表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

01

 喧嘩別れしたかつての恋人、鶴崎カヤがこの世を去ってから、早くも十二年という月日が流れた。

 十八歳という、無敵で永遠に続くように錯覚してしまう青い季節のど真ん中。彼女は、雨の降る交差点でスリップしてきた大型トラックに巻き込まれ、あっけなくその生涯を閉じた。


 あの日、俺たちはくだらない理由で言い争いをした。進路のこと、将来のこと、俺の不甲斐なさについて。彼女は俺を思って怒ってくれたのに、俺は売り言葉に買い言葉で「もう顔も見たくない」と吐き捨て、背を向けてしまった。

 それが、彼女と交わした最後の言葉になるなんて思いもしなかった。翌日の放課後、彼女の訃報を聞いた時の、あの頭の芯が真っ白になるような感覚は、十二年経った今でも細胞の隅々にまでこびりついている。謝る機会も、仲直りのキスをする時間も、すべてはアスファルトの上に散った赤い血と共に、永遠に失われてしまったのだ。



 俺、木谷ハルトは、そのあまりにも重く、鋭利な現実から目を逸らすために、故郷の町を逃げるように離れた。

 彼女との思い出が詰まったあの町では、息をすることすら苦しかったからだ。通学路の自動販売機、よく一緒にサボった河川敷、ふざけ合った図書室。地球上のあらゆるところに重力という名の未練がへばりついていて、俺の足首を掴んで離さなかった。

 だから俺は、重力のない場所へ行くことにした。空の彼方、彼女の魂が昇っていったかもしれない、もっとずっと高い場所へ。

 狂ったように勉強し、体を鍛え上げた。感情を殺し、ただひたすらに「宇宙に行く」という目標だけを強迫観念のように追い求めた。

 その結果、俺はどういうわけか、三十歳という異例中の異例とも言える若さでJAXAの宇宙飛行士候補生に選ばれ、過酷な訓練をくぐり抜け、気がつけば宇宙飛行士になっていた。世間は俺を「若き天才」だの「人類の希望」だのと持て囃したが、笑わせるなと思った。俺はただ、現実から最も遠い場所へ逃げてきただけの、哀れな臆病者でしかない。 



 現在、俺は地上から四百キロメートル上空、漆黒の真空に浮かぶJAXAの宇宙ステーション「きぼう」後継機で、ミッションに従事している。

 無重力空間の船内は、常に生命維持装置の低いファン音が響いている。キューポラ(観測窓)から見下ろす地球は、絵の具を溶かしたように青く、息を呑むほど美しい。だが、俺にとっては、あの青い球体はカヤの骨が埋まっている巨大な墓標に過ぎなかった。


 運命の瞬間は、ある日の当直任務中に訪れた。

 メインコンソールで、太陽系外縁部から飛来する小天体の軌道計算を行っていた時のことだ。モニターの端に、異常な数値がポップアップした。光学望遠鏡が捉えたその光点は、最初はただの尾を引く美しい彗星に見えた。

 しかし、解析システムが弾き出したその質量と速度、そして予測軌道を見た瞬間、俺の全身からスッと血のの気が引いた。



「ーーあれ? あの彗星、大きすぎるぞ」

 俺は独り言をこぼしながら、キーボードを叩く指を早めた。何度再計算させても、モニターに表示されるシミュレーション結果は変わらない。

 直径、約三十キロメートル。かつて恐竜を絶滅させた隕石を遥かに凌駕する、文字通りの怪物。

「軌道も……これ、地球に直接当た……る?」

 その軌道予測線は、狂いのない一本の赤い矢印となって、地球のど真ん中、太平洋上空を貫いていた。ニアミスでも、大気圏での燃え尽きでもない。完全なる、致命的な直撃。

「あれ、まずくね? 地球滅ぶ?」

 その呟きから数分と経たないうちに、ステーション内の警告アラームがけたたましく鳴り響き、赤いエマージェンシーライトが点滅を始めた。通信回線からは、ヒューストンと筑波の管制センターからの怒号、悲鳴、そして祈りのような叫び声が雪崩を打って流れ込んできた。


