09命の天秤
鼻を突く血の匂いが、肺の奥まで侵食してくる。
ハルは震える拳を強く握りしめ、目の前の無惨な光景に視線を固定した。床に転がった男の首、噴水のように溢れ出す血、そしてその中心で立つ青年。
「……お前、何をしてるんだッ!」
ハルの喉から、地を這うような怒号が漏れた。
一歩、足を踏み出そうとする。ポケットの中の斧を取り出し、今すぐにでもその歪な笑顔を叩き潰してやりたいという衝動が全身を駆け巡る。しかし。
「動かないで。そこから、一歩でも近づいたら⋯⋯この子の首を撥ねるよ」
青年が、足元で泣きじゃくるリリィの細い首筋に指を添えた。その指先には、光を反射して煌めく極細の「糸」が絡みついている。
ハルは金縛りにあったようにその場に凍りついた。歯が欠けるほど強く食いしばる。
「……いい子だ。まずは自己紹介からだよね。僕はルカ。見ての通り、人殺しだよ。さて、君の名前は?」
ルカと名乗った青年は、首をコテリと傾けて問いかけてくる。その瞳には、ハルの怒りも、現場の無惨さも、何一つ映っていない。ただ、深い霧のような狂気だけが映っている。
(……もし、今こいつの機嫌を損ねたら⋯⋯リリィちゃんの命が⋯⋯)
ハルは必死に昂る感情を押し殺し、絞り出すような声で応えた。
「……ハルだ」
「ハルくんか。いい名前だね。よろしく」
ルカは満足げに頷くと、血に汚れた手で髪をかき上げた。
「ハルくんが何を聞きたいかは分かっているよ。僕がなぜこの男を殺したのか、でしょう? 理由は簡単だよ。――可哀想だったからさ」
「……可哀想……? どういうことだ」
「そうだよ。可哀想じゃないか。この少女……リリィちゃんはね、必死に親を探して、ようやくこの男を見つけ出したんだ。なのに、再会した父親がなんて言ったと思う? 『お前は捨てたんだよ』『早く消えろ』――。ひどいよね。娘の純粋な愛さえ理解できないほど、彼は心が摩耗し、辛い思いをしていたんだなあって。だから、殺してあげた。苦しみから解放してあげたんだ。ね、これは優しさだろう?」
ルカは満面の笑みを浮かべた。その表情には一点の曇りもなく、本気で自分が正しいことをしたと信じ込んでいる。その純粋な悪意に、ハルの脳が焼けるような錯覚に陥った。
「ふざけるなッ! そんな、そんな勝手な理由で人を殺していいわけがないだろう! 命をなんだと思ってるんだ!」
「ハルくんは優しいんだね。……どうやら、僕と君は似ているらしい」
「……一緒にするな! 俺はお前みたいな狂人じゃない!」
「いいや、似ているよ。現に君は、見知らぬ、クズ同然の男の死に対して、これほどまでに激昂している。それは君が、他人の痛みを見過ごせない『優しい人』だからだ。ほら、僕と同じだろう? 僕は彼が可哀想だから救った。君は彼の死が悲しいから怒る。根っこは一緒だよ」
ルカの言葉が、鋭いナイフのようにハルの胸を抉る。理解したくない。理解できるはずがないのに、彼の放つ言葉はどこか抗いがたい説得力を持って耳にこびりつく。
「……ハルくんは、命をなんだと思っていると言うけれど」
ルカの目が、スッと細められた。
「君にとって、命とはなんだい?」
問いかけに対して、ハルの言葉が詰まった。
一ヶ月前。自分が奪った三つの命。その重み。価値。
言葉が出てこないハルを、ルカは見つめ続け、提案を変えた。
「それなら、質問を変えようか。今から、この二人のうち片方を殺す」
「……ッ! なに……!」
「ただし、僕が殺すのは、ハルくん――君が選んだ方だ。お母さんか、リリィちゃんか。君が決めて」
世界が歪んだ。
壁際で震える母親らしき女性と、足元のリリィ。ルカの指先にある糸が、死の処刑台のように死神の光を放っている。
「……君は、命は平等だと思うかい? 僕は思うよ。だって、みんな同じように辛い思いをして、同じように楽しい思いをして生きている。価値に差なんてない。……でも、ハルくんはどうかな。君にとって、命には優先順位があるのかい?」
「そんなことを知って、何になる……。何の意味があるんだよ!」
「僕の疑問が解決する。君について知りたいんだ」
「そんなことのために、人を殺すのか……! お前は、本当におかしいよ!」
「何か僕ばっかり答えているね。ハルくん、答えを知りたいなら、僕の質問に答えてよ。……さあ、選んで。十、九、八……」
ルカがカウントダウンを始めた。
ハルの頭の中はパニックに陥った。リリィを助けたい。でも、彼女を選べば、目の前で夫を殺されたばかりの女性が死ぬ。そんな選択、僕にはできない。
「……七、六、五……」
(どうすれば……どうすればいい! 斧を使っても、間に合わない。糸が動く方が早い!)
