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『星を編む渡し守』

『星を編む渡し守』


第一章 夜に舟を出す者


 山々に囲まれたリュミエルの村では、夜になると誰も山の向こうを見ようとはしなかった。


 恐れているからではない。


 夜には夜の仕事があり、それは人間の目で見届けるものではないと、村人たちは昔から知っていたのである。


 夕暮れになると家々の窓には明かりが灯り、夕食を終えた人々は静かに眠りにつく。子どもたちは「願いごとは寝る前に心の中だけで唱えなさい」と教えられて育つ。声に出した願いは風へ散るが、胸の奥で生まれた願いだけは、夜空へ届くのだという。


 十七歳のリオも、その言葉を幼い頃から聞いて育った。


 もっとも、彼にはそれが迷信ではないことを知っていた。


 日が完全に沈む頃になると、彼は村外れの小屋へ向かう。壁には煤が付き、屋根には苔が生えている古い舟小屋だ。昼間にそこを訪れる者はいない。


 軋む扉を開くと、一艘の小さな木舟が静かに待っていた。


「遅れるなよ。」


 背後から声がする。


 祖父のオルドだった。


 白い髭を胸まで伸ばした老人は、灯火を片手にゆっくり歩いてくる。年老いてはいるが、その足取りは不思議なほど確かだった。


「今日は風が強い。川の流れも少し速くなる。」


「分かってる。」


「分かっているならいい。」


 それだけ言って老人は舟へ手を添える。


 毎晩繰り返される会話だった。


 オルドは村で唯一の渡し守であり、リオはその見習いだった。


 ただし運ぶものは人ではない。


 願いである。


 舟を押し出すと、夜の川は月明かりを映しながら静かに流れていた。


 昼間にはどこにでもある山の川にしか見えない場所だったが、夜になると景色は一変する。


 水面には無数の光が漂っていた。


 青く。


 白く。


 時には金色に。


 蛍よりも小さな光がゆっくりと流れ、川全体が星空を映した鏡のように輝いている。


「今日も多いな。」


 リオが呟く。


「収穫祭が近いからだ。」


 オルドは当然のように答える。


「豊作を願う者もいる。家族の病が癒えるよう願う者もいる。若者は恋を願い、老人は静かな朝を願う。」


 老人は一つの光を掬い上げる。


 手のひらへ乗せられた光は小さく震え、春先の若葉のような淡い緑色をしていた。


「これは?」


「生まれてくる子どもの幸せを願う親の光だ。」


 光は再び川へ戻され、ゆっくりと流れていく。


「願いには色がある。」


 それもリオは何度も聞いてきた。


 喜びは金。


 祈りは白。


 悲しみは青。


 しかし祖父は最後まで教えないことが一つだけあった。


 黒い光だけは、決して見つめるな。


 その理由だけは話してくれなかった。


 二人は舟を漕ぎながら、流れてきた光を枝や岩へ引っ掛からないよう川の中央へ戻していく。


 それだけの仕事だった。


 誰にも感謝されない。


 誰にも知られない。


 それでも、この流れが滞れば願いは空へ届かなくなる。


 夜半を過ぎる頃、オルドが舟を止めた。


「今日はここまでだ。」


 リオも櫂を止める。


 見上げると、空には数え切れないほどの星が広がっていた。


 川と空。


 どちらが星を映しているのか分からない。


 そんな夜だった。


「じいさん。」


「何だ。」


「願いって、本当に全部届くのかな。」


 老人は少しだけ考えた。


「届く願いもある。」


「じゃあ届かない願いは?」


「……それを運ぶために、わしらがいる。」


 答えはそれだけだった。


 帰り道、リオは妙なことに気付く。


 川岸に誰かが座っている。


 村人ではない。


 白い衣をまとった少女だった。


 月明かりの中で膝を抱え、まるで何時間もそこにいたかのように水面を見つめている。


 こんな時間に。


 こんな場所へ。


 人が来ることなどない。


 リオは舟を岸へ寄せた。


「君、大丈夫?」


 少女はゆっくり顔を上げる。


 銀色にも見える淡い髪。


 夜空を映したような瞳。


 どこか悲しそうなのに、不思議と涙は浮かんでいなかった。


「ここが、どこか分からない。」


 小さな声だった。


「村の人?」


 少女は首を横に振る。


「名前は?」


 少しだけ考え、答える。


「……エナ。」


