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約束

作者: 灯影
掲載日:2026/06/04


 観光雑誌に載ることはないけれど、立派な鳥居が自慢の神社がある。

 そこは、なだらかな山をすっぽりとくりぬいた様に神社が収まっていた。


 その鳥居のすぐ脇に、丘への入口があった。子供の足で二十分ほど山道を登っていくと開けた場所に出る。


 とは言え、木の枝や蔦などが絡み合い入口のほとんどを隠してしまっているので、容易には抜けられない。


 服を犠牲にしてでも上へ向かう大人たちは少なかった。


 その事情を幸いに、少年たちはこぞってその道を抜け、何グループかある秘密基地同士の戦いを繰り広げていた。


 そのグループの中に私も居たけれど、その時の話をするととてつもなく長くなるので自粛する。


 その場所も、今では小さな丘公園と名を変えた。秘密基地はなくなり丘への道も整備され、憩いの場として復活している。それでも軽い山登りなのは変わっていないけれど。


 正確にはちゃんとした名称があるのだが、それはうろ覚えなので省くとする。


 公園は、広くはないが花や木々で季節を感じることができるし、あたりを一望することができるくらいには眺めがよかった。


 田舎なので眼下に広がる景色も一面、田んぼや畑、彼方に見えるのは山くらいのものでそこまでロマンチックな場所ではないと思う。


 ただ夜は真っ暗なので星が降るように輝いているのが見える。


 私はこの場所が大好きだった。


 子供のころから大好きで、年老いた今でもそれは変わらない。



 ただ、ある時期から私はその場所から心を切り離した。その場所にあるすべてが私の心を、体を、酷く傷つけるような気がしたから。


 ほんの一時でその考えは変わったけれど。それ以来訪れることはなくなった。



 だけどそこへ向かう。大事な大事な約束を果たしに。



 ***



「母さん、ここ? 俺よくこの神社で遊んでたけどまったく行ったことなかったな」


 息子は――私から見て――孫を腕に抱き、車のトランクからピクニック用のバスケットを取り出しているところだった。


 公園への入口を前に私は軽く深呼吸をした。


 小春日和の今日、私は思い出の公園に息子夫婦を招待した。


 なぜ招待かというと、私と夫との思い出の場所――ううん、もっとこうなんというか――そう、この場所自体が私と夫そのものだから。


 ずっと長い間この日を待ちわびていた。弾けるような嬉しさや懐かしさと共に、ぎゅっとなにか別の感情が胸を締め付けた。


 最後にここを訪れてから、とても長い時間が流れている。



 老いた私にはやっぱりちょっときつい山道を登りきると、何の抵抗もなく自由に吹き抜ける風が顔で弾けた。


 眼下に広がる景色こそ変わってはいるけれど、昔の記憶と変わらぬままこの場所は私を迎え入れた。


 私と共に成長している桜の木もあれば、新しい命を芽吹かせた木々や花。


 時は流れるものだけれど、去るばかりではなく新しい命もまた連れてくるのだ。


 嬉しいのか悲しいのか、どちらかわからない感情が溢れて鼻の奥がツンとした。


 もう大丈夫だと思っていたけれど、自分で思っていたより感情は素直でどうしようもないものだ。



