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あの朝から、空気は変わらないままだった。
露骨に何かをされるわけじゃない。
けれど、視線は避けられる。
廊下ですれ違えば、会話が一瞬途切れる。
実習の班分けでは、ほんのわずかな沈黙が落ちる。
「……俺、別の班にしてもらっていいですか」
その沈黙を破るのは、たいていシモンだった。
教師が眉をひそめる。
「理由は?」
「このままじゃ集中できないので」
嘘ではない。
でも本当の理由でもない。
教室のあちこちから、視線が刺さる。
教師は一瞬だけ私を見る。
それから、ため息をついた。
「……分かった。今回は調整する」
ざわり、と空気が揺れる。
“今回は”。
その言葉が、妙に重い。
シモンは私を見ない。
ただ淡々と席を移る。
静かな拒絶に胸が痛んだ。
放課後。
机に肘をついたまま、ぼんやりしていると、リーネが隣に腰を下ろした。
「気にしなくていいからね」
そう言って、わざと大きな音を立てて椅子を引く。
ヴィーも反対側に座る。
「ほら、次の実習のレポート、一緒にやろう?」
あからさまなくらい、自然を装って。
その不器用さが、ありがたかった。
中庭では、フィオルが何も聞かずに隣にいる。
話題は天気だったり、授業の愚痴だったり。
ときどき魔法の話もするけれど、深くは踏み込まない。
小さい。
けれど確かにある、安全な場所。
それがあるから、なんとか立っていられた。
ーーー
数日後。
ノアさんが、珍しく肩を落としていた。
「……怒られた」
ぽつり、と。
「クロ先生に?」
「うん」
河原での件が伝わったらしい。
「君はもう少し危機感を持て、と」
ノアさんは、ばつが悪そうに笑う。
「これからは、闇魔法に詳しい者の立ち会いのもとで練習しろ、だってさ」
つまり、単独での練習は禁止。
「……ごめんね」
「どうしてノアさんが謝るんですか」
むしろ私のせいだ。
その週の土曜。
約束通り、クロ先生の研究室に行くと、クロ先生は奥の書き物机に座っていた。
ノアさんが軽く手を挙げた。
「おはようございます、クロ先生」
沈黙。
ゆっくりと視線がノアさんに向く。
「……話は聞いた」
低い声。
それだけで、空気が冷える。
ノアさんが苦笑する。
「いやぁ、その、ちょっと想定より出力が――」
「想定が甘い」
ぴしゃりと落ちる。
「お前は分かっていながら、いきなり実践させようとした」
言葉は少ない。
だが鋭い。
「一歩間違えば、取り返しがつかなかった」
ノアさんが口を閉じる。
珍しく、言い返さない。
クロ先生の視線が、ゆっくりとこちらへ移る。
なんとなく空気が柔らかくなった気がした。
「……怪我は」
「ありません」
「…寝不足だな」
図星だった。
思わず視線を逸らすと、クロ先生は小さく息を吐いた。
「今日は基礎だけだ。無理はさせん」
さっきまでの硬さが、わずかに和らぐ。
ノアさんが口を挟もうとする。
「いやでも、実戦感覚も――」
「黙れ、お前は感覚に頼りすぎだ」
即答だった。
「お前は後ろに立っていろ」
「ひどくないですか?」
「信用を落としたのはお前だ」
一刀両断。
ノアさんは素直に後ろへ下がった。
クロ先生が私の前に立つ。
距離は近いが、威圧はない。
「このくらい小さい闇を出せ」
クロ先生はお手本のように、本当に砂一粒ほどの大きさのブラックホールのようなものを出してみせた。
静かに頷いて、目を閉じ、意識を沈める。
胸の奥の冷たい感触を、ゆっくり掬い上げる。
闇が、指先ににじむ。
以前より、静かだ。
「……いい、もうやめていいぞ」
ほんの一言。
それだけで、肩の力が抜ける。
クロ先生はしゃがみ、ふたたび魔法の手本を見せる。
「広げるな。点で保て」
影が、一枚の紙に小さな穴を開けた。
崩れない。飲み込まない。
ただ、そこにある。
言葉はない。
でも、分かる。
“こうだ”と。
「……できそうか?」
小さく頷く。
「はい」
「よし」
それだけ。
背後からノアさんが身を乗り出す。
「今の感覚でいけばーー」
「だから黙れと言っている」
振り向きもせずに言う。
「感覚で教えるな。理屈で支えろ」
「……善処します」
少しだけ、場の空気が緩む。
クロ先生は再びこちらを見る。
「大丈夫そうか?」
不意打ちだった。
少し迷ってから、答える。
「……はい」
一拍。
「それならいい」
声は低いまま。
その言葉は、叱責ではなかった。
確認のようだった。
「お前は、別に急がなくていいんだ」
静かに続く。
「力は逃げん…逃げられもしないが…」
一瞬、視線が柔らかくなる。
「俺が見ている」
短い宣言。
それだけなのに、背中を支えられた気がした。
土曜の訓練は、派手なことは何も起きなかった。
ただ、点を保つ。
広げない。
崩さない。
クロ先生は多くを語らない。
でも、不安定になりそうになると、いつの間にかすぐ傍に立っている。
何も言わずに、支えてくれる。
ノアさんはその後ろで、ややしょんぼりしながら見守っていた。