 それだけだった。


「家族は?」


 沈黙。


「覚えてない。」


 その言葉を聞いた瞬間だった。


 舟の後ろで祖父が立ち上がる。


 老人は少女を見るなり、顔色を変えた。


「リオ。」


 低い声だった。


「舟へ乗せるな。」


「でも──」


「乗せるな。」


 その口調には、一度も聞いたことのない厳しさがあった。


 エナは何も言わない。


 ただ夜の川を見つめ続けている。


 その肩へ、流れていたはずの光が一つも近寄ろうとしないことに、リオはまだ気付いていなかった。


 それが、この世界の理から外れた少女であることを示す、最初の兆しだった。



第二章 願いの流れる川


 翌朝、村はいつもと変わらぬ朝を迎えた。


 煙突から白い煙が立ち上り、鶏が鳴き、畑へ向かう人々が笑顔で挨拶を交わす。


 夜の出来事など、誰一人知らない。


 リオだけが、昨夜見た少女のことを考えていた。


 朝食の席で何度か祖父へ尋ねようと思ったが、オルドは黙ってパンをちぎり、温かな野菜の煮込みを口へ運ぶだけだった。


 重い沈黙が食卓を包む。


 耐えきれず、リオが口を開いた。


「昨日の子は、何だったんだ。」


 祖父の手が止まる。


「忘れろ。」


「記憶がないだけじゃないか。」


「違う。」


 それだけ言うと老人は椅子を引き、外へ出てしまった。


 答えは得られなかった。


 しかし「違う」という一言だけが、かえってリオの胸へ残った。


 その夜、舟を出す時刻になっても、リオは決めかねていた。


 祖父の言葉に従うべきなのか。


 それとも、もう一度少女を訪ねるべきなのか。


 結局、彼は櫂を握ったまま、小屋を出た。


 舟は静かに夜の川へ滑り出す。


 昨夜と同じ岸辺。


 そこには、やはり少女が座っていた。


 昼も夜も動かなかったかのように、同じ姿勢で水面を見つめている。


「また来た。」


 エナは小さく微笑んだ。


「待ってた。」


「待ってた?」


「分からない。でも、来る気がした。」


 その言葉に、リオは少しだけ笑う。


「昨日から何か思い出した?」


 エナは首を横へ振る。


「名前だけ。」


「それ以外は?」


「何も。」


 記憶を失ったというより、初めから何も持たず生まれたような声だった。


 リオはしばらく迷い、やがて舟へ手を差し伸べた。


「少しだけ乗る?」


 エナは驚いたように目を見開く。


「いいの?」


「……本当は駄目らしいけど。」


 祖父には怒られるだろう。


 それでも、一人で夜の岸辺へ残していくことはできなかった。


 少女は恐る恐る舟へ乗り込む。


 その瞬間だった。


 川を流れていた光が、一斉に舟から距離を取る。


 今まで穏やかに漂っていた願いたちは、水面へ小さな波紋を描きながら、まるで見えない壁を避けるように左右へ分かれて流れていった。


「……何これ。」


 リオは初めて見る光景だった。


 願いは人を恐れない。


 舟も祖父も自分も避けたことなど一度もない。


 なのにエナだけを避けている。


 エナは申し訳なさそうに俯く。


「やっぱり降りる。」


「違う。」


 リオは慌てて首を振った。


「君が悪いわけじゃない。」


 そのまま舟を漕ぎ出す。


 やがて夜は深まり、川幅が広がっていく。


 岸辺の木々は姿を消し、水面と星空だけの世界になる。


 エナは息を呑んだ。


「きれい……。」


「初めて見る?」


「うん。」


「ここが星の川。」


 エナは身を乗り出し、流れる光へ手を伸ばす。


 しかし光は指先へ触れる前にふわりと離れ、また静かに流れていく。


 触れようとしない。


 拒むでもなく、逃げるでもなく、ただ届かない。


 リオは胸の奥に小さな痛みを覚えた。


「願いなんだ。」


「願い?」


「人が眠っている間だけ流れる。」


 エナは一つ一つの光を目で追う。


「みんな、どこへ行くの?」


「空へ。」


「どうして?」


「……そういうものだから。」


 答えながら、自分でも曖昧だと思った。


 祖父に教わったことをそのまま口にしただけで、本当の理由は知らない。


 舟はさらに上流へ進む。


 すると霧の向こうに、一面の白い花が咲く丘が現れた。


 月明かりを受け、無数の花弁が静かに揺れている。


「花?」


「願いだよ。」


 リオが説明する。


「渡せなかった贈り物は花になる。」


