02見知らぬ天井、見知らぬ世界
肺の奥に、見知らぬ土地の湿った空気が入り込む。
重たい泥の中から這い上がるようにして意識を浮上させた。最初に意識を起こしたのは、微かなカビの匂いと、古い木材が放つ独特の甘い香りだ。
まぶたを押し上げると、そこには視界を圧迫するような、太い剥き出しの線が走る天井があった。
「……っ、げほっ……」
咳き込むと、あの時の爆煙が残っていた。 春は震える腕に力を込め、きしむベッドの上で半身を起こす。
(爆発は……あの時俺は……)
脳裏を掠めるのは、あのガスマスクの男の無機質なレンズだ。駅前の喧騒を蹂躙した、あの圧倒的な破壊。春はふらつく足取りで床に足を下ろした。
冷たい石の床が、足の裏から体温を奪っていく。壁を支えに窓際までたどり着き、立て付けの悪い木の窓枠を力任せに押し開けた。
「…………なんだ、これ」
窓から流れ込んできたのは、驚くほど澄み切った、それでいて土の匂いが混じった風だった。
視界の先に広がっていたのは、彼が十八年の人生で一度も目にしたことのない光景だった。
石造りの家々が複雑に入り組み、レンガ造りの煙突からは細い煙が立ち上っている。舗装されていない道には、重たげな荷を引く馬車がゆっくりと歩いていた。
電柱も、信号機も、一台の車すらもない。
(嘘だろ……。もしかして俺は異世界に⋯⋯)
呆然と立ち尽くしていた春の耳に、背後で扉がギィと鳴る音が届いた。
「あら、気がついたの? 無理に動いちゃダメよ、まだふらふらするでしょう」
振り返ると、そこには自分と同じくらいの年をした少女が立っていた。麻のワンピースを着ていて、手には湯気の立つ木のボウルを抱えている。
「あ……。えっと、ここは……」
「私の家よ。街の路地裏でぼろぼろになって倒れていたあなたを見つけてここまで運んだのよ。もう三日も眠り続けていたんだから」
エマは卓にボウルを置くと、椅子を引いて座るよう促した。中には麦を煮込んだ、素朴な香りのするスープが入っている。
「……助けてくれて、ありがとう。ええっと⋯⋯」
「お礼なんていいわよ。私の名前はエマよ。 それより、顔色がまだ悪いわ。まずはそれを飲んで」
春は言われるがままにスープを口にした。塩気が強く、少し甘く、体が芯から暖まるのが分かった。
「……美味しい」
「よかった。私の自慢料理なの。……それで、 あなたどこから来たの? その……着ていた服も、見たことない不思議な服だったし」
エマが身を乗り出して尋ねる。春の手が止まった。
何を言えばいい。日本? 東京?
もしここが本当に異世界なら、そんな言葉が通じるわけがない。
「……それが、よく思い出せないんだ」
「えっ、名前も?」
「……ハル。名前は、ハル。でも、それ以外が……。気づいたらここにいて、それまでの記憶が霧がかかったみたいに真っ白なんだ」
春は視線を落とし、記憶喪失を装った。嘘を吐く胸の鼓動が耳の奥でうるさく響く。
エマは痛ましそうに眉を下げた。
「記憶喪失⋯⋯。でも、大丈夫よ。ここは王都リンドール。精霊の加護がある、とっても平和な街だもの。ゆっくり思い出せばいいわ」
「リンドール?」
「ええ。みんな神様から授かった『スキル』を活かして、助け合って暮らしているの。争いごとなんて、昔の物語の中でしか聞いたことがないわ」
「スキル……。それって魔法みたいなもの?」
春の問いに、エマは目を丸くした。
「ハル、本当に何も覚えてないのね……。スキルっていうのは、生まれた時に神様から授かる『神様からの贈り物』よ。例えば私は【洗浄】。触れたものの汚れを落とすことができるの。家事なんかする時に役に立つんだよ?」
「【洗浄】……。じゃあ、人によって違うスキルが手に入るってこと?」
「そう。お父さんは【火加護】。料理の火加減を完璧に操れるの。隣のパン屋さんは【発酵促進】。みんなそれぞれ違うスキルを持っていて、それを一生大事にするのよ」
「……スキルは、一人に一つだけ?」
「ええ、当たり前じゃない。二つ持つなんて聞いたこともないし、変えることもできないわ。」
「……授からなかった人は、どうなるんだ?」
「授からない人なんていないわよ。神様は平等だもの。ハルだって、絶対にあるはずよ。まだ思い出せていないだけで」
エマは疑いようのない善意で笑った。
確かに、俺も異世界に来たのならチートスキルを神様から授かってもおかしくないのでは。そんな期待を膨らませていた時。
「……もし、もう体が大丈夫なら。街を見に行かない?自分の目で見てみれば、何か思い出せるかもしれないから」
「いいの?」
「いいわよ! お買い物に行くついでにこの街を案内してあげる」
エマに連れられ、春は外へ出た。
一歩踏み出した瞬間に押し寄せたのは、石畳を叩く馬の音と、人々の穏やかな喧騒、あちこちから聞こえる露天商の威勢の良い掛け声、干し草と家畜の匂い。
道端では、手から火を出したりして料理を作っている人もいれば、スキルを持つ人が馬車の馬となだめるように話している。
(……きれいな世界だ。本当に、誰もが幸せそうに見える)
「見て、あそこのおじさん。スキルの【熱風】でガラスを加工してるの。あっちの人は【調律】で楽器を直してる。すごいでしょ?」
「……ああ。みんな、スキルを使ってるんだな」
「そうよ。自分のスキルが誰かの役に立つ。それがリンドールの誇りなんだから」
春は、エマの後ろをついて歩きながら、周囲を観察した。
(本当に、俺は異世界に来たんだな⋯⋯。でもなぜ俺はこの世界に来たんだ?あのガスマスクの男が俺をこの世界に⋯⋯)
「ハル? どうしたの、難しい顔して」
「……いや、なんでもない。ただ、あんまり綺麗すぎて、現実じゃないみたいだと思って」
「ふふ、変なハル。これが私たちの現実よ」
エマが笑って春の腕を軽く引いた。
その瞬間、春の脳内に、ドクンと嫌な鼓動を打った。
頭の中で、赤いノイズが奔る。
(……なんだ、今のは……?)
あのガスマスクの男に触れられた場所が、熱い。
「⋯⋯ハル、大丈夫?」
エマの明るい声が、春の不安をかき消そうとする。
「大丈夫、ただの立ちくらみだから」
「本当に⋯⋯もしまだきついなら戻ろうか?」
「ありがとう。でも、もう大丈夫だよ」
春は自分の身体の中で、何か分からない異 物があるのを感じながらも、エマの後ろをついて行った。
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