 ちょっとしたうめき声が聞こえ何事かと後ろを振り返ると、息子が荒い息を繰り返していた。 


 生まれたばかりの命を抱えての山道は少しきつかったようで、息子は公園についた途端子供を妻の真理さんに託し、精一杯深呼吸していた。


 私と真理さんは二人でからかいながら、ござを広げまだ蕾のまま眠っている桜の木の前でお弁当を広げた。



 どこか上品に根を張った木にもたれる形で座った私は、お弁当を囲む三人を眺める位置にいた。


 心地いい暖かさに気分も穏やかになる。この場所で受ける木漏れ日は何より素敵で特別だ。


 真理さんは哺乳瓶を用意し、ご機嫌に笑っている娘にあてがった。


 ちょうど公園に着いたのがお昼時だったのでいい具合に皆もお腹がすいてきたようだった。




 真理さんが作ってくれたお弁当は、私に気を遣ってか和風なものでどれも手が込んでいる。


 きっと息子に聞いて私の好物を多めに入れてくれたのだろう。息子より二つ年上の姉さん女房の真理さん。


 どこか能天気な息子が連れてきた彼女は、彼とはまったくの正反対できちんとした印象だった。


 でもそこは息子が選んだ人で、とても明るく気さくな人柄に私はすっかり打ち解け信頼を置いた。


 二人は一昨年結婚をし、去年の春に長女が産まれた。


 息子は上機嫌でおにぎりを食べ、順調にお弁当を減らしている。幸せそうに食べる顔は昔から変わることなく、作り手に喜びを与えていた。


 横では真理さんが幸せそうに微笑んでいる。


 お弁当にちらほら隙間ができだしたのを見て私は慌ててお箸をとった。


 何から手をつけようか、一瞬迷いはしたが目があった出し巻きを小皿にとった。


 一口食べる。



 目の前に小さな竜巻でも起こったかのように、景色がぐるぐると旋回した。




『弥生の出し巻きは、どこの料亭でもかなわないと思うぞ』


 桜が舞う中で声の主は、それを真剣に見つめている。


『なんつーか、この柔らかさといい香りといい絶品だ!』


 そう言った男の笑顔がはじけた――




「母さん!」


 自分を呼ぶ声ではっと我に返った。桜はまだ咲いていないし、目の前にいるのは夫の面影を残した息子だ。


 見れば、二人ともお箸をおいて私をじっと見つめていた。いきなり動かなくなった私を見て驚いたのだろうか。


 神妙すぎる表情の二人をよそに、私の心はなぜだか少し軽くなり同時に笑っていた。出し巻きが見せた白昼夢ということだろうか。なんだか乙な響きだ。


「心配したのに笑ってるよ……母さんはいつも笑うんだよな」


 呆れ顔で言う息子を横目に真理さんがそっと私に耳打ちした。


「拓也さん、何があっても笑顔を絶やさなかったお義母さんが昔から自慢だったんですって」


「聞こえてるよ!」


 照れ隠しで横を向いた息子をみて真理さんは笑いながら謝っている。



 笑顔。



 昔、この場所で交わした約束の一つだ。


 大事に、大切に心の中の引き出しにしまってある。もちろん鍵付きで。


 おかげで、いつまで経っても色あせない特殊なフィルムに焼きつけたように、その情景は今でも鮮明に蘇ってくる。


 この場所も手伝ってか、いつもより簡単に鍵が開いた。



 

