06償いの第一歩
視界いっぱいに、淡い桃色の雪が降っていた。
春。日本の、どこにでもある静かな午後の公園。
風が吹くたび、満開の桜の枝がざわめき、花びらが光を反射しながら宙を舞う。その一枚が、幼い春の鼻先にふわりと止まった。
「……あははっ、くすぐったい!」
小さな手で花びらを払う幼子の隣には、大きな、温かい存在があった。ベンチに座る父は、穏やかな陽光を浴びながら、目を細めて息子の姿を見つめていた。
「ハル。桜は綺麗かい?」
父の低い、けれど柔らかな声。幼子は元気いっぱいに顔を上げ、満面の笑みで答えた。
「うん! すっごく綺麗!」
「そうか。……ハル、綺麗なものを綺麗だと思える心を、ずっと大切にするんだよ」
「なんでえ?」
「いつか、ハルがおっきっくなったら分かるよ」
大きな手が、幼子の頭を優しく撫でる。その温もりが心地よくて、幼子は目を閉じた。この時間がずっと続けばいいのに。父の大きな手と、花の香り。世界はこんなにも優しくて――。
「……ぁ……」
目を開けた。
視界に映ったのは、桜色の空ではなく、無機質な白い天井だった。
父の手の感触は、いつの間にか、ひどく冷たく重い疲労感へとすり替わっている。
(……夢、か……)
春はゆっくりと上体を起こした。寝台の軋む音が、静かな室内にやけに大きく響く。全身が鉛を流し込まれたように重い。一呼吸置くだけで、肺の奥が焼けるように疼いた。
「お目覚めかしら。案外、早かったわね」
部屋の隅、影に溶け込むように椅子に座っていた彼女が、手元の本を閉じて立ち上がった。彼女はすでにあのトレンチコートを羽織り、いつもの隙のない「探偵」の姿に戻っている。
「……ここは?」
「悪いけどその質問は今から会う人にしてもらえない。あいにくスケジュールが詰まっているのよ。」
「動けるならついてきて」
彼女は春の体調を気遣うような素振りは見せず、部屋を出て行った。その冷たさが、かえって春には心地よかった。今の自分に同情なんて向けられたら、それこそ心が壊れてしまいそうだったから。
春はふらつく足取りで彼女の後を追った。部屋を出ると、そこは外のリンドールの街並みからは想像もつかないほど、洗練された空間だった。磨き上げられた廊下、等間隔に配置されたランプ。
廊下の突き当たり、重厚な扉の前で彼女が立ち止まり、軽くノックをした。
「失礼します。例の少年を連れてきました」
「入りなさい」
中から聞こえてきたのは、驚くほど落ち着いた、深い知性を感じさせる声だった。
扉が開かれると、そこは壁一面が本で埋め尽くされた広大な執務室だった。部屋の奥、大きな窓から差し込む夕日を背にして、一人の男が座っていた。
白髪を完璧に整え、体に馴染んだ仕立ての良いスーツを纏った、ダンディーな初老の男性。眼鏡の奥にある瞳は、すべてを見通すかのように鋭く、それでいて深い慈愛を湛えている。
「座りなさい」
男は机の向かいにある椅子を指差した。春はおそるおそる、その椅子に深く腰を下ろした。彼女は彼の後ろで、壁に背を預けて黙って立っている。
「話はすべて、アイリスから聞いているよ。……異界からこの地へ辿り着き、望まぬ力を振るわざるを得なかった。大変だったね。怖かっただろう」
その温かな言葉に、春は不意に視界が熱くなるのを感じた。だが、すぐに昨日の無残な光景が、血の匂いとともに脳内を蹂躙した。
「……俺は……俺はあいつらを、殺したんです。自分の意志があったのかさえ、分からないけど……あんな、ひどい殺し方をして……っ」
春は拳を握りしめ、震える声で絞り出した。
「償いきれない罪です。エマも言ってた……『人殺し』だって。俺は、もう……」
「ハル。自分を責める必要はない」
社長と呼ばれた男は、机の上で指を組み、静かに、しかし断固とした口調で言った。
「君が手に掛けたあの三人は、元々このリンドール周辺で凶悪な犯罪を繰り返していた指名手配犯だ。我々も国から依頼を受けてマークしていた連中だよ。君があそこで何もしなければ、今頃あの少女はこの世にいなかった。君が行ったことは、紛れもない正当防衛であり、人助けだ。それは罪ではない」
「でも……!」
「君が恐れているのは罪ではなく、自分の中にある『スキル』だろう?」
社長の言葉が、春の核心を射抜く。
「バーサーカー……アイリスはそう呼んでいたが、君のそれは呪いに近い異能だ。放っておけば君自身を焼き尽くし、周囲に災厄を振りまくだろう。」
社長は一度言葉を切り、まっすぐに春を見つめた。
「⋯⋯ハルくん。もし君に、行くあてがないのなら……ウチで働かないか?」
「え……?」
「ここは『ベルダン探偵事務所』。表向きは探偵事務所と名乗っているが、実態は何でも屋だ。依頼主が要望することを、法と正義の範囲内で代わりに遂行する。時には今回のように、国からの要請で危険な犯罪者を排除することもある」
春は絶句した。自分のような、いつ暴発するか分からない爆弾のような少年を、雇うというのか。
「……俺は、人を殺した人間ですよ。昨日まで、ただの学生だったのに……あんな風に、簡単に命を奪える自分は化け物だ。そんな奴が、探偵事務所なんてところで働いていいはずがない……」
「ハル、聞きなさい」
社長の声が、一段と低く、重みを増した。
「人を殺したことに罪の意識を持ち、その感触に怯えている。それは、君がまだ『人間』である証拠だ。本当に恐ろしいのは、何も感じなくなることだよ。もし、どうしてもその手が汚れたと感じるなら、その罪を償う方法は一つしかない」
社長は立ち上がり、窓の外を見つめた。
「その力を使って、失った命の分だけ、いや、それ以上にたくさんの人を助けなさい。誰かの涙を拭い、誰かの笑顔を守るんだ。それが、君が罪を償う方法だと私は思う」
沈黙が部屋を支配した。
エマの笑顔を思い出す。自分を助けてくれた、あの温かいスープ。
彼女はもう、自分を見て笑ってはくれないかもしれない。それでも、彼女に謝るために。
(逃げていても、何も変わらない。この『スキル』が消えないなら、このスキルで誰かを守る道を選ぶしかないんだ)
春は深く、深く息を吐き出した。震えていた肩が、不思議と静まっていく。
彼は顔を上げ、社長の瞳を真正面から見据えた。
「……ここで、働かせてください。……まだ、自分の力のことは怖いし、分からないことだらけだけど。でも、このまま罪から逃げるのは嫌だ」
社長の口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「いい覚悟だ。歓迎しよう、ハル。今日から君は、ベルダン探偵事務所の一員だ」
後ろで黙って聞いていたアイリスが、フンと鼻を鳴らした。
「物好きなことね、社長も。……いいわ、ハル。せいぜい私たちの足手まといにならないように、みっちり仕込んであげるから。覚悟しなさいよ?」
その言葉は厳しかったが、不思議と春には、新しい居場所への招待状のように聞こえた。
窓の外では、リンドールの街が暗闇に包まれている。
かつて夢見た桜の季節は遠い。
それでも、彼はこの世界で初めての居場所を手に入れた。