 同僚の宇宙飛行士たちが血相を変えてモジュールに飛び込んでくる。彼らは家族の安否を絶望的な顔で叫び合い、窓の向こうで次第に大きくなる「死の光」を見つめていた。

 八十億の命が、あと数十分で跡形もなく蒸発する。もちろん、この低軌道上にいる俺たちも、破片と衝撃波で宇宙の塵になる運命だ。

 そんな、世界が終わりを迎える阿鼻叫喚の狂騒の中心で。

 ふと、俺の耳に、ありえないはずの声が届いた。

『もう一度、過去に戻れるなら?』

 ノイズ混じりの通信機からではない。俺の脳髄に直接響くような、透き通った、凛とした声。

 聞き間違えるはずがない。十二年間、一日たりとも忘れたことのなかった、鶴崎カヤの声だった。死ぬ直前の幻聴か、あるいは宇宙の意志が見せる走馬灯か。そんなことはどうでもよかった。

 俺はパニックに陥るクルーたちを尻目に、モニターから静かに視線を外し、少しだけ考えて、心のなかで呟いた。



 ーーカヤを、救いたい。

 それは、十二年間ずっと心の奥底に封じ込めていた、俺の魂からの叫びだった。

 もしあの日に戻れるなら、俺は絶対に君の手を離さない。トラックの前に飛び出してでも、君を庇う。

 俺は、君に救われたからだ。高校に入って自暴自棄になり、荒れていた俺の手を引いて、くだらない冗談で笑わせて、明日を生きる理由をくれたのは、他の誰でもない君だった。俺の命は、君の笑顔の延長線上にしかなかったんだ。だから、俺のすべてを投げ打ってでも、君の未来を取り戻したい。

 すると、彼女の優しい声が再び響いた。


『その先は?』

 その先。

 彼女が生き残り、俺たちが仲直りし、そして続いていくはずだった、ありふれた未来の延長線上。俺は、三十歳の宇宙飛行士から、十八歳のあの頃の、馬鹿で未熟な「木谷ハルト」に引き戻されるのを感じた。

 過酷な訓練と物理学の数式で塗りつぶされた俺の頭に浮かんだのは、極めて世俗的で、低俗で、しかしどうしようもなく切実な、思春期の男子としての純粋な願いだった。

 ーーカヤ、君と何もエロいことできなかったから、せめて胸を揉みてえな。

 そうだ。俺たちの交際は純手過ぎた。手を繋ぎ、不器用にキスをするのがやっとだった。もしあの喧嘩がなくて、明日が来ていたら。きっとその先があったはずなんだ。君の温もりを、その柔らかさを、この手で感じたかった。 


 それはただの性欲じゃない。冷たい宇宙の真空でも、硬い墓石でもない、柔らかくて温かい「生命」の象徴。君と生きるはずだった未来そのものだ。君のすべてに触れて、俺たちが生きていることを確かめ合いたかった。だから、胸を揉みたい。いや、揉ませろ。頼むから揉ませてくれ。

 宇宙空間の静寂の中、永遠にも似た一拍の沈黙があった。

 そして、彼女は短く、冷たく、しかしあの頃と全く同じ、呆れ果てたような響きを含んで言った。



『きも』

 その声を聞いた瞬間、俺の顔に自然と笑みがこぼれた。あぁ、やっぱり君は、俺の好きなカヤだ。

 直後、視界が純白に染まった。

 地球の半分を覆い尽くすほどの閃光と、巨大な彗星の大爆発音(実際には真空の宇宙空間で音など聞こえるはずがないのだが、俺の魂が確かにその轟音を感じ取っていた)がすべてを飲み込み、俺の意識は完全に消えた。


 その圧倒的な光の渦の中で、俺の意識は、ふっと優しく消えてなくなった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