8
季節は、気づけば一巡していた。
視線は、相変わらずやわらかくはない。
けれど、あの頃のような露骨なざわめきもない。
人は慣れる。
良くも、悪くも。
実習で班が別になることは、今もある。
シモンは相変わらず距離を取る。
けれど、それ以上でもそれ以下でもなかった。
放課後、寮の部屋。
「ねえ、エリナの部屋って落ち着くよね」
リーネがベッドに寝転がりながら言う。
「分かる。なんか、静か」
ヴィーは窓辺に腰掛けて、外を見ている。
「静かって、物が少ないだけでしょ」
「それを落ち着くって言うの!」
リーネが笑いながらクッションを投げてくる。
そんな他愛ない時間が、確かにある。
そういえばある日の放課後、こんなことがあった。
「エリナの部屋、ちょっと寂しくない?」
唐突にリーネが言い出した。
「そう?」
「そうだよ! もっとこう、あったかみ!」
そう言うなり、彼女は勝手に棚の位置を動かし始めた。
「ちょ、ちょっと待って…!」
「大丈夫大丈夫、任せて!」
任せるのが一番不安なのだけれど。
ベッドの向きが変わり、机が窓際へ寄せられ、
気づけば床の中央に妙な空間が生まれていた。
「ほら! 光が入りやすくなった!」
確かに、夕陽がまっすぐ差し込んでくる。
でも。
「落ち着かない……」
「慣れだよ慣れ!」
リーネは満足げに腕を組む。
その横でヴィーがぽつりと呟いた。
「……これ、夜中に影が伸びるとちょっと怖いかもね」
三人でしばらく沈黙した。
結局、机だけ元の位置に戻した。
「半分成功ってことで!」
リーネは笑っている。
部屋は少しだけ賑やかになった。
悪くない変化だった。
そんな部屋の床には今、小さな染みがある。
これは、ヴィーが調合の練習をしたいと言い出した日にできたものだ。
「基礎の安定薬だから、大丈夫」
そう言って私の部屋で小瓶を並べはじめたのだ。
部屋に甘いような苦いような匂いが広がる。
「火加減、これくらいかな…多分」
“多分”が少し怖い。
ふわり、と煙が上がった。
次の瞬間。
ぽん。
小さな破裂音。
紫色の液体が机から床へと広がった。
「あ」
「わ、失敗…かな?」
「え、ちょ、ヴィー!?」
リーネの大きな声が響く。
ヴィーは固まっている。
液体はじわじわと床板を染めていく。
「これ、腐食はしないはず……多分」
“多分”が多い。
慌てて水をかけ、布で拭き取る。
床にうっすらと残る紫の染み。
三人でそれを見つめる。
「……模様ってことで…?」
リーネが言う。
「芸術的なんじゃないかしら」
ヴィーも続く。
私はため息をつきながら、少し笑った。
ちょっと不気味な模様になってしまったけれど、全然嫌じゃなかった。
街へ買い物に出かけることもあった。
焼き菓子を半分こして、くだらない噂話をして、
魔法とは関係のないことで笑う。
学生らしい時間。
それが、自分にもあることが、少し不思議だった。
――――――
土曜日。
訓練場では、クロ先生がいつもの位置に立っている。
クロ先生が頷くのを見て、私も頷き返す。
闇を点で保つ。
広げない。
飲み込まない。
紙に開けた小さな穴は、以前より安定している。
クロ先生は何も言わない。
ただ、崩れかけた瞬間に一歩近づく。
それだけで、揺れが止まる。
「……よし」
それだけ。
十分だった。
ノアさんが、少し離れた場所から腕を組んで見ている。
「前より、静かになったね」
「静か?」
「うん。前はね、もっと不安定だった」
ノアさんに褒められるのは、やっぱりちょっと嬉しかった。
訓練が終わると、ノアさんは軽く伸びをした。
「しばらく留守にするね」
「またですか?」
「二週間くらいかな」
軽い調子。
でも、目は笑っていない。
「仕事ですか」
「まあ、そんなところ」
曖昧な返事。
「危ないことじゃないですよね」
少しだけ間があった。
「大丈夫。ちゃんと帰ってくるよ」
ノアさんは軽く言った。
クロ先生は何も言わない。
ただ、ノアさんを一瞥する。
短い視線。
それだけで、何かが交わされている気がした。
――――――
そして、春。
二年生になった。
教室の扉を開けると、見慣れた顔がいくつもある。
「また一緒だね!」
リーネが手を振る。
「今年もよろしく」
ヴィーが微笑む。
少し離れたところにフィオルの姿もあった。
小さく手を振ると、フィオルは少し照れたように頷いた。
……そして。
少し離れた席に、シモンがいる。
目が合いそうになって、逸らされる。
距離は、変わらない。
けれど。
風の噂で聞いた。
彼の両親は、魔物に殺されたらしい。
幼い頃に。
それから教会で育てられた、と。
この国で教会は主流ではない。
王立の魔法学派とは少し距離のある場所に、ひっそりと点在している。
魔物に家族を奪われた少年。
闇を“危ない”と言い切った少年。
胸の奥で、何かが静かに沈む。
理解したわけじゃない。
許したわけでもない。
ただ、彼の行動に理由があると知っただけだ。
教室の窓から、春の光が差し込む。
去年とは、少しだけ違う。
私はまだ、白い目で見られている。
けれど、少しずつ前進できている自信がついてきた。