 風が吹く。


 白い花びらが夜空へ舞い上がる。


 その一枚一枚が小さな光を宿し、まるで星が咲いているようだった。


 エナは花畑へ降り立つ。


 一輪の花へそっと触れた。


 その途端、花は淡い光を放ち、一人の若い女性の姿を映し出した。


 女性は胸に抱えた小さな花束を見つめ、何かを言おうとして微笑み、そして光とともに消えていく。


「この人……。」


「渡せなかったんだろうね。」


「誰に?」


「分からない。」


 リオは静かに答える。


「僕らは願いを運ぶだけだから。」


 エナはしばらく花畑を見つめていた。


「悲しいね。」


「そうかな。」


「うん。でも、少し優しい。」


 リオはその言葉を聞き、祖父なら絶対にそんな表現はしないと思った。


 悲しい願い。


 優しい願い。


 運ぶだけでは見えないものを、エナは見ているのかもしれない。


 二人は再び舟へ戻る。


 花畑の光はゆっくり遠ざかり、夜の川だけが静かに続いていた。


 そのはるか後方で、一艘の舟が音もなく流れを追っていることに、二人はまだ気付いていなかった。


 舟の上には、白い髭を風に揺らすオルドが立っていた。


 老人は何も言わない。


 ただ、孫の背中を遠くから見守り続けていた。



第三章 沈む星


 それから数日の間、リオは夜になるたびエナを舟へ乗せた。


 祖父は何も言わなかった。


 知っていて黙っているのか、それとも気付いていないのか、リオには分からない。


 だが夜の仕事は続き、星の川も変わらず流れていた。


 エナは毎晩、初めて世界を見る子どものように景色を眺めた。


 流れる願い。


 揺れる星。


 水面を渡る風。


 その一つ一つに驚き、時には立ち止まり、小さな疑問を口にした。


「どうして願いは光になるの?」


「どうして夜だけ流れるの?」


「朝になったら、どこへ行くの?」


 そのたびにリオは困ったように笑う。


「じいさんに教わったことしか知らない。」


「じゃあ、本当のことは誰も知らないの?」


「……そうかもしれない。」


 渡し守は願いを運ぶ。


 しかし、願いが生まれる理由までは教えられていない。


 リオは初めて、自分が思っていたより世界を知らないことに気付き始めていた。


 その夜、二人はさらに上流へ舟を進めた。


 霧が晴れると、湿原が現れる。


 一面に青白い蛍が飛び交い、水面へ淡く映り込んでいる。


「きれい……。」


 エナは思わず立ち上がる。


 蛍は人を恐れず、静かに二人の周囲を舞っていた。


「これは願いじゃない。」


 リオが言う。


「約束だ。」


「約束?」


「果たせなかった約束。」


 一匹の蛍が舟へ止まる。


 その光はゆっくり膨らみ、若い兵士の姿を映した。


 兵士は笑っていた。


 「必ず帰る。」


 誰かへそう言った口元だけが見え、姿は風のように消えていく。


 蛍もまた、夜空へ溶けた。


 エナは長い間、その空を見上げていた。


「帰れたのかな。」


 リオは答えられなかった。


 帰れたのか。


 帰れなかったのか。


 分からない。


 分かる必要もない。


 それが渡し守という仕事だった。


 だが、エナは違った。


「もし帰れなかったなら、この約束は今も待ってるんだね。」


 その言葉に、リオは胸の奥が少しだけ痛んだ。


 約束は消えるものではない。


 誰かが忘れても、どこかに残り続ける。


 そんな気がした。


 湿原を抜けると、川は再び細くなる。


 岸辺には古びた木々が並び、その枝には白い紙片のようなものが無数に揺れていた。


 風が吹く。


 紙片は一枚ずつ舞い上がり、夜空へ散っていく。


「雪?」


「違う。」


 リオは一枚を受け止める。


 そこには細かな文字が並んでいた。


 誰かが綴った詩だった。


「読まれなかった言葉は、ここへ流れてくる。」


 エナは紙を受け取る。


 書かれていたのは短い一節だった。


 春は必ず来る。だから今日だけ泣こう。


 作者の名はない。


 いつ書かれたものかも分からない。


 けれど、その言葉だけは胸へ静かに残った。


「この人は幸せだったと思う?」


 エナが尋ねる。


「どうして?」


「こんな言葉を書ける人だから。」


 リオはしばらく考えた。


「分からない。」


 そして笑う。


