03朱に染まる
リンドールの午後は、あまりにも穏やかだ。
石畳を照らす柔らかな陽光。軒先に吊るされた色とりどりの花々が、風に揺れて甘い香りを振りまいている。
「ハル、あそこの香辛料屋さんだけ寄らせてね。お父さんに頼まれてたの忘れてたわ」
賑わう市場の入り口で、エマが振り返って言った。
「ここで待ってて。すぐ戻るから、迷子にならないでね?」
彼女はいたずらっぽく笑うと、雑踏の中へと消えていった。
一人残された春は、近くの石壁に背を預けた。ヘッドホンもない、スマホもない。聞こえてくるのは、活気に満ちた笑い声だけだ。
(……一人になると、余計に落ち着かないな)
十分が過ぎた。十五分、二十分……。
エマが戻ってこない。
(遅いな……。何かあったのか?)
胸をざわつかせる不安を抑えきれず、春は歩き出した。エマが入っていったはずの商店街を進むが、彼女の麻のワンピース姿は見当たらない。
(どこだ。どこに行った、エマ……)
商店街の奥、メインストリートから一本逸れた路地の入り口に、彼女が持っていたはずの買い物袋が落ちているのが見えた。中身の香辛料がこぼれ、ツンとする香りが鼻を突く。
その時、大通りから一本外れた薄暗い路地裏から、聞き覚えのある声が聞こえた。
「――やめて! 放して!」
間違いなく、エマの声だった。
春は弾かれたように路地へ飛び込んだ。湿ったカビ臭い空気と、ゴミの腐敗臭が鼻を突く。奥へ進むと、突き当たりの壁際にエマが追い詰められていた。彼女を囲んでいるのは、品性の欠片もない格好をした三人の男たちだ。
「いいじゃねえか、お嬢ちゃん。ちょっと俺たちの遊びに付き合えよ」
「ガキなんか放っておいてさ、俺たちと楽しいことしようぜ」
男たちの下卑た笑い声が響く。エマの肩が震え、その瞳には涙が溜まっていた。
「やめろ!」
春の声が、狭い路地に反響した。男たちが一斉に振り返る。
「あぁ? なんだ」
「ハル! 来ちゃダメ、逃げて!」
エマの叫び。しかし、春の足は止まらなかった。
恐怖がないわけではない。膝は笑っているし、心臓は壊れそうなほど脈打っている。だが、それ以上に自分を助けてくれた少女が汚されることへの怒りが勝った。
(来るはずだ……。異世界に来て、俺に何も起きないはずがない。何か……火でも、剣でも、何でもいい。こいつらを倒せる力を、今ここで……!)
物語の主人公なら、ここで力が覚醒するはず。
春は自分を鼓舞するように、一歩前に踏み出した。
来い。何か来い。
男の一人が、鬱陶しそうに鼻を鳴らした。
「ガキが、正義の味方ごっこかよ!」
「いいぜ。まずはてめえから片付けてやるよ」
先頭の男が、驚くほどの速さで踏み込んできた。春は反応すらできなかった。
腹部への重い一撃。
ドゴッ、という鈍い音。
腹部を抉るような衝撃。肺から空気がすべて絞り出され、視界が真っ白に明滅する。
「が……はっ……!」
崩れ落ちた春の頭を、別の男が容赦なく蹴り飛ばした。石畳に頬が叩きつけられ、口の中に生臭い鉄の味が広がる。
「ハハッ! なんだよ、威勢がいいのは口だけか! 英雄にでもなったつもりかよ、このゴミが!」
一方的な暴力の雨。蹴られ、殴られ、春の視界は次第に自分から流れ出た血で赤く染まっていく。
「お願い! もうやめて! お願いだから……っ!」
エマの泣き声が遠く聞こえる。彼女は男の一人に腕を掴まれ、路地のさらに奥へと引きずられていく。
(……くそ……。なんだよ、これ……)
その光景を、春は地面に這いつくばりながら見上げることしかできなかった。
身体が動かない。指先一つ、自分の意思で持ち上げることすらできない。
自分は主人公でもなければ、英雄でもなかった。
あの退屈な日常にいた時と同じ、ただの無力な高校生。何もできない、誰も救えない。
(俺のせいだ……。俺が弱いから……! ふざけるな……動けよ、俺の身体ッ!!)