「……四、三……」
脳裏に、エマの顔が浮かんだ。あの時、彼女を守るために力を振るった結果、自分は彼女から恐れられる存在になった。今、ここでどちらかを選べば、自分はまた「死を選ぶ側の人間」になってしまう。
「……二、一。――さあ、どっちにする?」
ルカの不気味なほど穏やかな声が、審判の鐘のように響いた。
ハルは、奥歯を噛み締め、膝をついた。そして、地面に額を擦り付けるようにして頭を下げた。
「……頼む。二人とも助けてくれ。代わりに、俺を殺していい。俺の命を好きにしていいから……その二人には、手を出さないでくれ……!」
沈黙が流れた。
ハルの視界には、血に染まった床しか見えない。
やがて、頭上から「くくっ」という忍び笑いが聞こえ、それが大きな爆笑へと変わった。
「あはははは! やっぱり、君は僕と似て優しいんだね! 本当に素晴らしいよ、ハルくん!」
ルカは顔を真っ赤にして笑った、次の瞬間、表情を氷のように冷たくした。
「でも、ダメだよ。僕が与えた選択肢は二つだけ。それ以外を選んだ君の問いは、残念ながら『無効』だ」
「……!」
「だから、ルール違反の罰として――二人とも殺すね」
ルカの手が、残酷なほど軽やかに動いた。
ハルの視界がスローモーションになる。
放たれた死の糸が、空気を切り裂き、リリィと母親の細い首筋へと同時に迫る。
「やめてくれえぇぇぇ!!」
叫び。だが、ハルの行動は間に合わない。
絶望がすべてを塗りつぶそうとした、その刹那。
ジャラァァァンッ!!
硬質な金属音が響き、ルカの両腕が、虚空から現れた無数の「鎖」によって強引に拘束された。
死の糸が標的に届く直前で、ピタリと止まる。
「……おやおや?」
ルカがわずかに顔をしかめる。
壊された扉の方から、カツン、カツンと落ち着いた足音が近づいてきた。
「――これは一体、どういう状況だ」
ハルが振り向くと、そこには一人の男が立っていた。
白銀のプレートアーマーを纏い、腰には装飾の施された長剣。この世界の「騎士」を具現化したような、圧倒的な存在感を放つ男。
男の鋭い眼光が、血の海と、拘束されたルカ、そして絶望に打ちひしがれるハルを射抜いた。
「騎士……?」
ハルは呆然と呟いた。
【読者様へのお願い】
お読みいただきありがとうございます。
もし「面白い!」「続きが読みたい」と思っていただけたら
下の評価欄から ★★★★★ やリアクションで応援していただけると、執筆の大きな励みになります!
また、感想などを書いてもらえると、執筆する際に参考にさせてもらえるのでありがたいです!
よろしくお願いいたします!




