていることは知っている。
「私は、一緒に帰りたいよ」
エスメラルダは、しばらく私を見ていた。
それから、目を伏せて、紙の丸まった角を伸ばした。
「……まずは、あの方を迎えに行かないとね」
帰らない、とは言われなかった。
私は、紙の端を押さえる。
あの子を、迎えに行こう。
この人も、一緒に帰れるように。
テーブルの上で、三人の手が、同じ地図を囲んでいた。