「でも、誰にも読まれなかったのは少し寂しい。」


 エナも微笑んだ。


「今日、読んだよ。」


 その瞬間だった。


 紙片が淡く光り、夜空へ舞い上がる。


 まるで長い眠りから解放されたように。


 二人は黙って見送った。


 その光景を見たリオは、祖父から教わったことのない出来事に驚いていた。


「そんなこと……初めてだ。」


「何が?」


「願いじゃないものが、あんなふうに空へ昇るなんて。」


 エナは首を傾げる。


「誰かに届いたからじゃない?」


 あまりにも自然な答えだった。


 だがリオは、その言葉を簡単には受け入れられなかった。


 願いは運ぶもの。


 それが渡し守の常識だった。


 誰かに理解されるだけで救われる言葉があるなど、一度も考えたことがなかった。


 夜明けが近づき、二人は舟を岸へ戻す。


 しかし、その途中だった。


 流れていた星々の中へ、一つだけ黒い光が混じる。


 墨を一滴落としたような、小さな闇。


 それは静かに水底へ沈み始めた。


「見ちゃだめ!」


 エナが思わず声を上げる。


 しかしリオは、すでにその黒い光を見つめていた。


 沈んだ場所から、水面が音もなく波打つ。


 やがて暗い水底から、何かがゆっくりと動いた。


 魚ではない。


 人でもない。


 闇そのものが形を持ち始めたような黒い影だった。


 影は沈んでいく願いを一つ飲み込む。


 すると、その光は跡形もなく消えた。


 リオは思わず櫂を握り締める。


「あれは……何だ。」


 エナは震える声で呟く。


「……あの子、お腹を空かせてる。」


 その言葉を聞いた瞬間、リオは寒気を覚えた。


 恐ろしかったからではない。


 エナの声には、恐れよりも哀れみが混じっていたからだった。


 夜明けの光が東の空を白く染め始める。


 黒い影は静かに水底へ沈み、まるで初めから存在しなかったかのように姿を消した。


 そのすべてを、岸辺に立つ一人の老人が見つめていた。


 オルドは深く目を閉じ、小さく呟く。


「……始まってしまったか。」



第四章 川底へ沈むもの


 その日以来、リオは黒い影のことを忘れられなかった。


 昼間、薪を割っていても。


 畑へ水を運んでいても。


 村の子どもたちが笑いながら走り回る姿を見ても。


 夜の川底から伸びた黒いものだけが、胸の奥へ残り続けていた。


 願いを食べる影。


 祖父は知っていた。


 それだけは確かだった。


 夕方、リオは薪を積み終えると、庭先で網を繕っているオルドの前へ立った。


「話して。」


 老人は顔を上げない。


「何をだ。」


「昨日の影。」


 針を動かす手だけが止まる。


 しかし、それだけだった。


「まだ知るには早い。」


「いつなら早くないんだ。」


 思わず声が強くなる。


「知らないままじゃ、何も守れない。」


 オルドは静かに息をつき、ようやく孫を見た。


 その目には怒りも失望もなかった。


 ただ、長い年月を見てきた者だけが持つ深い疲れがあった。


「お前は、願いがどこから来ると思う。」


 唐突な問いだった。


 リオは戸惑う。


「人が願うから……。」


「それだけではない。」


 老人はゆっくり立ち上がる。


「願いは、人の心だけでは生まれん。」


 その夜。


 祖父は珍しく、自分から舟を出した。


 エナも無言で乗り込む。


 三人を乗せた木舟は、星の川をいつもより静かに進んでいった。


 夜風だけが櫂の音を運ぶ。


 誰も話さない。


 やがてオルドは舟を止めた。


「見ろ。」


 その先には、今まで訪れたことのない場所があった。


 川幅が急に広がり、水面が鏡のように静まり返っている。


 流れているはずなのに、まるで止まって見えた。


「ここは……。」


「映しの淵。」


 老人が答える。


「願いが生まれる前に、一度だけ立ち寄る場所だ。」


 水面を覗く。


 そこには空が映っていない。


 代わりに、人々の姿が浮かんでは消えていく。


 幼い少女が笑う。


 若者が剣を振る。


 母親が子を抱く。


 老人が一人で窓を開ける。


 どれも、ごくありふれた日常だった。


「願いは。」


 オルドが静かに言う。


「幸せな時には生まれん。」


 二人は老人を見る。


「人は何かが足りない時だけ願う。」


 映像が変わる。


 病床の子ども。


