6
翌朝。
ほとんど眠れないまま、学園の門をくぐった。
まぶたが重い。頭も少しぼんやりしている。
昨日の河原の光景が、何度も脳裏に浮かんでは消えた。
教室の扉を開けた瞬間、空気がひやりとした。
……静かだ。
いつもなら誰かの笑い声や椅子を引く音が混じっているのに、今日は妙に整いすぎている。
視線が、集まっている。
何か、おかしい。
「エリナ!」
リーネが早足でこちらへ来る。その後ろからヴィーもついてきた。
二人の顔は、いつもより硬い。
「気にしないでね」
開口一番、それだった。
「……何が?」
そう言ったとき、教室の奥から聞こえてきた。
「だから俺は見たって言ってるだろ!」
シモンの声だった。
胸の奥が、冷たくなる。
彼は教室の中央で、数人に囲まれながら腕を組んでいた。
いつもより少し興奮しているように見える。
「河原で、あいつ、地面を消したんだ。石も、土も。吸い込んでた。あれは普通じゃない」
ざわり、と空気が揺れる。
「闇魔法なんだろ? 危険に決まってる」
「いい加減にしてよ!」
リーネが振り向き、きつい声を上げた。
「ちゃんと見たの? 練習だっただけでしょ!」
「練習で地面がえぐれるかよ!」
教室の空気がさらに尖る。
ヴィーが小声で言った。
「昨日、シモンね……ノア様が帰ってきたって聞いて、会いに行ったらしいの」
ノア様。
その呼び方に、妙な引っかかりを覚える。
「そしたら、エリナが一緒にいたのを見たみたいで……」
胸が、ずきりとする。
シモンの視線が、まっすぐこちらに向いた。
「お前、自分で分かってるのか?」
教室中の視線が、私に集まる。
昨日の河原の空白が、脳裏に蘇る。
私は、唇を噛んだ。
「……ちょっと、制御が難しくて…」
声が、少しだけ掠れた。
「失敗したのはそう…です、でも…」
「ほらな」
シモンが遮る。
「失敗したって言っただろ」
ざわざわと囁きが広がる。
リーネが机を叩いた。
「誰だって最初は失敗するでしょ!」
「規模が違うって言ってるんだ!」
二人の声がぶつかる。
「だから見たんだって!」
「見間違いかもしれないでしょ!」
二人の言い争いはますますヒートアップしていき、私の方を怪訝にみる視線も増える。
空気が、重い。
昨日の闇の感覚が、胸の奥でわずかに揺れる。
吸い込んでしまいそうだ。
視線も、噂も、疑いも。
――怖い。
自分が。
一歩、息を整える。
「シモン」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「あなたが見た通り…だよ」
教室が静まり返る。
「だから、ここで学びにきたの」
嘘は言わない。
でも、怯えもしない。
自分の手のひらを見る。
昨日、何もかも吸い込みかけた手。
「これは、私の魔法だから」
沈黙。
シモンの表情が、一瞬だけ揺れる。
怒りとも、戸惑いともつかない色。
けれど次の瞬間、その迷いは消えた。
「……闇魔法は危ない」
はっきりとした声だった。
教室の空気が、ぴんと張る。
「昨日のあれを見て、何も思わない方がおかしいだろ。あんなの、もし止まらなかったらどうなってた?」
誰も答えない。
「悪いけど、俺は信じられない」
その言葉は、思ったよりも静かだった。
怒鳴るでもなく、嘲るでもなく。
ただ、線を引くように。
「どれだけ努力してるとか関係ない。危ないものは危ない」
教室のどこかで、小さく息を呑む音がした。
胸の奥が、ひやりと冷える。
シモンは私から視線を背けると、小さな声で言った。
「だから、あんまり近寄らないでくれ」
そう言って席に着いてそっぽを向いた。
リーネが小さく息を吐く。
ヴィーはそっと私の袖をつまんだ。
「大丈夫?私たちは怖いとか思ってないからね?私も昔は上手く魔法使えなかったもの。最初はしょうがないわよ」
優しく微笑んでくれたおかげで、少し肩の力が抜けた。
噂は、簡単には消えない。
一度広がったものは、土のように形を変えながら残る。
