05咆哮
倉庫内の空気が、異様な高熱を帯びて膨れ上がった。
春の喉の奥から漏れ出たのは、獣のそれよりも低く、内臓を直接震わせるような重低音だった。言葉はもう、彼の中には存在しない。赤に染まった両目からは、陽炎のような赤いノイズが立ち上り、剥き出しの殺意が肉体を侵食していく。もはやそこには、昨日までエマとスープを囲んでいた少年の面影など、微塵も残っていなかった。
「……ッ!」
爆発的なエネルギーだけを乗せて、春の身体が弾け飛んだ。
踏み込んだ石畳が耐えきれずに砕け、凄まじい脚力によって放たれた突進は、もはや人間の動体視力の限界を超えていた。アイリスは瞬時に重心を低くし、紙一重でその暴威をかわす。空を切った春の拳が、背後の厚い石壁を直撃した。
ドォォォォォンッ!!
凄まじい破壊音とともに、壁に巨大な穴が空いた。飛び散った破片が彼女の頬をかすめ、一筋の紅い線を作る。春は壁にめり込んだ拳を引き抜く動作さえも攻撃に変え、反動を利用した回し蹴りを彼女の頭部へと叩きつける。
彼女はステッキを縦に構え、その一撃を受け止めた。しかし、受け止めた腕の骨が軋むほどの衝撃に、彼女の眉がわずかに跳ねる。
「いい威力ね。……けど、力任せだけじゃ私には届かないわよ」
彼女は不敵に言い放つと、ステッキの石突きで春のみぞを正確に突き上げた。続けざまに肩、膝、頸椎の横。神経が密集する急所を、目にも止まらぬ速さで打ち据える「点」の連撃。
普通の人間なら一度の打撃で失神し、熟練の戦士でも膝をつく一連のコンビネーション。だが、春はそれらすべてを物理法則を無視して「無視」した。
「――――ッ!!」
声にならない咆哮。ダメージを負うたびに、春の身体から溢れ出す赤いオーラが怒りに呼応して密度を増していく。
その時、春の右腕に纏わりついていた赤く透明なオーラが収束、変形していく。
(……あれは、何⋯⋯?)
彼女は目を見開く。春の拳の先に形成されたのは、この世界の技術体系――剣と魔法の概念には存在しないはずの、無骨で殺意に満ちた近代兵器、自動拳銃の形だった。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!
赤い閃光が連続して放たれる。放たれたのは弾丸ではない。純粋な破壊エネルギーだ。アイリスは流れるような動作でステッキを握る右手に力を込めた。銀色の鞘の中から、静かな金属音を立てて一振りの仕込み刀が姿を現す。
「シッ!」
彼女は抜刀の勢いのまま、飛来する赤い弾丸を正面から一刀両断した。空中で散る赤い火花。間髪入れず春は距離を詰め、右手の「銃」を溶かすように変形させ、今度はノコギリのようにぎざぎざとした長剣の形へと変貌させる。
キンッ! ガキィィィンッ!!
銀の刃と赤のオーラが火花を散らす。春の攻撃は荒削りだが、一撃ごとに重さを増し、その剣筋は戦いの最中でリアルタイムに彼女の動きを学習し、最適化されているようだった。突き、払い、叩きつけ。人間業とは思えない反射速度で繰り出される赤の連撃に対し、アイリスは最小限の動きでそれをいなし、常に春の視界の死角へと回り込み続ける。
しかし、バーサーカーの狂気は、より効率的な「目標」を検知した。
春の首が、ギチギチと音を立てて不自然な角度で青年の方を向いた。
壁際で無表情に佇む青年。春は彼女への執着を唐突に捨て、弾丸のような速度で青年に迫る。オーラが巨大な、身の丈を超えるほどの斧の形をとり、青年の頭上から、その存在ごと消去せんと言わんばかりの圧力で振り下ろされた。
青年は動かない。逃げようとも、防ごうともせず、ただ静かに迫り来る暴走を見つめ返している。
「――よそ見をしてる余裕があるのかしら」
春の死角、真横から、彼女の冷徹な瞳が割り込んできた。
彼女のステッキ――いや、抜刀された一振りが、春の脇腹を、一切の手加減を排して振り抜かれる。それは先ほどまでの打撃とは明らかに次元が違った。
ドガァッ!!
重い衝撃音が倉庫内に反響する。春の身体がくの字に曲がり、凄まじい風圧とともに反対側の壁へと叩きつけられた。石壁が蜘蛛の巣状に割れ、春の身体はその深くに埋まる。
激しい衝撃に、肺の中の空気がすべて強制的に吐き出された。赤色の瞳から光が消え、全身を覆っていた赤いオーラが、まるで電源を切られたかのように霧散していく。春はそのまま、糸の切れた人形のように瓦礫の中からずり落ち、石畳に沈んだ。
「……ふぅ。やんちゃすぎて困るわね」
彼女は仕込み刀を払うように一振りして鞘に納めると、乱れた前髪を無造作にかき上げた。青年が静かに歩み寄り、意識を失った春を見下ろす。
「……少し、やりすぎではないですか。死んでは元も子もありません。彼にはまだ聞きたいこともありますし」
「大丈夫よ、この程度で壊れるほど安物じゃないわ。……それより、カイル。今の見た?」
「はい。オーラの構造化……。本来なら具現化系のスキルを要することを、彼は身体系スキルである【狂戦士】でそれを成した。……彼の『スキル』は、私たちが知っているスキルとは違うのかもしれません。……で、これからどうするんですか。このままここに置いておくわけにもいかないでしょう」
「決まってるじゃない。……社長のところに連れて行くわよ。この案件は、私一人の独断で処理するには、少しばかり香辛料が効きすぎているわ」
「それに、社長ならロストについても詳しいばずよ」
彼女はトレンチコートのポケットから、銀色の懐中時計を取り出した。リューズを三回叩き、時計の文字盤を虚空に向ける。
「こちらアイリス。社長に会わせたい人がいるの。……ええ、後のことは事務所で話すわ。だから、ゲートをお願い」
彼女が告げた瞬間、何もなかった空気が、まるで鋭利な刃物で布を引き裂くように左右に分かれ、その奥に別の場所――リンドールの街並みとは違う、おしゃれな部屋に繋がる「ゲート」が姿を現す。
「カイル、彼を担いで。⋯⋯これから忙しくなるわよ」
彼女はゲートへと悠然と足を踏み入れた。カイルは小さく溜息をつくと、自分よりも背の高い春をひょいと肩に担ぎ、その歪んだ穴の中へと消えていった。
誰もいなくなった倉庫には、外の光だけが静かに降り注いでいた。
壁に開いた大きな穴と、砕けた石床。そして濃厚な血の匂い。それだけが、一人の少年がいた証拠だった。