 旅立つ恋人。


 戦場へ向かう青年。


 誰もが何かを失い、何かを求めていた。


「願いとは。」


 老人は水面へ手を入れる。


「欠けた心が流した涙だ。」


 一滴の雫が波紋を作る。


 その波紋はやがて星となり、静かに川へ流れ出した。


 リオは息を呑んだ。


「願いって……。」


「人を強くするものではない。」


 オルドは首を振る。


「人が弱いからこそ生まれるものだ。」


 エナは黙って水面を見つめていた。


 何かを思い出しかけているようだった。


 その時だった。


 淵の奥から、小さな黒い光が一つ浮かび上がる。


 昨日見たものよりずっと小さい。


 しかし確かに黒かった。


 その光は水面へ浮かぶ一つの願いへ近付き、ゆっくり飲み込もうとする。


 だが、その瞬間。


 エナが一歩前へ出た。


「だめ。」


 小さな声だった。


 黒い光はぴたりと止まる。


 まるで命令を聞いたかのように。


 やがて向きを変え、暗い水底へ沈んでいった。


 リオは目を見開く。


「今……。」


 エナ自身も驚いていた。


「私……。」


 何をしたのか分からない。


 ただ、止めなければならないと思っただけだった。


 オルドだけが静かに目を閉じる。


「やはりか。」


 老人はそう呟いた。


 帰り道。


 誰も口を開かなかった。


 星々は静かに流れている。


 しかしリオには、それが以前とは違って見えた。


 光の一つ一つが、誰かの痛みから生まれている。


 そう知ってしまったからだった。


 村へ戻る頃には夜明けが近づいていた。


 舟を岸へ着ける。


 エナが降りようとした時、オルドが初めて彼女へ話しかけた。


「お前は覚えておらんのだな。」


 エナは首を横へ振る。


「何も。」


 老人は長く沈黙した。


 そして静かに言う。


「それがお前を守っている。」


「え?」


「思い出せば、お前はここにはいられなくなる。」


 リオが振り返る。


「どういう意味?」


 オルドは答えない。


 ただ東の空を見つめていた。


 朝日が昇る。


 その光を受けたエナの身体が、一瞬だけ淡く透けて見えた。


 リオは思わず手を伸ばす。


 しかし次の瞬間には、少女はいつもの姿へ戻っていた。


 まるで夜明けそのものが、彼女を連れ去ろうとしたかのようだった。


 オルドは誰にも聞こえないほど小さく呟く。


「もう時間は残されておらん。」


 リオには、その言葉の意味がまだ分からなかった。



最終章 星を編む者


 その夜、空には星が一つもなかった。


 月だけが白く浮かび、星の川だけが空の代わりに輝いている。


 オルドは舟を最も上流へ向けた。


 川幅は次第に狭くなり、やがて一本の光の筋だけになる。


 その先には、大きな湖が広がっていた。


 湖というより、夜空そのものだった。


 無数の星が水中に沈み、底も岸も見えない。


「ここが……。」


「源流だ。」


 オルドは静かに言う。


「すべての願いは、ここから始まり、ここへ帰る。」


 エナは湖を見つめたまま動かなかった。


 胸の奥で何かが呼んでいる。


 遠く、ずっと昔から知っていたような懐かしい声だった。


 その時、水面が黒く染まる。


 昨日まで見ていた黒い影が一つ、また一つと現れ、湖全体へ広がっていく。


 それらは互いに溶け合い、やがて巨大な闇となった。


 目も口もない。


 それでも飢えだけは感じられる。


 闇は湖へ流れ込む願いを次々飲み込んでいく。


 光は消え、夜だけが残る。


 リオは思わず櫂を握る。


「止めないと!」


「止められん。」


 オルドは首を振った。


「あれは魔物ではない。」


「じゃあ何なんだ!」


「忘れられた願いだ。」


 静かな声だった。


「叶わず、思い出されず、誰にも受け止められなかった願い。」


 老人は続ける。


「人は願いを捨てる。」


「諦める。」


「忘れる。」


「そのたび願いは帰る場所を失い、川底へ沈み続けた。」


 長い年月。


 積み重なった願いは、とうとう一つの飢えとなってしまったのである。


 リオは息を呑む。


「だから……願いを食べるのか。」


「帰れぬ願いを、帰そうとしている。」


 その言葉に、リオは黒い影が恐ろしく見えなくなった。


 あれもまた、願いだった。