 今よりもまだ若い桜。その前にある展望広場に、私と夫はいた。


 あたりは暗く、空にはもう星が輝き始めている。


 いつもより少し気を使った出で立ちの夫は転落防止の柵に手をかけじっと前を見ていた。


 隣では緊張を隠せない私が固まっている。時折見上げるように夫の顔を見る。


 この日は、朝から二人ともなんだかそわそわして落ち着かなかった。


 結局夕方までいつものデートコースを辿ると、やはりいつものようにここに落ち着いた。


 突然夫がこちらを振り向いた。


『いいか、これから言うこと一言足りとも聞き逃すなよ!』


 そう言うと、また前を向きギュッと柵を掴んだ。


 そしてすうっと息を吸い込んで――静まり返ったこの場所で――叫んだのだ。


『やーよーいー! お前は全部おれが丸ごと幸せにしてやるからなー! だからずっと笑ってろー! もちろん俺のそばでだーー!!』


 夕方のほのぼのとした田園風景に、風と共に広がっていく。


 ……今思い出してもこの瞬間は恥ずかしくて倒れそうになるし、この後下に降りた時の事を考えると無性にじたばたして叫びたくなる。


 だけど夫はこういう人だからこそ愛おしかった。


 そして言い切った夫は、達成感からか今まで見たこともないくらいの笑顔で、私の乙女心を掴みきったのだった。


『俺はお前の笑顔を見ていると幸せなんだ。俺が笑うとお前も幸せだろう?』



 ここで私は一旦鍵をかけた。私の意思を無視して映像はどんどん流れていくからだ。


 小さく息を吐くと、可愛らしい声が耳に入ってきた。


 どうやら息子の抱き方が気に入らないらしく、腕からのけぞるようにして泣いている。真理さんは笑っていた。


 私も軽く笑った後、かしてみなさいと、抱き上げた。


「パパは抱っこもろくにできないのねー、ゆきちゃん。おばあちゃんが寝かせてあげようねー」


 軽く腕を左右に揺らす。優しく、早すぎないようにゆっくりと。泣きやむと、私の顔をじっと見つめている。孫だからか、どの子よりも格別にかわいく見える。


 そのうち眠くなってきたのか、まぶたがとろとろと下がっていく。そしてすんなりと寝入ってくれた。


 完全に寝入るまで、ゆりかごを続けてそっとベビー籠に移した。


「やっぱり経験者はちがうねー」


「そりゃ、うちにはもっと手のかかる子供がいたからねえ」


 皮肉めいた私の言葉に、息子はふんと鼻を鳴らした。そのままごろんと寝転がり、空を見上げ気持ちいいなあと呟いた。


 少し沈黙が落ちたところで真理さんがふいに私を見た。


「……あの、聞いてもいいですか?」


 どこか遠慮がちに私を見つめる。ベビー籠を揺らす手はそのままに。


「……なあに?」


 なんとなく聞かなくてもわかってはいた。女の勘だ。


「えっと、亡くなられたお義父さんてどんな方だったんですか?」


「あー、俺も小さかったからあんまり父さんの記憶ってないな」


 興味のある話題に、息子は起き上って言った。


「そうねー……お父さんはとっても大らかで、すぐに俺に任せろ! って言うのよ。あれはもう口癖ね」


 言っていて、顔がほころんでくるのがわかった。


「小さい頃からやんちゃで、昔で言うお山の大将みたいだったわ。でも名誉のために付け加えると、正義の味方ではあったのよ」


「そんな時から知り合いだったんだ」


 お茶を三人分用意しながら――こう言うことには気が利く――息子は驚いていた。そう言えば今まであまり話してこなかったかもしれない。


「ここはに私たちの歴史がいっぱい詰まってるのよ」


 私はおどけてウィンクをしてみた。


「同い年だし、小学校の小さい時から大人になってからもずーっとね。さすがにお父さんが居なくなってからは来られなかったけれど……今回はいい機会だと思って」


 またちょっとした沈黙が下りる。それを風がさっと吹き消した。


「拓也は結婚して孫も生まれたし。ちょっとした報告がてら……ね」


 だからこそ、今日私はここに来れたのだろう。何事もきっかけが重要なのだ。


 空を見上げながら真理さんに向けて息子が言った。


「普通、報告って言うと墓前のイメージだろ? でも母さんはそうじゃなくて、いつも空に向かって話すんだ」


「そんなに不思議? 火葬場でゆらゆらのぼる煙を見た時ね……ああ、空に帰るんだなって思ったのよ」


 三人とも黙ったままで上を見上げる。眩しくてつい目を閉じそうになった。


 俺さあ……と息子がぽつぽつ話し出した。


「実はそんなに思い出って言えるほどの記憶がないから、皆に辛かったねって言われてもいまいちピンとこなかったんだ。そりゃ、寂しかったし、一緒にキャッチボールとかしてる親子を見ると羨ましかったけど……でも、俺には母さんがいたから。」


 うーん、とお腹の底から声をひねり出し、右手で頭をがしがしと掻いた。悩んだり、困ったりした時の息子の癖だ。


「だけど俺も親になってまだ一年ちょっとだけど、この二人を置いて逝くっていうのは……きつい」


 私たちに見られないようにか、さっと目を拭うと息子は立ち上がった。


 空に向かって両手を伸ばす。高く高く、空を掴もうとするように。なんだか映画のワンシーンみたいで、少しくすぐったい。

 そして息を大きく吸い込んで、空に向かって声を放った


「父さーん! 俺今年で三十三歳になったよ! すげー元気だから! 綺麗な奥さんもつかまえて、子供も産まれたよ、女の子! 可愛いだろー? この場所に来たからかわかんないけど、今まで遠くに居た父さんが何だかすごい身近に感じられるんだよ」


