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幻想にさよならを  作者: 猪西
見習い編
6/7

06償いの第一歩

 視界いっぱいに、淡い桃色の雪が降っていた。


 春。日本の、どこにでもある静かな午後の公園。


 風が吹くたび、満開の桜の枝がざわめき、花びらが光を反射しながら宙を舞う。その一枚が、幼い春の鼻先にふわりと止まった。


「……あははっ、くすぐったい!」


 小さな手で花びらを払う幼子の隣には、大きな、温かい存在があった。ベンチに座る父は、穏やかな陽光を浴びながら、目を細めて息子の姿を見つめていた。


「ハル。桜は綺麗かい?」


 父の低い、けれど柔らかな声。幼子は元気いっぱいに顔を上げ、満面の笑みで答えた。


「うん! すっごく綺麗!」


「そうか。……ハル、綺麗なものを綺麗だと思える心を、ずっと大切にするんだよ」


「なんでえ?」

 

「いつか、ハルがおっきっくなったら分かるよ」


 大きな手が、幼子の頭を優しく撫でる。その温もりが心地よくて、幼子は目を閉じた。この時間がずっと続けばいいのに。父の大きな手と、花の香り。世界はこんなにも優しくて――。


「……ぁ……」


 目を開けた。

 視界に映ったのは、桜色の空ではなく、無機質な白い天井だった。

 父の手の感触は、いつの間にか、ひどく冷たく重い疲労感へとすり替わっている。


(……夢、か……)


 春はゆっくりと上体を起こした。寝台の軋む音が、静かな室内にやけに大きく響く。全身が鉛を流し込まれたように重い。一呼吸置くだけで、肺の奥が焼けるように疼いた。


「お目覚めかしら。案外、早かったわね」


 部屋の隅、影に溶け込むように椅子に座っていた彼女が、手元の本を閉じて立ち上がった。彼女はすでにあのトレンチコートを羽織り、いつもの隙のない「探偵」の姿に戻っている。


「……ここは?」


「悪いけどその質問は今から会う人にしてもらえない。あいにくスケジュールが詰まっているのよ。」


「動けるならついてきて」


 彼女は春の体調を気遣うような素振りは見せず、部屋を出て行った。その冷たさが、かえって春には心地よかった。今の自分に同情なんて向けられたら、それこそ心が壊れてしまいそうだったから。


 春はふらつく足取りで彼女の後を追った。部屋を出ると、そこは外のリンドールの街並みからは想像もつかないほど、洗練された空間だった。磨き上げられた廊下、等間隔に配置されたランプ。

 廊下の突き当たり、重厚な扉の前で彼女が立ち止まり、軽くノックをした。


「失礼します。例の少年を連れてきました」


「入りなさい」


 中から聞こえてきたのは、驚くほど落ち着いた、深い知性を感じさせる声だった。

 扉が開かれると、そこは壁一面が本で埋め尽くされた広大な執務室だった。部屋の奥、大きな窓から差し込む夕日を背にして、一人の男が座っていた。


 白髪を完璧に整え、体に馴染んだ仕立ての良いスーツを纏った、ダンディーな初老の男性。眼鏡の奥にある瞳は、すべてを見通すかのように鋭く、それでいて深い慈愛を湛えている。


「座りなさい」


 男は机の向かいにある椅子を指差した。春はおそるおそる、その椅子に深く腰を下ろした。彼女は彼の後ろで、壁に背を預けて黙って立っている。


「話はすべて、アイリスから聞いているよ。……異界からこの地へ辿り着き、望まぬ力を振るわざるを得なかった。大変だったね。怖かっただろう」


 その温かな言葉に、春は不意に視界が熱くなるのを感じた。だが、すぐに昨日の無残な光景が、血の匂いとともに脳内を蹂躙した。


「……俺は……俺はあいつらを、殺したんです。自分の意志があったのかさえ、分からないけど……あんな、ひどい殺し方をして……っ」


 春は拳を握りしめ、震える声で絞り出した。


「償いきれない罪です。エマも言ってた……『人殺し』だって。俺は、もう……」


「ハル。自分を責める必要はない」


 社長と呼ばれた男は、机の上で指を組み、静かに、しかし断固とした口調で言った。


「君が手に掛けたあの三人は、元々このリンドール周辺で凶悪な犯罪を繰り返していた指名手配犯だ。我々も国から依頼を受けてマークしていた連中だよ。君があそこで何もしなければ、今頃あの少女はこの世にいなかった。君が行ったことは、紛れもない正当防衛であり、人助けだ。それは罪ではない」


「でも……!」 


「君が恐れているのは罪ではなく、自分の中にある『スキル』だろう?」


 社長の言葉が、春の核心を射抜く。


「バーサーカー……アイリスはそう呼んでいたが、君のそれは呪いに近い異能だ。放っておけば君自身を焼き尽くし、周囲に災厄を振りまくだろう。」


 社長は一度言葉を切り、まっすぐに春を見つめた。


「⋯⋯ハルくん。もし君に、行くあてがないのなら……ウチで働かないか?」


「え……?」


「ここは『ベルダン探偵事務所』。表向きは探偵事務所と名乗っているが、実態は何でも屋だ。依頼主が要望することを、法と正義の範囲内で代わりに遂行する。時には今回のように、国からの要請で危険な犯罪者を排除することもある」


 春は絶句した。自分のような、いつ暴発するか分からない爆弾のような少年を、雇うというのか。


「……俺は、人を殺した人間ですよ。昨日まで、ただの学生だったのに……あんな風に、簡単に命を奪える自分は化け物だ。そんな奴が、探偵事務所なんてところで働いていいはずがない……」


「ハル、聞きなさい」


 社長の声が、一段と低く、重みを増した。


「人を殺したことに罪の意識を持ち、その感触に怯えている。それは、君がまだ『人間』である証拠だ。本当に恐ろしいのは、何も感じなくなることだよ。もし、どうしてもその手が汚れたと感じるなら、その罪を償う方法は一つしかない」


 社長は立ち上がり、窓の外を見つめた。


「その力を使って、失った命の分だけ、いや、それ以上にたくさんの人を助けなさい。誰かの涙を拭い、誰かの笑顔を守るんだ。それが、君が罪を償う方法だと私は思う」


 沈黙が部屋を支配した。

 エマの笑顔を思い出す。自分を助けてくれた、あの温かいスープ。

 彼女はもう、自分を見て笑ってはくれないかもしれない。それでも、彼女に謝るために。


(逃げていても、何も変わらない。この『スキル』が消えないなら、このスキルで誰かを守る道を選ぶしかないんだ)


 春は深く、深く息を吐き出した。震えていた肩が、不思議と静まっていく。

 彼は顔を上げ、社長の瞳を真正面から見据えた。


「……ここで、働かせてください。……まだ、自分の力のことは怖いし、分からないことだらけだけど。でも、このまま罪から逃げるのは嫌だ」


 社長の口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。


「いい覚悟だ。歓迎しよう、ハル。今日から君は、ベルダン探偵事務所の一員だ」


 後ろで黙って聞いていたアイリスが、フンと鼻を鳴らした。


「物好きなことね、社長も。……いいわ、ハル。せいぜい私たちの足手まといにならないように、みっちり仕込んであげるから。覚悟しなさいよ?」


 その言葉は厳しかったが、不思議と春には、新しい居場所への招待状のように聞こえた。


 窓の外では、リンドールの街が暗闇に包まれている。

 かつて夢見た桜の季節は遠い。

 それでも、彼はこの世界で初めての居場所を手に入れた。


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