学園の朝の光が、窓から差し込む。
その明るさが、やけに鋭く感じられた。
ーーー
午前の授業は、ひどく長く感じた。
黒板の文字が頭に入ってこない。
後ろの席から、ひそひそと声がする気がする。
振り向けば、誰もこちらを見ていない。
けれど、見られている。
そんな感覚だけが、ずっと背中に張りついていた。
昼休み、食堂へ向かう廊下でも。
「……昨日の河原って」
「本当に地面が消えたらしいよ」
「闇って、やっぱり……」
言葉ははっきり聞こえない。
でも、“闇”という単語だけは、やけに鮮明だった。
トレイを持つ手が、少し震える。
寮へ戻っても同じだった。
扉の向こうで会話が止まる。
視線が、ほんの一瞬だけ刺さる。
何も言われていない。
責められてもいない。
それなのに、居場所が少しずつ狭くなるような感覚。
息が詰まる。
放課後の鐘が鳴った瞬間、私は席を立った。
リーネとヴィーが何か言いかけたけれど、笑ってごまかして教室を出る。
逃げるみたいだ、と思いながら。
足は自然と中庭へ向かっていた。
木々に囲まれた、あの場所。
ざわめきが届かない、少しだけ切り離された懐かしい空間。
石の縁に腰を下ろすと、やっと息が抜けた。
「……ここにいたんだ」
背後から、静かな声。
振り返ると、フィオルが立っていた。
ちょうど今ここにきたようで、向かいの椅子に腰掛けた。
相変わらず、少し距離を保った位置で。
「…大丈夫?」
それだけ。
教室での騒ぎを、彼は見ていたはずだ。
何も言わなかった。
誰の味方もせず、ただ静かに。
私は少し迷ってから、頷いた。
「……たぶん」
フィオルは小さく息を吐く。
「“たぶん”か」
どこかで聞いた言葉だと思って、少しだけ笑ってしまった。
彼は隣には座らない。
少し離れた場所に腰を下ろす。
「…噂、広がってるみたいだね」
責めるでもなく、同情でもなく、ただ事実として。
「…分かるよ」
その言葉に、顔を上げる。
「俺、光属性なんだ」
知ってはいたけれど、改めて聞くと少し意外だった。
彼の性格は、光というより影に近い気もする。
「しかも、生まれつき出力が高くて」
苦笑する。
「子どもの頃、転んだだけで周りを眩しくさせた…あと、窓ガラスを全部割った」
さらりと言うが、笑えない。
「光は“良い属性”って言われる。祝福とか、浄化とか。便利だって」
指先に、淡い光が灯る。
ふわふわと浮かんだ光は溶けるように煌めいて消えた。
木漏れ日と溶け合うような柔らかい輝きだった。
「でも、正直迷惑なんだよ。目立つし、勝手に期待されるし。怖がられもする」
光なのに。
その横顔は、どこか諦めに似ている。
「厄介なんだよ、魔法って」
ぽつりと落ちる言葉。
「便利さもある。でも、僕らみたいなのは人を遠ざける」
風が、木の葉を揺らす。
「……僕ら、ちょっと似てるのかもしれないね」
静かな声だった。
闇と光。
正反対のはずなのに。
胸の奥の重さが、少しだけ軽くなる。
「フィオルは……怖くないの?」
思わず聞いてしまう。
彼は少し考えてから、首を横に振った。
「怖いよ。自分の魔法が」
昨日、私が思ったのと同じ言葉。
「でも、きっと誰かの役にも立てる」
視線が、まっすぐこちらに向く。
「……自分の魔法に振り回されて、自分を見失うのが一番嫌だよね」
少し迷ってから、彼は照れくさそうに言った。
「大丈夫。魔法なんで関係なくて、君は優しい人だと思うから」
その言葉に、ふと、もし自分が魔法を使えなかったらどうなっていただろうと思った。
今でも実家で暮らしていただろうか。
でも、そうしたらリーネやヴィー、ノアさんやフィオルとで会うこともなければ、こうやって学園で学べることもなかった。
闇は吸い込む。
光は照らす。
でもどちらも、強すぎれば人を傷つける。
“似ている”
その言葉が、胸の奥にじんわりと広がる。
中庭は静かだ。
噂も、視線も、ここまでは届かない。
ほんの少しだけ、居場所が戻った気がした。