 その時、エナが一歩前へ出る。


 黒い闇は彼女を見る。


 いや、待っていた。


 そんな気配がした。


 少女はゆっくり目を閉じる。


 突然、記憶が流れ込んできた。


 何百年もの夜。


 数え切れない願い。


 生まれては流れ、消えていく光。


 彼女はずっと、それらを空へ送り続けてきた。


 星を編み。


 願いを結び。


 朝へ渡す者。


 それが、自分だった。


「思い出したのか。」


 オルドが尋ねる。


 エナは静かに頷いた。


「私は……星編み。」


「願いが迷わないよう、道を結ぶ者。」


 だから願いは彼女を避けていた。


 触れれば役目へ戻ってしまうから。


 人として過ごす短い時間を守るため、本能的に距離を置いていたのである。


 リオは震える声で言う。


「じゃあ、思い出したら……。」


「私は戻る。」


 エナは微笑む。


「もう、人間ではいられない。」


 沈黙が落ちる。


 夜風だけが湖を渡る。


 黒い闇はさらに広がり、源流を覆い始めていた。


 戻れば世界は救われる。


 戻らなければ願いは消えていく。


 誰もが答えを知っていた。


 それでもリオだけは動けなかった。


 ようやく出会えた少女を失いたくなかった。


 その時だった。


 エナが尋ねる。


「リオ。」


「……何。」


「あなたの願いは?」


 初めてだった。


 自分の願いを聞かれたのは。


 渡し守は願いを運ぶ。


 願うことは教えられなかった。


 リオは長い間、答えられない。


 だが、やがて静かに口を開く。


「君に、生きていてほしい。」


 その一言だった。


 世界を救ってほしいでもない。


 役目を果たしてほしいでもない。


 一人の少女として、生きていてほしい。


 ただ、それだけだった。


 エナの瞳から涙が零れる。


 誰かの願いを何百年も運び続けた。


 けれど、自分自身へ向けられた願いは、一度もなかった。


 だから初めて知った。


 願われることの温かさを。


 彼女は笑う。


「私も。」


 涙を拭う。


「私も、あなたと朝を迎えたかった。」


 その言葉とともに、彼女の胸から一つの光が生まれた。


 白くも金色でもない。


 夜明けの直前だけに見える、淡い青銀の光。


 その光は湖へ落ちる。


 波紋が広がる。


 黒い闇へ触れる。


 すると闇は抵抗しなかった。


 ゆっくりと崩れ、一つ一つの願いへ戻っていく。


 誰かが忘れた夢。


 届かなかった約束。


 言えなかった「ありがとう」。


 それらは再び星となり、夜空へ昇っていった。


 源流は静けさを取り戻す。


 エナの姿は少しずつ透け始めていた。


 リオは駆け寄る。


「また会える?」


 エナは微笑む。


「夜明けを見るたび。」


「願いを運ぶたび。」


「私はそこにいる。」


 その姿は朝霧のように光へ溶けていく。


 最後に残ったのは、小さな白い花びらだった。


 それは舟の上へ静かに舞い降りる。


 東の空が白む。


 夜が終わる。


 オルドは帽子を脱ぎ、深く頭を垂れた。


「お帰り。」


 誰へ向けた言葉なのか、リオには分かった。



 季節は巡る。


 数年後。


 オルドは静かに息を引き取り、リオは村でただ一人の渡し守となった。


 夜になると、小さな木舟を川へ浮かべる。


 願いは今も流れている。


 恋の願い。


 別れの願い。


 生きる願い。


 それらを一つずつ川の中央へ戻しながら、リオは時折、水面へ映る自分以外の影を見る。


 白い衣。


 銀色の髪。


 穏やかな微笑み。


 振り返っても、そこには誰もいない。


 それでも、不思議と寂しくはなかった。


 願いとは、叶うことだけではない。


 誰かに受け止められた瞬間、その願いはもう独りではなくなる。


 リオは一枚の白い花びらを川へ浮かべる。


 花びらは流れに乗り、星々の間を静かに進んでいく。


 夜空では、一筋の流れ星がゆっくりと朝へ向かっていた。


 リオは櫂を握り直し、小さく微笑む。


「今日も、一緒に朝を運ぼう。」


 星の川は静かに流れ続ける。


 誰かが願い続ける限り。


 そして、その願いを受け止める者がいる限り。

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