自分への激しい嫌悪と、無力さへの怒りが頂点に達した、その時。
ドクン。
鼓膜を直接叩くような、巨大な拍動。
視界が、一瞬にして真っ赤なノイズで埋め尽くされた。
(あ、つい……。頭が、燃える……ッ!!)
春の両目が、まるで血を流し込んだような深い朱色に塗りつぶされる。
「……ああああああああああああああああ!!」
それは悲鳴ではなく、獣の咆哮に近かった。
同時に、春の意識は深い、暗い闇の底へと突き落とされた。
「っ……、ぅ……」
誰かが泣いている。
春はゆっくりと目を開けた。意識の底から無理やり引きずり出されるような、最悪の目覚めだ。全身を包んでいるのは、先ほどまでの激痛ではない。心臓が異常な早さで脈打ち、全身の筋肉が軋むような、おぞましいまでの「熱」だ。
「……エマ?」
目の前に、エマが座り込んでいた。
彼女は、ガタガタと全身を震わせ、ひきつった顔でこちらを見ている。
その瞳に無邪気な笑顔はなかった。
そこにあるのは、純然たる「恐怖」だ。
「いや……こないで……化け物……っ!」
「……え?」
春は、何のことだか分からず、立ち上がろうとした。
そこで、自分の手が、肘のあたりまでべっとりと「真っ赤」であることに気づいた。
それだけではない。元の色が判別できないほど、全身がおびただしい量の返り血を浴びている。
春は恐る恐る、自分の背後を振り返った。
そこにあった光景に、彼は胃の中のものをすべてぶちまけそうになった。
「あ……ああ、……っ」
さっきまで自分を嘲笑っていた三人の男たちがいた。
しかし、それはもう「人間」の形を留めていなかった。
一人は、首が不自然な方向に折れ曲がり、壁に突き刺さっている。
一人は、まるで猛獣に喰い荒らされたかのように、胴体から上が消失していた。
最後の一人は……路地の壁に、真っ赤な肉片としてこびりついている。
路地裏の湿った空気の中に、濃厚な血の匂いが立ち込めている。
自分の返り血が、ポタポタと石畳に黒いシミを作っていく。
(俺が……やったのか? 意識がない間に……俺が……?)
記憶にない。自分にこんな力があるはずがない。
だが、体は、肉が焼けるような熱を放ち、春の意思とは無関係に小刻みに震えていた。
「エマ、待って……違うんだ、俺は、俺は君を助けようと……」
春が血まみれの手を伸ばそうとした瞬間、エマは「ひっ……!」と喉を鳴らして立ち上がり、転がるように路地を走り去っていった。
「嫌ぁぁぁぁぁっ!! 来ないで!! 人殺し!!」
彼女の絶叫が、夕闇が降り始めた街に響き渡り、遠ざかっていく。
助けたはずだった。守りたかった。
しかし、彼女が最後に自分に向けたのは、あの爆発の現場で俺がガスマスクの男に向けていたものと全く同じ、怪物を見る視線だった。
立ち尽くす春の膝が折れる。
自分が誰なのか。何をしてしまったのか。
平和な世界の住人が自分を「人殺し」と呼んだ。その事実が、砕けた心に深く突き刺さる。
「……ひどい有様ね」
背後から、落ち着いた、しかしどこか冷ややかな声がかけられた。
春が泥のように重い頭を向けると、そこには一人の女性が立っていた。
時代錯誤なトレンチコートを纏い、ハンチング帽の間から見える鋭い眼光が、惨状と春を交互に見つめている。まるで事件現場の証拠を検分する、探偵のような佇まいだ。
「君がやったのね。……いいえ、君の中にあるスキルが暴れた、と言うべきかしら」
「……あなたは……、だれだ……っ」
春がふらつきながら問いかけ、一歩踏み出そうとした。その瞬間。
――カツン、と乾いた衝撃が首筋に走った。
女性の手元にあったステッキの柄が、目にも止まらぬ速さで春の頸動脈を正確に捉えていた。
「……っ、が……」
声にならない吐息が漏れる。脳への信号が瞬時に遮断され、視界が急速に狭まっていく。
重力に逆らえなくなった身体が、血まみれのまま石畳へと崩れ落ちる。それを、女性は眉一つ動かさずに見下ろしていた。
女性は銀色の懐中時計を取り出し、カチリと蓋を閉じた。
夕闇が路地裏を支配し、惨劇の跡と意識を失った少年を、静かに飲み込んでいった。