 そこまで一気に言い放つと、肩で息をしながらまた深く息を吸った。何が起こったのかと、真理さんは目を丸くしてみている。


「父さんが事故で居なくなってからも、母さんと二人で仲良く生きてきたよ! ずっとずっと、笑顔で俺を育ててくれたんだ、すごいだろ!」


 この公園でどこかに向かって叫ぶのは、やっぱり血筋かしらと思いながら、色々な感情が交じってどうしようもないくらい泣けてきた。


「だから何も心配いらないよ! それに父さんたちが大切にしてたこの場所、俺たちも大切にするから! 今度はここに俺たちの歴史を加えてよ!」


「そっちで、楽しみに待っててくれーー!」


 息が上がるほど叫んだ息子は、酸欠状態で足から崩れ落ちそのまま仰向けに寝転がる。


 聞こえたかな……と葉擦れのように小さな声で呟いた。



 私は後から後から溢れてくる涙をそのままに、ほんとそっくりなんだからと呟いた。


 言葉の秘めた思いまでは届いてはいないが、息子はゆったりと笑った。



 夫は三十七の時不慮の事故でこの世を去った。


 後から警察に聞いた話だと、坂道で止まってしまった車を助けている最中、別の車が前方不注意でその中に突っ込んだらしい。


 なんだか、納得できるような出来ないような、理由だった。


 唯一つわかることは助けを求められた時『任せてください!』と、言っただろうということ。



 その事故が起こる前にも、私たちはこの公園に来ていた。息子は小さかったから覚えていないのだろう。三人で来たのは三度程だけれど。


 息子がお腹に宿った時。産まれて間もない時、そして三歳になった時。



 妊娠の報告をした時の夫の喜びは、私にとっても本当にうれしかった。二十代前半で結婚してから、三十代まで恵まれなかったからだ。


 夫は公園中を走り回ると、桜の木に抱きついた。


『やった! やった! なあ、聞こえてただろ? 俺たちやっと子供を授かったんだ!』


 夢中で木に話しかけている夫に、私は近づく。


『弥生そっち回って』


 ずっと昔から私たちは事あるごとにこの木に報告してきた。


 そして、二人で手を繋ぎ木を囲むように抱き合ってきた。


『なあ、弥生。俺たちずっと、ここに来ような。子供のそのまた子供……孫とか、いっぱい連れてさ。ここに俺たちの歴史を刻むんだ』


『私たちの子供時代から続く歴史ね』


『ああ! どこまで続くかすごい楽しみだろ? それにこの木も寂しくなくなるだろうしな!』


 そう言って夫は手を離した。桜の木を見上げながら言う。


『ずっと見ててくれるか?』




 そっと手に渡されたハンカチの感触で目を開けた。


 真理さんが同じように涙目でこっちを見ている。なんだかおかしくてまた泣きそうになるのを今度は堪えた。


 ありがとうと呟いてハンカチで涙を拭う。そのまま自分の鞄に直した。洗ってから返すのが礼儀なのだ。


 そしてふと思い立って私は二人を立たせた。大事なことが残っていた。


 二人は戸惑いながらも私の指示の通りに桜を囲んだ。


「さあ、手を繋ぎましょう?」


「あー、なんかテレビでよく見る光景だ」


 そう言いながら私たちは手を繋ぎ、桜と抱き合った。


 息子は真理さんと何か話しているが、私の耳には入ってこなった。


「今までごめんね。たくみ君との約束破るところっだった……あなたも同じように寂しかったのにね」



 木のぬくもりが体中に広がる。この匂いも昔から変わらなくてひどく落ち着く。


 この頃にはもう、ここに来るまでの不安や戸惑いはすっかり消えていた。


 今は安堵感と幸福感が入り混じっている。


 乙女心は複雑だ。




 ねえ、たくみ君。聞こえる?


 私たちの約束はあの子が引き継いでくれるわ。


 夢みたいね。



 あなたに会えなくなってから、ひどく落ち込んだりもしたけれどずっと笑顔で頑張ってきたの。


 おかげで皺がふえちゃって――私も乙女なのに――それでもあなたは笑うんでしょうね。


『見事な笑いジワだ!』


『幸せだった証しだろう?』って。


 早く昔みたいに抱きしめてほしいけれど、もう少し時間がかかりそうだわ。


 あなたに会うときは、とびきり綺麗だったころの私で会いに行くから。


 それまで待っていてね。




 風が、あの日と同じ匂いを運んでいた。

 それから何十年か後の夏に私の人生は幕を閉じる。


 でも、大丈夫。


 子供たちはあの場所を気に入って、足しげく通っている。


 きっとずっと続いていくのだろう。


 あの桜も子供たちに囲まれて寂しくはないはずだ。


 私もあの人のもとへ行く。



 きっとまた面白くて幸せな時間が待っているのだろう。


 その事を話す機会はもうないけれど。


 私と夫の歴史は終わることなく続いていく。

 

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